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拾漆;彼方(かなた)

「座ろう」

 ニタの声に呪縛が解けて、わたしやが消えた岩を見つめたまま呆然と立ち尽くしていたカシラとヒメは、促すように座ったニタに従い岩の上に腰を下ろした。大岩は閉じたが、洞穴の縁と大岩の間には紙一枚ほどの隙間が空いている。そこから次第に明るくなっているのであろう、明け方の薄光が忍び込み、お互い姿が確認出来る程度の明るさがあった。

 ニタはそんな薄闇の中でも不安げな様子がありありと見える二つの影に話し掛ける。

「ここまで来たからには、もう迷うことなく進むしかない。ヤブさんが言っていた時を待ちましょう」

 この先、もう頼もしいわたしやはいない。自分が率先しなくてはならない。ニタは自身の不安を心の奥底に隠しながら、二人の不安を除こうとするのだった。

「アチラもコチラと変わりはないというから……」


 それからどれだけ待ったのか。実際には僅かな間だったがニタには一時ほどに感じた後。

「あれは!」

 最初に見つけたカシラがニタの袖を引く。

「いわど、か」

 それは洞穴の奥、粗く削られた岩壁に漂う霧のように見えていた。その霧はあっという間に濃くなって行き、内側から微かに発光し始める。すると霧と見えたものは上から下へと流れる滝の様に変化し、次第に透明度を増すと、その『水』の流れは渦を巻くように回転して、他に較べるもののない七色に変化する膜に変った。

 虹色の全ての色へ順繰りに変化する薄い膜に渡人たちは目を奪われ、息を呑んだ。漸く我に返ったニタが、

「さあ、行きましょう、消えてしまわないうちに」

 カシラとヒメに声を掛け、その膜に近付く。未知の驚異に怖気付きそうになる己を叱咤し、ニタは、

「先に行きます」

 そして念を押すように、

「必ず、付いて来るのですよ」

「大丈夫です」

 カシラは覚悟を決めた顔付きで、

「先に進むしかないのですから」

 ヒメも頷くのを見てから、ニタは、

「では」

 ニタは一息吸うと膜に向かって歩く。ふと、この膜は只の煙で、その先に岩の壁があるだけではないか、との疑念が涌き、足取りが乱れそうになるが、ヤブと役者の力強い頷きを思い出し、後は止まることなく歩き続けた。


 膜に当った瞬間、絶え間なく洞穴に響いていた水音や風の音、それらの一切合財が消え去る。身体が重くなり、動き辛い。その重さに底無しの沼を連想し震えが走るが、ニタは意思の力でそれを振り払った。

 ここは薄暗い空間だが、闇の中と言う程の事はなく、深い森の中で光がこんもり繁った木々に遮られ景色が淡い影の中にある様に、蒼色に染まって見えていた。決して狭い訳でもなく、左右も天井もどこまでも広がっている様に見える。しかし、迷うことはなかった。既にニタの視線の先、ぽつりと光の穴が見えていたのだ。

 その前方に見える『出口』の光に向って目に見えない『河』の流れでもあるのだろうか。頭が後ろから巨人の手に捕まって無理やり前方に押されて行くかの様で、ニタはその力に押されるまま歩き続ける。続いている筈の二人はどうしたのだろうか、と振り返ろうとするが、これも『巨人の手』が許さず、頭に力を入れても振り返る事が適わない。音も無いのでそのまま後退りをしようと試みるが、これも適わなかった。

 ニタは諦めてその流れのまま、次第に明らかとなる出口へと歩いて行った。そして遂に出口を目前にし、入り口と同じその薄い膜を突き抜けると、途端身体が再び軽くなり、自分のものとなったのを感じた。まるで水中から上がった様に音が聞え、光が溢れる。


「おお、来た来た」

 その声に驚いたニタは、そちらを見てから思わず手を遣り目を庇った。光が、眩しい。そして光は、今まで凍え掛けていたのが嘘の様に温かくニタを包む。

「これは」

 カシラがニタと同じ様に右手で庇を作り茫然と見回している。その後ろ、これも面伏せて眩しい光から顔を逸らすのはヒメ。すると声が。

「まあ、よく来たな。ひい、ふう、みい。もうひとりは?」

 すると別の声が、

「もうひとりは、だめだったんだな」

 光は朝日だった。薄い橙色の陽が杉木立の間から丸く覗いて、光が真っ直ぐに差し込んでいる。その光に縁取られ、二つの影がある。ニタは、薄目を開け、手で陽射しを遮って二人の姿を確かめる。その顔を認めるや自然、笑いが湧き上がった。

