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契約  ――「静かな鎮守の杜」「指先」「歌う」

お題は「静かな鎮守の杜」「指先」「歌う」

今回の女神さまは正真正銘味方です。


 それは、とある満月の夜のこと。苔むした木々に囲まれた小さな泉があった。冷ややかで美しい月の光に照らされて、泉は静謐にキラキラと輝いていた。水は透明度が高く、とても清らかなのが見て取れる。一頭の鹿が泉に近寄り、そっと鼻先を近づけて水を飲んでいた。すると、ぴくっと耳を動かして頭を上げた。じっと鹿が見守る中、泉の中央がゆらりと盛り上がり。一人の人影が姿を現した。


 一糸まとわぬその身は、日に焼けた事が無いかの様に白い肌をしている。気だるげに書き上げられた長い髪は、繊細な細さを持ち、月の光を反射して白銀に輝いている。ゆっくりと開かれた瞳は冬の夜空の様な薄い水色。唯一と言っていい血色感を持つ赤い唇を緩めて一つ息をついたその人は、細い腰まで泉に浸したまま、月を見上げた。そのままじっと動きを止め、まるでその静かな空間の中で時が過ぎていくのを楽しんでいるかのようだ。


 しかし、突如としてその静寂は破られた。ガサっと音を立てて近くの茂みが揺れ、人影を見守っていた鹿が慌てて逃げ出していく。安眠を妨げられた数羽の鳥もけたたましく飛び上がり、非難しているようだ。そんな事も意に介していない様子で現れたのは、一人の青年だった。うつくしいが実用的な装束に身を包んだ青年は、その整った顔立ちに微かな昏さを滲ませつつ、それでもその瞳は鋭い光を称えていた。青年は、泉につかる華奢な後ろ姿を、じっと見つめている。


 暫くして、全く振り返る事のないその姿に苛立ったのだろうか。身じろぎした青年は、意を決したようにすぅと息を吸い。その薄い唇から音が漏れ出す。青年らしい低めの声で紡がれるそれは、たどたどしくも素朴で誠実そうな気配をもって歌となる。その歌は小さな声で紡がれていたが、それ以外に音の無い泉ではジワリと響いていて。それでも反応を示さない痩身に、青年は焦ったように拳を握る。その時。


 青年の歌にかぶさるように、繊細で甘く高い声が響き渡る。青年の低音と合わさって美しい旋律を紡ぐ。青年の出現によって姿を消していた動物たちが、その歌に釣られるようにあちこちから顔を出す。一瞬にも永遠にも思える時間を歌い続けた二人は、曲の終わりに合わせて静かに唇を閉ざす。


 じっと背に視線を当て続ける青年のまえで、ついにその痩身が振り返る。柔らかな曲線を描く体が月に照らされ、優し気な微笑みを浮かべた美貌が、真っすぐに青年へとさらされる。微かな音を立てて青年の方へと歩いていく痩身――女神に合わせ、青年はゆっくりと片膝をつく。遂に目の前に辿り着いた神に対し、深々と頭を下げた青年は静かに声を掛けた。


 「……覚えていて、おいででしたか」


 その問いに、神は答える事なくただ微笑んで。そっと青年の頭を撫でると、まるでついておいでと言わんばかりに歩き出した。






 青年と女神の出会いは、青年の幼少期に遡る。少年だった彼は、誘拐事件の被害者となったことがあった。彼は、大陸でも有数の大国の第一王子だった。ともなると、その国を恨む者、狙うもの、様々な者達の思惑に晒され、命が狙われるのも日常茶飯事だった。故に、彼の警護はかなり厳しい物だったのだが、その時は運悪く信を置いていたものの裏切りによって、誘拐の憂き目にあう事となったのだ。


 猿ぐつわを嵌められ、手足を縛られたなかで、それでも少年は冷静に思考を巡らせていた。誘拐した人物は誰か、その利益は何か、どこへ向かっているのか、これから自分はどうなる可能性が高いか。子供らしくただ泣き叫ぶだけをしたくとも、この戦乱の時代の大国の王子ともなれば、そのような子供らしさを持つ事は許されなかった。込み上げる恐怖を押し殺し、少年は必死に生き残る方法を考えていた。


 大人しく擦る事で誘拐犯を油断させ、必死に動かした腕の縄を緩め、気付かれないように足の縄をほどき。初めの数日間は緊張でピリピリしていた犯人たちが、徐々に警戒を緩めた隙をついて、少年は逃げ出した。


 醜い喚き声を上げて追手から、小さな体を利用して入り組んだ森の中を必死に駆け回る。苦しい息の中、辺りを見回しては自分が抜けられそうな場所、追手を撒けそうな場所を探す。それでも、子供の足では限界がある。徐々に差を詰められ、ぐっと目を瞑って諦めかけたその時。


 ――こっち。


 微かな声が聞こえた気がして、少年ははっと視線を巡らせた。余りの苦しさに幻聴かと思いつつ、一縷の望みに掛けて耳を澄ます。すると、足が勝手に方向を変え、再び走り出す。根拠もないがなぜかあっているという確証に任せて走っていると、追手の立てる音が小さくなっていくのが分かった。それに勇気づけられ、最後の力を振り絞って走る。ばさっと音を立てて抜けた茂みの先。そこには、満月の光に照らされて、荘厳に佇む社があった。そしてその前に佇む、美しい女性の姿も。呆然としたままその神々しい姿を見つめ、ようやくここが鎮守の杜であった事を知る。ここは、この国の守護神たる女神の領域だったのだ。


