玖;頭の甚
比較的平坦な祈りの森へと続く山地、之森。その南に隣接する起伏の大きな山の連なりを陣ノ森という。その先は沼沢の広がる不気味な『藍沼』と、その更に南は一面ススキやカヤの生い茂る台地『朱ヶ原』となっていて、原野はそのまま『祈りの森』の南端に接していた。
之森から祈りの森へ至る山道は、周辺の険しい山地を行く道筋よりは余程進み易かった。それ故祈りの森へ向かう者は普通、遠回りとなる陣ノ森へ下ることはない。しかし、之森から祈りの森へと抜ける者の目的はただ一つしかありえず、目的が一つであるからこそ、この道行きは先に行った者を追うことを簡単にしている。そのため、追う者があり、その者たちに迫られたり止むを得ない事情があったりした場合、追われる者は陣の森へと下り、一旦藍沼か朱ヶ原へ抜け、祈りの森へ向かうという迂回路を取る。これはただの迂回ではなく追う者を諦めさせる効果も狙っていた。藍沼も朱ヶ原も単なる沼地や草原ではなく、荒野や山地に慣れた『かりびと』さえも躊躇させる化物の棲家だったからだ。ならば追う者、かりびとは先に之森を抜け、祈りの森で待てば良い、と思えるが、これはかりびとには許されない禁忌だった。
追う者、『かりびと』。渡人に『わたしや』が付くように、渡人を捉えたい、又は亡き者にしたい者にはかりびとが付く。だが、かりびとは祈りの森やその周囲には入れないという。彼らが渡人を狩るのはそこまでの道程に限られている。どうしてそうなったのか、今では土地の古老ですら知らない。だがそれは、この数百年に渡って築かれた何人たりとも破ることの出来ない掟だった。
では渡人とわたしやが藍沼や朱が原へ廻れば安全か、といえばそうではない。そこには前述のように化物がいる。その一つが『山守』と呼ばれる人妖だった。わたしやは厳しい環境や飢えた野獣の中を行くのが商売なので、強い。しかし人妖は、人の理の外にある化物。如何なわたしやといえども、その山守が群れて掛かれば厄介だった。
そこでわたしやは山守を避けられないと悟った場合、この辺り一帯で狩を糧に暮らす者たちに頼る。その者たちを『火縄衆』と呼ぶ。その火縄衆、かりびととは仲が宜しくない。その名の通り、火縄衆もかりびとも本をただせば同じ狩人。何時の頃か対立し、敵対する間柄となっていたからだ。
こうして何百年もの間の経緯で、わたしやと渡人、かりびとや火縄衆の関係が出来上がっている。
深夜。森の中を音もなく影が走る。大小さまざまな影は冷えた空気に白い息を吐き、獣の早足の速度で坂を登り懸崖を下った。
やがて影は、その森の奥に佇む静まり返った館の正面へ辿り着く。影の一つが立ち止り、残りは辺りに散った。残った影は音を立てずに戸口に寄るとじっと何かを見つめた。やがて影が手を挙げると、辺りに散っていた影がさっと集まる。
「小僧っこども、誰かに案内を頼まれたかね」
ひょうきんな声は今し方戸口に佇んだ影。
「あん馬鹿たれどもが。腕試しとばかり逸ったな」
野太い声の主は、戸口の際に下がった不在の印、ブナの小枝を弄りながら唸る。
「おい、放太。書置きがあるか見て来い」
「へい」
ひょうきんな声の主、放太が戸を引き開け、室内へと消える。待つこと暫し、放太は手に白木の小片を持って出て来ると、
「残していたぜ、頭」
渡された男は木炭で書かれた文面に目を通すや、
「重吉」
呼ばれた男は三十路に手が届くかという年齢、髪を長く伸ばして後ろに束ね、顎鬚が硬い輪郭の顔を強調する。左目を黒い眼帯が覆い、残された右目が闇の中でもきらりと光っていた。板を渡されざっと目を通すと、野太い声の男を問わず語りに見る。それに応えて男は、
「乃助を連れて先に行け」
「承知」
片目の男は何処へ、とも、どうするとも尋ねない。いつの間にか現れて直ぐ後ろに控えていた闇に聳える身の丈七尺の大男を見やり、
「乃助。お前は大筒を持って行け。おれには『神弓』を二挺」
その巨人は無言で頷くと、ほとんど身体を二つ折りにして館に入る。その後姿に放太が、
「乃助、二挺しか残ってないからな」
巨人はちらりと放太を見返すと了解の印に手を上げ、中へ消えた。
「澄のやつ、『神弓』を三挺も持って行きやがった。頭、『龍笛』を使っていいか?」
放太は野太い声の男の前で腕を組む。頭と呼ばれた野太い声の男は唸ると、
「許す。持って行け。但し『龍殺』は十組だけだ。後は火龍で我慢しろ」
「いいよ。馬は?」
「使わない。面倒が増えるだけだ」
「じゃあ得物の他に油や火薬は背負えるだけ持っていかないと。龍笛や大筒も使うとなると、人手を借りるかな?」