「なんだい、何が可笑しい?」

 影の片割れ、肌の浅黒い男が憮然とする。

「わたりきって安心したんだろうよ」

 もうひとりの方、肌の白い美男がそう言って、

「さあさ、そんなとこいねえで、こっちへ上がって来い」

 言われて初めて、ニタは自分の居る場所が二人の立つ畝からなだらかに坂になり、踝まで落葉が降り積もった窪地だと気付く。ニタは頷くと所々斜面から突き出た岩を手掛かりにして登る。続いてカシラとヒメも窪地から這い上がった。

 三人の渡人が目の前に立つと、色黒の男が満足そうに笑んで、

「無事で何よりだったな。よう来た」

 人の良さそうな男は続いて、

「さあさ、これからあんた達を渡人の里へ案内するからよ。腹減ってんだろ?まずはおれの家に寄って腹ごしらえしてさ、そんで――」

「ヤブさんが言っていた意味が分かったよ」

 突然ニタが割って入り、その声に色黒の男は小首を傾げた。

「意味だあ?」

 ニタは何でもない、と首を振りながら懐に手を入れ、

「はい、ヤブさん。これは向こうのヤブさんからあなたに渡すよう預かったものだ」

「ほう、奴さんは元気だったかい?」

 すると何を思ったのかニタは杉木立に覆われた空を見上げ、暫くそのままでいた。やがて深い吐息と共に呟く。

「元気だった。私達を全力で渡してくれた」

 そしてニタは深々と頭を垂れる。その目には涙が浮かんでいた。

 自分達に向かって礼をする渡人に困惑しながら、二人の男たちはお互い顔を見合わせ、訝しげにニタを見つめていた。


 翌日の夜半過ぎ。

 カタンという音に女は目を覚ます。

「おや、お帰りかい」

 寝具から身を起こす女の声に答えることなく、引き戸を閉めた役者は蓑を乱暴に脱ぎ捨てる。泥と黒ずんだ血糊に塗れたその姿はまるで幽鬼の様。役者の尋常でない様子に女は眉を顰め起き上がり、

「怪我をしたのかい?」

 役者は無言で頭を振る。

「ほら、そこんとこに座んな」

 女の優しい声に役者は声なく上がり框にどさっと腰を下ろす。草鞋を外し脚絆を無造作に脱ぎ捨て、四つん這いの格好で板の間に這い上がった。

「随分と大変だったようだねえ」

 苦笑する女が湯呑に白湯を汲む。それを役者の脇、床の上にとんと置くや役者は途端貪る様に中身を飲み干した。その様子をおやまあと眺めていた女は、

「腹減ってんだろ?待ってな、今何か作るから」

 役者は己が住処に入ってから初めて口を開いた。

「いらない」

 更に掠れた声で、

「寝かせてくれ」

 女は軽く肩を竦めると水甕の前にある棚から桶を下ろす。竈の熾きに薪をくべると釜の中、熾きで程よく温まっていた湯を桶に張った。

「ほれ、そんなもん脱いじまいな。こいつでさっぱりするといいよ」

 しかし、答えはなかった。女が振り返ると、役者は先程床に蹲ったそのままに伸びていた。女が桶と手拭片手に近寄ると、すーすーと寝息が聞こえて来る。

 深い吐息とともに、桶と手拭を置いた女はやれやれと愚痴った。そして、うつ伏せに倒れこんだままの役者の脇に手をいれ、ひょいと体を仰向けにする。躊躇無く帯に手をやると手際よく汚れた小袖を剥ぎ取るように脱がせた。すると、襦袢の下から現われたのは白い晒。女は使い古した晒を役者の身体を転がす様にしてくるくると剥ぎ取る。更に股引と褌も取り去り、すっかり全裸にすると手拭を湯に浸す。

 熱い湯を潜らせた手拭は、固く絞られても尚盛大に湯気を上げている。女は手拭を白い身体にあて、先ずは手先足先、手桶と身体を往復して泥と打ち身、山守の爪に掠られた跡や擦り傷だらけの身体を拭い清めて行く。

 ふと、手を止めた女は深い吐息を吐き、改めて白い体を惚れ惚れと眺めた。人差し指を細い項から胸の頂にまですうっと滑らせると、もう我慢がならない。

 女が顔を埋めたのは小柄な身体に似合わぬたわわな二つの小丘。女が抱き付いても役者は深い眠りの中、夢も見ることなく昏々と眠り続けていた。


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