 立ち竦む少年に音もなく近づいてきた女性――女神は、そっと目線を合わせるように膝をつき、その細い指で少年の頬をさすった。やんわりと笑みを浮かべると、優しく囁いたのだ。


 「よく、頑張りましたね」


 その声は、先程導いてくれたその声で。少年は漸く、緊張から解き放たれて、崩れ落ちた。足の痛みも肺の痛みも一挙に押し寄せ、それ以上に深い恐怖に襲われると同時に、どうしようもなく安堵して。色々な感情に蝕まれて、声を上げて泣き出した。女神は縋り付いてくる少年に目を細め、小さく歌を歌い始めた。まるであやすような優しい歌声に導かれるように、少年は深い眠りに付いた。


 そして翌朝。護衛騎士たちが到着した際には、少年の他にはだれもいなかったという。慌てたように起こされた少年は、何があったのか聞かれつつ、何故かここに来なければならない気がしたと首を傾げる騎士にはっとあたりを見回した。やはりそこには誰もなく、不思議だと顔を見合わせている騎士たちに、「女神の加護だ」とだけ告げた。詳しい話はあとで、ととりあえず回収されつつ、少年は名残惜し気に振り返ったが、女神の痕跡は何もなかった。ふと耳に残る優しい歌を思い出し、小さく口ずさむ。すると。微かにその歌に合わせて歌う、女神の声が聞こえた気がして、少年は小さく微笑んだ。


 「いい歌ですね?」


 少年の歌に耳を傾けていた騎士には、少年の歌しか聞こえなかったようだ。ああ、確かに、あの時女神は居て。助けを求める自分に手を貸してくれたのだと確信した。そうして少年は静かな鎮守の杜を去り、時がたって青年へとなったのだ。





 そして今。女神に導かれていった先に、かつて見た社があった。懐かし気に目を細めた青年は、記憶の通りの場所に立って振り向いた女神に、再度跪いた。


 「まずは感謝を。幼き頃に助けて頂いたことに心から感謝申し上げると共に、御礼に参れなかった無礼をお許し願いたく」


 ぐっと頭を下げた青年は、ゆっくりと顔を上げた。やはり何も言わずに佇む女神に対し、ぐっと拳を握る。今日はお礼を言いに来たのだが、それが本題ではない。青年はどうしても叶えたい願いがあって、そのための力を欲してきたのだ。もしかしたら無礼として青年の命運はここで途切れるかもしれない。それでも、これが最期の希望だった。嫋やかに佇む女神の慈愛を信じ、地に手をついた。


 「重ねて、分不相応にも願いを申し立て祀る無礼をお許し願いたく。どうか、どうか――この国をお救いください」


 青年の国は、侵略を受けていた。戦乱の世、戦争をしていない国はなかった。その戦火は、どうにか戦争を回避しようとしてきた青年の国にも広がり、もはや収拾がつかなくなっている。それでも、それだけであったら青年はここには来なかっただろう。青年がここに来た理由は一つ。青年の豊かな国を狙う欲深い敵対国が、とある神の加護を受けているからだった。神の加護を良い事に好き勝手振舞うかの国に、いくつの国が滅ぼされただろうか。このまま行けば、青年の国も同じ運命をたどる。もし少年時代の経験がなければ、青年は神の存在を否定して、滅んでいただろう。それを回避するため、青年は女神の力と求めたのだ。かつて青年を救ってくれた慈悲深き女神ならば、信じられると考えて。


 自分に支払える対価であれば、なんでも払うと伏して懇願する青年に。女神は小さく微笑んだ。上等ではあるが、質素な衣。鍛え上げられた体に、その身に幾つも刻まれた傷、神と取引しようとする胆力。それらすべてが、彼の通ってきた道の険しさを物語っていた。ここで願うのが彼自身の保身であれば、女神はそもそも姿を現さなかっただろう。しかし、青年は我が身を省みず、国と民の為にここまで来た。その魂に、女神は呼ばれたのだ。女神はそっとその繊手を伸ばし、小さく青年の頭を撫でた。


 「よく、頑張りました」


 顔を上げた青年に、女神はゆっくりと頷く。その力強い瞳に促され、青年は泣きそうな顔をしながら手を伸ばした。泉に辿り着くまでに鎮守の杜をかき分けてきたその指先には小さな傷があり、血が滲んでいた。女神は自らの指先に小さく傷をつけると、青年の指に重ね合わせる。指先の血がまじりあい、青年と女神の間に契約の絆が結ばれる。気が抜けて力尽きたのだろう。幼い頃と同じように倒れ込んできた青年を受け止め、女神はクスッと笑った。


 「本当に、よく頑張りました」


 これまでも、そしてこれからも。いばらの道を歩き続ける青年を称賛し、女神はそっとその頭を抱え込んだ。そして、小さく小さく呟いたのだ。


 「約束の時は来た。この時を、ずっとずっと待っていたよ」

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