そこで頭の顔を見やると、頭は頷いて同意する。放太は、
「怜!」
「あいよ」
今まで黙っていた、外体の良い女が前に出る。
「『里』に行って長のとこから人足一人、火薬と火龍油を三十斤ずつ頼んで来な。そいつを急いで『朱ヶ原』まで頼む、夜分遅くに申し訳ない、とな」
「分かった」
「怜」
行きかけた怜は頭の声に立ち止る。
「長に甚からだと言って『翔落』を借りて来い。助太刀は要らない、おれが使うから、とな。借りたら朱ヶ原へ持って来るんだぞ」
「ショウラクだって?」
放太が声を上げ、怜が眉を顰める。
「頭、『天守』の心配か?来るのか?やつらが」
頭の甚は闇の中、フンと鼻を鳴らすと恰幅の良い身体を揺する。
「お前も見ただろう?御森の山崩れ、あれは神サンのお怒りだ。それにこの臭い」
甚は木々の間から真っ暗な空を見上げる。
「もうじき雲が切れる。久々にわんさか湧いて出るぞ、山守も天守もな」
甚はそこで腕を振ると唸るように、
「さあさあぐずぐずするな、とっとと掛かれ!」
さっとそれぞれの方向に散る火縄衆。館から大きな身体が大筒やら火薬の小樽やら神弓やらを抱えて出て来た。入れ替わりに放太が館に入り、重吉はその巨人・乃助から銃一挺を受け取る。いつの間にか怜は消えていた。そんな手下の様子を仁王立ちで見やりながら甚は呟く。
「一体どんな厄介者を連れて来たんだ、わたしや」
夜半が過ぎた。深と静まった荒野には異臭が漂っている。咽返りそうな血の臭いと死臭。相も変わらぬ闇の中、それはその場に潜む者に絶えず吐き気を覚えさせ、恐怖心を煽った。人妖の襲撃は渡人にとって、いつまでも続く地獄の光景に映ったが、実際は一時の四分の一程度の長さでしかなかった。今、その人妖は彼らの周囲に散らばりこちらを窺っている。その気配は濃厚で、疲労と恐怖に打ちのめされてしまったイチタにすら感じられるほど。
「こんなことなら来るんじゃなかった」
そのイチタのぼやきは感情に乏しくうわ言に近い。
「気をしっかり持って、イチタさんよ」
役者がゆっくりと近付きイチタの肩に手を掛ける。
「来てしまったものはしょうがないなあ。それに、そのまま残っていても追手に討たれたんだろう?ならまだ生きていることに感謝しないとね」
こんな非常時だというのに相変らず役者は余裕を感じさせる物言いだった。放心状態だったイチタも微かに感情を動かされ、
「なんでそんなに脳天気でいられるんだ、お前は」
役者を睨むイチタの目は死んだように力がなかったが、どちらにせよ今は見えない。
「こんな事に慣れているからか?」
「そりゃ仕事柄何度も怖い目に遭ってるって。でも、こんな事に慣れなんかないよ、おれだって怖い。怖いは怖いが、ね、イチタの旦那、ぼやこうが後悔しようがこの状況は変わらないよ。なら少しでも気持ちを楽にしてゆったり構えた方がいいに決まってる。そうじゃないかな?」
「いい心持ちだ、羨ましいな。正直こんなに怖い思いは初めてなんだ」
イチタは抑えた吐息を吐くと暗闇を見晴るかし山守と呼ばれる人妖の気配を探った。そこかしこで唸るような、ざわめくような音がしている。その殺気立った気配に、ぶるっ、と身を震わせ再び吐息を吐いて面伏せるイチタだった。
「大丈夫だよ、イチタさん」
闇の中からさらりとした声が掛かる。
「こんなことは初めてじゃない。そのためにおれたちが付いているんだからね。何度でも言うけれど、自分が折れちゃおしまいだよ。自分が折れなければおれたちが助けられる。必ず『いわど』を拝ませてあげるよ」
役者の声は殺気に囲まれながらも朗らかなほど。その声に励まされ助けられここまで来た。イチタは絶望の淵でその声に縋る。
「頼む」
搾り出すように言った。
「どうだ、大丈夫か?」
ヤブの声に寄り固まった三人が顔を上げる。闇の中、辛うじて輪郭の影として頼もしい姿が見えた。
「ええ、なんとか」
カシラは声を潜めて言う。その声は疲れ果てて震え掠れていたが、闇の中微かに光るその目はしっかりとヤブを見据えていた。その後ろ、ヒメは面伏せたまま傍らのニタに抱えられていたが怪我はない様子、ニタは頬を山守の鋭い爪に掠られ、血の筋が一つ二つ見えたがこれも大した事には見えない。
「どうやら無事だな」
穏やかなヤブの声にニタは、
「このまま山守と睨み合いでは……」
その後の事をとてもカシラやヒメの前では言えない。言い淀んだニタにヤブは小声で、
「夜明けまでこのままならおれたちの勝ちだな、ニタさんよ。あいつらはお天道サンに弱いんだ、だから絶対明けの刻までに襲って来る。さっきは随分と痛め付けてやった。助っ人もいる。来るなら来い、と言ったところだぁな」
