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拾陸;いわど

 空が曙光を感じさせる藍色を見せ始めた頃。一向は深い森の中にいた。


 見た事も聞いた事もなかった人妖の襲撃に、精も根も尽き果てた渡人たち。それでなくとも馴れぬ山野の踏破で体力が限界に近いヒメとカシラの二人は、森で拾った倒木の枯れ枝で即席にこしらえた杖に縋りつつ、一歩一歩よろめく様に進んでいた。若き勘定方の一人として御狩場の守護を役目としていたニタは、二人よりは体力に余裕があったものの、山守が残した傷や天守から受けた精神攻撃から回復し切れていなかった。

 渡人達は時折慰める様に諭すヤブや、立ち止ると後ろから背を押し先を促す役者に助けられ、一歩、更に二歩と歩を進める。最早、歩くことは彼らにとって生きることと同義になっていた。

 一方、さすがのわたしや二人も深い疲労の色は隠せず、その足取りこそ乱れはないものの、時折立ち止っては背を伸ばし空を見上げ、深く息を吸う、そんなことが繰り返された。立ったままの小休止は幾度繰り返されただろうか。その都度、各々火縄衆から分け与えられた水を竹筒から飲んだ。

 ヤブは必ず全員が水を口にした事を確認した。疲労が激しい時は水を採る事が生死を分けると知っていたからだ。全員が重い身体に鞭打って動き出せば、再び先頭を切るのはヤブだった。

 やがて、森の小路は二つに分かれ、ヤブは迷うことなく細い左側の路を行く。通行量が少ない事が一目で分かる獣道の様な小路には、左右から枯れた雑草が倒れ行く手を遮り、ヤブは取り出した小鉈で草を打ち払いつつ進む。すると森は次第に開けて樹々の間隔が空いて行き、落ち葉が一面に敷き詰められた林へと変って行った。

「止まるぞ!」

 先頭を行くヤブが声を掛け、小路の脇に止る。渡人の三人ともに無言で俯き、三人共その場で両手を膝に、肩で息をした。

「さあ、着いたぞ」

 ヤブが満足そうに告げる。

「ここが?」

「祈りの森だ」

 カシラの問いにヤブがはっきりと答えた。

「本当なら、ここで刻限まで待つもんだが。今日はもう時がない。少しだけ休んだら直ぐに『いわど』へ急ぐ」


 ヤブは懐中提灯を手に小路から斜面を下って行き、地面を這う様に枝を張る松の木々の下に入る。おっかなびっくり続く渡人。その後ろから役者が続いた。

 這松の林は、丁度背の高い男が背伸びをして届く程度の所を松の枝葉が覆い、緑の天井となって雨風を防いでいる。地面は落ちた松葉で覆われて、ふんわりと柔らかい。寒々とした森からここへ入ると、誰もがほっと息を漏らした。

 ヤブは地面に見え隠れする松の根を跨ぎながら更に奥へと分け入った。やがて大きな岩の壁が行く手を塞っているのが見えて来る。

「ちょっと待ってろ」

 一声掛けたヤブは、その岩の壁に出来た隙間から中へ入った。暫くすると岩の上から明りが漏れ出し、松の天井を浮かび上がらせる。それが移動して行くのが見て取れ、動く先々で次々に明りが増えて行く。


「いいぞ」

 ヤブが松明を手に出て来る。今までは強盗がんどう提灯を模した『火龍』の灯りだけを目にして来た渡人たちには眩しいくらいの灯。

 ヤブに続いて岩の裂け目から中に入ったニタが目にしたものは……

 岩の壁に囲まれた別天地、とでも呼べばいいのだろうか?岩壁に差した十ばかりの松明にぼんやりと浮かび上がるそこには、捻じれた松の大木が十数本、深い緑に苔生こけむした石で組み上げた室がいくつかと水を湛えた泉があり、地面は天を覆う松の枝から落ちた松葉が敷き詰められ、黄金の敷物を広げたようだ。奥の岩壁から張り出した大岩に隠された先からは湯煙が漂っている。

 岩に囲まれた泉には赤と白の錦鯉が数匹泳いでいた。辺りの美しい光景に気を引かれ、疲れを少しだけ忘れたカシラが泉の中を珍しげに覗き込む。すると役者が後ろから、

「毒がないか確かめるために放してあるんだ」

 面白くもなさそうにそう言うと、竹筒を岩肌から噴き出す水に当て汲み出したので、カシラも自分の竹筒を満たすことにした。

 水を汲み終わると、役者は石で組んだ室から薪を取り出し、車座に設えた石床の中央にある炉の中へ無造作に投げ込む。火口箱から燧石を取り出しもぐさに……等と言う面倒なことはしない。熊皮の背負子から火龍油の入った竹筒を出すと薪の上に注ぎ、いきなり火龍で火を付けた。

 赤々と燃え上がる焔が温かく、自然と皆が寄って来る。それを見ていたヤブは苦笑しながら、

「まあ、茶くらい飲む時間はあらあな」

 ヤブは炉の脇から鉄瓶を取って、甕から柄杓で水を汲んでその中に入れ、炉の上に乗せた。

 その先、岩に囲まれた場所からは盛大に湯気が上がっている。岩陰からその先を覗いたニタは、岩から流れ下る湯が岩間に溜まり、そこから湯気が上がっているのを見た。

「湯泉だ。ここのは熱くて気持ちがいい」

 その様子を見ていたヤブが、車座の石床から声を掛けた。そして振り返ったニタに向けて肩を竦めると、

「残念だがな、入ってる間はねえぞ。今夜は諦めなくてはなんねえ」

 鉄瓶に薬草茶を入れながらヤブが続ける。

「時間があればここで少し休んで刻限を待つんだがね。これを飲んだら直ぐにでも『いわど』に行かなくちゃなんねえ」

 一同が石床に座り、ヤブが木の椀に注いだ薬草茶を役者が無言で皆に配る。思わずヒメが咳き込むほど、ぴりりと辛く苦い茶だった。ヤブは笑うと、

「目が覚めるだろう?誰かお代わり要らんか?」

 しかし、誰も貰うという者はいなかった。


 皆が茶を飲み終わるか終わらないかという僅かな後。

「行くぞ」

 立ち上りながらヤブは声を掛ける。役者は砂を被せて炉の火を消し、ヤブは動作の鈍くなった渡人を急き立て、点けたばかりの松明を消して回り、出発する。既に東の空がぼんやりと明るくなっていた。


