拾參;天守(ソラモリ)
それは白い羽と羽毛の身体が息を飲むほど美しい鳥人。天女は羽衣で空を舞うというが、天守は自らの翼で優雅に飛んでいた。殆ど羽ばたくことがなく、鷹や鳶のように滑空し円を描く。月明かりに縁取られるそれは、銀箔を纏うかのように光っている。
半月は益々輝き、最早それは月には見えない。まるで天道の欠片のようだ、とニタは思った。その光の塊を周回する美しく白い鳥人たち。すると、今まで月の欠片から生まれ出た様にして、てんでばらばらに舞っていたそれは、次第に一羽の先導に従って列を成す。群れはゆったりと螺旋を描きながら降りて来る。翼の羽が靡いて、ひゅう、と風を切る音まで間近に迫った。
「おい、あ、あれは危ないのか?」
イチタは震える声を必死に抑えながら問う。しかしヤブはそれには答えず、
「いいか、月を見つめて心を保つんだ。神サンに祈ってもいい。やつらが来ても目を合わすな。やつらは人の魂を喰らう鬼だ」
「お、おに?」
ぎょっとしたイチタにヤブは重ねて、
「やつらが何をしても心を動かすな。例えば目の前に死んだ筈の知り合いが現れても無視をしろ。そいつはやつらが見せる幻だ」
ヤブは空の一点を見つめたまま微動だにしない。
「幻に現を抜かせば、魂を喰われるぞ」
空を舞う『鬼』は、朱ヶ原に棲む人妖を『山守』と呼ぶのに対して『天守』と呼ばれる。古来より人を襲う魔物の中で、もっとも厄介な相手とされる天守。その得物は空を舞うことでも牙でも爪でもない。
天守は人の魂を喰らうという。強い魂を持つ者は相手にしないが、弱い心を見つけるやその者を惑わし魂を奪い去ると伝えられる。故に人は天守と対する時、その資質を問われるに等しい。
真白な飛鬼は初夏に舞う燕の如く、地表すれすれに滑る様に飛んでは浮かび上がり、舞っては浮かぶ、を繰り返している。見守るヤブたちとの距離を少しずつ詰めているのも分かった。
「わたしやの!」
火縄衆の放太がヤブに一声。振り返るヤブの前、柄を前に細身の刀を鞘ごと差し出した。
「あんたの刃毀れした小刀じゃあ奴らは切れねえだろ。そいつには暫鬼の呪いがしてある、使え!」
「すまん!」
ヤブは鞘を握るやさっと抜き放ち、持ち替えると下段に構えた。その横、焦るイチタが重ねて問う。
「待っているだけでいいのか?こちらから退治しなくて良いのか?」
しかしヤブや火縄衆も空を見上げたまま集中し、イチタは完全に無視された。
「なあ、ヤブ!」
不安と焦燥からイチタはヤブの袖を引く。ヤブが見上げた顔をすいっとイチタに向ける。すると――
「お、おぬし!」
イチタはぎょっとして飛び退った。
「お主がどうしてここに!」
イチタを見つめる顔はヤブではなかった。忘れもしない憎き男。その憤怒の形相に思わずイチタは懐刀に手を伸ばす。しかし頓着なく『ヤブ』が一歩、イチタに向かって踏み出すと彼は思わず二歩後退る。そんな自身の不甲斐なさに胸打たれたイチタは、
「お、おのれ!」
自らを奮い立たせるようにして抜いた懐刀を前に翳し、ヤブに対する。
「何故ここに!」
しかし『ヤブ』は鬼の形相でなおも迫る。
「貴様!」
懐刀を両手に握り締め、イチタは威嚇するが相手は全く止まる気配がない。そして。
――おまえ
憎き敵の姿に変わった『ヤブ』が初めて喋った。
「な、何だ!」
震えるイチタの前、『ヤブ』はすうっと右手を上げ天を指す。
――くるか
「は?」
――そらへくるか
すると『ヤブ』が再び変化した。敵の姿は砂楼が波に浚われるが如く崩れ、再び立ち上がるとそれは見目麗しき娘の姿に。
「ひ、姫様!」
――狩野。わらわと共にそらへ参るかえ?
それはイチタが十年前、まだ若き勘定役山川方として湊の城に出仕していた頃、美貌と才気で評判だった藩主の二の姫。時には所領の御狩場へ案内をしたものだった。
――苦労を掛けて済まぬの、狩野よ。そちの嫌疑は一切晴れた故、もう気にするでない
猜疑心の強いはずが、懐かしいその姿に一瞬でその場を忘れるイチタだった。
「姫様、それは誠にございますか?」
すると『二の姫』はころころと笑い、
――狩野よ。わらわがそのような嘘を吐いてどうするぞ。また、昔の様に供をしてくれぬのかえ?