ヤブは聞き耳を立てているカシラやヒメにも安心させるように、のんびりと自信たっぷりに言い放つ。ニタはその裏にあるものを正確に読み取って、
「ええ、ヤブさん。あなたたちは本当に強い。城下の剣術指南でもあんな戦い方は出来ないでしょうね」
「いやいや、そんなお偉い方相手じゃ敵わないなぁ、ニタさんよ。おれたちのは無手勝流だ。おさむらい相手では役に立たんよ」
「それに助っ人の方々。何か知らないけれど、火縄であんな遠方から撃ち掛けるなんて。一体どんな手を使っているのやら」
「あんまり詮索しないで下さいな、ニタさんよ。あれらのことは秘密なんだ。下の殿サンたちが知ったら大変だ、山狩りが始まっちまう」
「絶対に口外しませんから安心して、ヤブさん。それにわたしたちはあなたたちに連れられていわどへ行くから。告げ口しようにも明日には彼方ですからね」
「そうだったな。さあ、もう少しの辛抱だ、みんな固まって絶対に離れちゃいけないですぜ、ニタさん」
ヤブの声にほんの少し演技の綻びがあった。緊張からか声が上ずったのだ。カシラが身動ぎして頭を下げる。ニタは心臓の鼓動を抑えるために深く息を吸って吐くと、落ち着いた物言いで、
「頼んだよ、ヤブさん」
「任せな」
僅かに薄い闇の夜空を背景にした頼もしい影が離れる。ニタもその影に頭を垂れ、瞑目した。
そこから三町ほど離れた小丘。先ほど山守を撃った瘤のような丘から離れ、若い火縄衆の三人はカヤの茂みに潜んでいた。今頃あの丘の上には猛り狂った山守がススキの穂を散らして歩き回っているだろう。山守相手では同じ場所に長らく居座るのは危険だ。
「で、もうそれだけかい?」
驚いた澄が囁く。その声音で緊張が伺えた。
「ああ。間違いねえ。もう三十二発しか残ってねえや」
答えたのは進。その声も強張っていた。
「一挺辺り五十、合わせて百五十は持って来たんじゃなかったのか?」
「ああ、そうだよ、それだけ使ったってことさ」
責める口調の澄に進も自然投げやりになる。もういいと首を振った澄は、もう一人の少年に目を移し、
「三。何発か持って来てないのか?」
「生憎だな。オイラは鉛玉しか持ってねえ。コイツのな」
三人の中で一番年下の三が懐から護身用に持って来た小筒を取り出す。燧石式の、後の時代には拳銃と称される代物だが、豆粒大の円形弾を発射するもので、二間も離れたら当たるかどうか半々といったところの命中度、接近戦で相手の腹に押し付けんばかりにして使うのが普通だ。もちろん、その弾丸は澄が使う『神弓』の弾丸とは較べるべくもない。
神弓は特別な銃だ。長さは四尺余りと、普通の火縄銃より長く、銃床を肩に当てるように出来ている。これも火縄にはない特徴で、その火縄を必要としない燧石式、しかも銃身には旋条が切ってある。発射されたドングリ型の弾丸は回転しながら直進して命中率は火縄の比ではない。その弾丸も鉄砲鍛冶が玉鋼を先細りに整形した特別製だった。火縄の鉛玉がほんの数十間先ではどこへ飛んで行くか分からないのに比べ、神弓の弾丸は三町先の的も射抜く。もちろん経験を積んだ射手の場合だったが。
「どうする?次の襲撃じゃ飯を掻っ込む間より早く使い切るぜ」
進が澄に問い掛ける。思ったより早く弾丸を消費した責任の一旦は、装薬や弾丸の管理が担当の進にもある。想像以上に多くの山守を前に興奮し、澄に注意して撃つ間隔を少し空けさせることを怠ってしまった。
「どうもこうも、やるしかないだろ?」
いらつく澄は吐き捨てるように言う。
「一旦引くか?」
と、これは三。
「引く?こんだけの山守の中をどうやって?」
本当は泣き出したいくらいの澄だった。経験を積んだ火縄衆、そう、兄貴分の放太や、神弓を持たせたら文字通り神掛かりの重吉なら絶対にする筈のない失態。事の大きさがじんわりと沁みるように迫り、澄は項垂れた。
この暗闇の中、濃厚な殺意が漂っている。山守を知る者はそれを人妖の臭いだと言う。子供の頃よりこの危険な気配を覚えさせられた澄たちは今、その恐ろしい臭いが益々強くなって行くことに焦り始めていた。もう直ぐにでも再び襲撃がある。その時、僅か三十発程度でどうなるのか?守ってやると豪語したわたしやや渡人を守るどころか、自分たちの命を守るのさえ覚束なくなってしまったのだ。
その時、辺りがぼんやりと明るくなり、萱の中で蹲る三人の姿が浮かび上がる。さっと夜空を見上げる澄の視界に、薄雲を通して朧に半円を見せる月が中天に見えた。雨も止み霧も晴れ、天気が回復しようとしている。
「まずいな。こいつはまずいよ」
言わずもがなの三の声がますます絶望の淵に澄を追い遣って行った。