 祈りの森から『いわど』まではほんの一町ほどだった。そこは渡人たちの目には全く今までの森と変わりのない場所。

「あれがそうだ」

 ヤブが指し示す岩は、今までも時折見かけていた大岩と何の違いもないものだった。

「これが?」

 多少戸惑いながらニタが問う。

「間違いねえ。こいつが『いわど』さ」

 ヤブはちらっと空を見上げ、

「ぐずぐずしちゃなんねえ。もう刻限が近い。さあ」

 ヤブは役者に目配せすると、二人してその大岩の一角に取り付いてぐいっと押した。すると見掛けに因らず岩はぐらりと動き、その下にぽっかりと洞穴が覗く。

「さあさ、入るんだ」

 ヤブがその隙間からするりと洞穴に滑ると、役者が手を貸してカシラ、ヒメ、ニタの順番で穴に降ろし、自分も後から滑り降りる。

 そこは人なら十人ほどが立っていられる空間で、周りは岩の壁だった。所々石切鑿で荒く削った跡が見え、自然に出来た洞に手を加えたものだと分かる。天井に当たる大岩は、先程わたしやがたった二人で動かすことが出来たほどこの洞穴の上に不安定な形で乗っていて、開いたその隙間から明けの刻の薄明が差し込んでいる。お陰で松明やら灯明やらを焚かなくとも辛うじて物の輪郭が分かる程度の明るさがあった。どこから聞こえるものかちょろちょろと水が流れ下る音や、岩の隙間から入り込む風の音などが不気味に木霊している。


「いいか、刻限も迫っているし、一度しか言わねえ。よく聞けよ」

 不安げに周りを見回している渡人に、ヤブは掻い摘んで『いわど』の次第を伝える。

 曰く。いわどは三日に一度、日が昇る刻限に開くこと。その時間はその時折で変化して短い場合、四分の一時もないこと。

 曰く。いわどと言うのは単なる名称で、実際はこの洞穴の中に生じる『彼方』への扉であること。その姿はまるで渦を巻く水の様で、この世に比べるものがないこと。

 曰く。いわどが現われたら、迷うことなくそれに突き進み、真っ直ぐに向こうへ抜けること。迷いを生じれば、この世ともあの世とも付かぬ、『此方』と『彼方』の狭間に落ち込んで。永遠に暗闇を彷徨うことになる……

「いいか。もうすぐだ。ここで待っていればいわどが現れ、程なく『彼方』へ渡れる」

 ヤブは一気に話し終えると、洞穴を塞ぐ大岩に手を掛けてから何かを思い出し、

「おっと、忘れるとこだった」

 ヤブは懐に手をやると、何か書状らしきものを包んだ油紙を取り出す。

「ニタさんよ、こいつをアチラにいるおれの知り合いに渡してくれないかい?」

 ニタは頷くと油紙を受け取り、

「それで相手の名前は?」

 するとヤブは疲労の色濃い顔に微かに笑みを浮べる。

「ヤブ、だ」

「え?」

 朱ヶ原以来むっつり沈み込んでいた役者も思わず笑みを浮べる。

「ああ、アチラのヤブさんに渡してくれればいい」

 戸惑いつつもニタは、

「では、そのヤブさんはどこに行けば会えるのかい?」

 ヤブの笑みが完全な笑いとなる。

「それはアチラへ渡れば、嫌が応にも分かるよ」

 そして、顔を改めると、

「ではな」

「私達が、その……行くまで見送っては頂けないのですか?」

 カシラが驚いたように言う。ヤブは肩を竦め、

「ここには、渡人しか居ちゃならねえんだよ。事前に知らせた人数だけがここにいて、そして渡るんだ。おれたちはここでお別れだ」

「そんな……」

 カシラは絶句する。僅か一日前の出会いからここまで。それは時としては短かったが、カシラにとってこの一日は半生分の長さだった。

 追手に迫られ、駆け込んだわたしやの隠れ家。ヤブと役者との出会い。鹿滑。狗の一件。之森の地滑り。火縄衆。そして山守と天守。イチタとの別れ、そして……

「ありがとうございました」

 深々と頭を下げる。ヒメ、そしてニタも居住まいを正して頭を下げた。

 金一匁で済む話ではなかった。ヤブの汚れた顔。役者の蒼白い顔。ヤブの腕には山守と闘った時に生じた傷に巻いた血の滲む晒。無尽蔵の体力があるかに見えた役者も疲労が隠し切れない。

 わたしやは文字通り身体を張って彼女たちを渡そうとしたのだった。

「まあ、仕事だからな」

 少し照れ臭そうにヤブが言う。役者も無表情のままで頷いた。

「ではな。達者で」

「お達者で」

 それだけしか言うことが出来なかったが、もうそれだけで十分だった。立ち尽くす三人の前で、わたしやのふたりは先程開いた大岩の隙間から身を捩って消えた。直後、ずずっという重い音と共に大岩が転がり閉じて、三人は『此方こなた』と永遠に別れたのだった。



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