イチタの目に涙が浮かぶ。慌てて目を擦り笑顔を浮かべ、
「姫様、是非に」
イチタはうれしかった。その気弱さと愚直さで代々築いて来た役目を追い落とされ、挙句は身に覚えのない横領の濡れ衣を着させられた恨み辛み。それがあっという間に晴れて行く。
日差しは眩しい位に輝き、姫は昔隠れて仰ぎ見たそのままに大層美しく、ふわりとした風が頬をくすぐり、疲れはいつの間にか失せていた。軽やかに笑う姫の後、イチタはこれ以上もなく幸福だった。そして――
カシラが勇気を奮い起して見上げた夜空。イチタが天守二羽から両脇を取られ、月を目指して昇って行く姿が確かに見えた。その姿は鷲掴みにされた兎に似て、だらりと頭、手足を垂れている。
「兄上!」
カシラは思わず叫んでそちらへ走る。すると目の前、一羽の天守がふわり降り立ち遮る。ぎくりと足を止めたカシラだった。
天守は金色の髪、左右の目が金色と銀色と違って見える。その白い顔は端正な青年の顔に見えた。体を覆う羽毛はふわふわと波を打ち、内側から見つめることが困難なほど光り輝いている。その冷たい眼差しは無遠慮にこちらを貫く。やがて声が――
――そなたもくるか
「え?」
――そなたもくるか
天守の口は開いていない。その唇は極端に薄く、一本の線となっているだけ。しかし、その鈴の音のような軽やかな声はしっかりとカシラの耳に届いていた。
――そなたもくるか
天守は固まって動けなくなったカシラにすうっと寄る。
――そらへくるか
「私は……」
――そらへくるか
「……そら?」
すると周りの風景が一瞬で溶けた。寒々とした萱の原は一瞬で菜の花が一面に咲き誇る小丘となった。空は蒼天、ほんわりと浮かぶ雲が眩しい。
呆然と佇むカシラが自らの格好に気付くと、泥に汚れた薄汚い旅衣から家屋敷にいる時の装いに変わっている。
(これは、夢?)
空気は正に春めいて穏やかな日差しはぽかぽかと背中を暖める。緊張と疲れから凝り固まった全身が瞬時に解れ、緩やかに溶けていくような脱力感。何かがおかしい、と感じても、拭う事の出来ない現実感。
――ミワー?美和!
実の名を呼ばれ、振り返ると懐かしい顔があった。
「母上!」
――おやまあ、そんなところで何をしているの
数年前に亡くなった母の姿だった。それも床に伏せ、やつれ果てた母ではなく、カシラが子供の時分の若く優しい姿。問われたカシラは混乱し、自らを省みる。
「私は……」
何をしているのだろう?兄に掛けられた嫌疑が身に降り掛かり、身を隠し、追われ、更に先へ逃げることを選び、そして山へ。只管に生にしがみ付いた。恥を忍び、兄妹一同、いつか罠に嵌めた憎き田之上平左に復讐し御家を再興すると誓い……ここは一体、どこ?
「ここは、どこでしょう?」
――おやおや、寝惚けてお出でかい?ここを忘れるなんて
そうだ。私はここを知っている。懐かしく温かく優しく安らかな……でも思い出せない。ここはどこなのだろう?
――さあ、美和、行きましょう
母が手を差し伸べる。優しく温かいその手を良く覚えている。
「母上。何処へ出掛けるのでしょうか?」
――何処へって、おやまあ、まだ夢の中にお出でのようだねぇ
それは記憶に刻まれた母の優しい笑顔と仕草そのまま。
「母上?」
しかし、母は手を差し伸べただけでそれ以上何も答えない。カシラは我知らず一歩、母の手に招かれ踏み出す。母の笑みが増す。更に一歩。
「母上」
カシラにはもう母の笑顔しか見えない。それが幻であり消え去ることを無意識に怖れ、彼女の世界が閉じて行く。
そのとき。
――グエッ!
『母』が突然形相を変え胸に手をやる。カシラは驚いて自然一歩引くと、『母』の胸から何かがぬっと飛び出した。カシラが見つめるその前で、『母』の姿が変化する。
懐かしく優しい母の顔は苦しみ悶え、歪むや否や似ても似つかぬ蒼白な顔色の美男となる。白目を剥いたそれから思わず二歩三歩引いたカシラの前、びくびくっと波打つ様に痙攣する。その胸から飛び出した白刃がさっと引き抜かれると白い羽根を散らしながら崩れ落ち、その向こうに刀を構えた男の姿が現われた。カシラは悲鳴を上げ、弱々しく身を庇うかの様に両手を上げたが、直ぐにそれが誰かを認め、力を抜く。
ニタだった。その顔に紅い返り血を浴び、目だけが異様に輝いている。カシラは一瞬で我に返った。
「勘蔵!」
「姉上……」
ニタは名前を呼ばれ、構えた刀をだらりと下げ、そこで我に返ったのか懸命に右手から離れない刀を振り解き、そしてカシラ――長姉の腕に縋った。
「夢です。夢なのです……あ、あやつら妖人は夢を見せるのです」
ニタは流れる涙を拭いもしない。それは御狩場を預かる役目を果たしていた立派な若侍の頃には信じられない姿だった。
「その者が揺らぐ、美しい夢を見せ、そして魂を奪うのです……それでも……私は」
嗚咽がカシラの胸を打つ。自然、自身も涙が零れるカシラだった。
「夢とは言え、母上を殺してしまいました」
「同じ……同じ夢を見ていたのですね」
カシラの声は優しく、既に普段の声音に戻っていた。
「ありがとう、勘蔵。助かりました」
「でも、でも母上を……」
なおも言い募る弟を優しく抱きとめ、姉ははっきりと言った。
「甘い夢はもう終わりました。しっかりおし、勘蔵」
それはニタを諭すと共に、カシラ自らの、捨て切れずにいたこの世界との決別でもあった。
「後ろを見てはならないのです」
「兄上も……」
ニタは涙にくれたまま、空に連れ去られたイチタを目で追う。もう、その姿を認めることは出来ない。十数羽の天守が舞っているだけだ。
「兄上のことも」
ぐっと堪えながらカシラはその先を言う。その頬にも涙が止め処もなく流れていた。
「忘れなくてはならないのです」
血溜りに伏せた天守を前に、姉弟は膝を付く。お互いの存在を、幻ではない事を確認するかの様に抱き合った。