第3話
東京のとある河川敷の橋の下。橋を支える土台のコンクリート付近には、人為的に草木が刈り取られていた。土が露出した地面には、2階建てのドールハウスがある。玄関に入ると、家具が無造作に置かれてほこりがかかっていた。その中にポツンと、マスクをした正人がいる。彼は手にした箒を床に叩きつけ、「あ゛ぁ゛」と苛立ちを発した。
「俺に雑用やらせるな!」
彼の物音によってか寝ぼけ眼をこする琴葉は、2階からあくびをして現れる。
「うるさいなぁ。条件だっていっているじゃん」
彼女は吊るしていたカエルの干し肉を2つ取り、1つを正人へ渡そうとした。しかし、彼は「いらん!」と強く否定する。
「カエルなんてゲテモノ食えるか! あれくれ、最初に食べさせてくれたミニトマト」
「ほんとわがままなガキだね。しゃーない、ほら」
呆れた口調と共に、彼女はカットされたバナナを投げる。
「うおっ。まともな食い物あるなら早くいえ」
「あ、掃除終わったら水汲みもお願いね」
置かれたバケツを眺め、彼は再び苛立ちを声にした。それから数時間後、ボロボロになった雑巾と箒を横に置き、彼は壁を背に座り込んだ。ぜぇはぁと肩で息をし、ピカピカになった部屋に満足気な顔を浮かべる。
「おー、やるじゃん......と思ったけど、これは?」
空のバケツを差し、琴葉はじーっと正人を見つめる。
「無理に決まってるだろ!」
「えー、お風呂入りたい! お願い行ってきてよー」
「自分で行けよ!」
「あのさ、条件忘れたの?」
「......」
「私がクソガキを助ける条件、それは1人で生きていける力を身に付けること。わかるでしょ? 甘えたら死ぬよ」
彼女は突如、突き放すような声色と共にバケツを握らせた。何も言い返せず、正人は暗い顔をして外へ出る。扉が閉まるや、彼はガニ股歩きで夕陽の中を進んだ。
「助けるとかいって、この生活に慣れたら出てけってことか? 足元見やがってあの女」
周囲を無警戒に動いていると、ふいに叫び声が響く。
「コラ! そこいるよ!」
ドールハウスの2階のベランダから身を乗り出した琴葉は、メガホンのようなものを口元に当てている。彼女の大声を聞いた正人は、数メートル先にいるムカデに気づく。慌てて方向転換し、水汲み場まで迂回して向かった。
「これも訓練だからね。外では常に警戒すること。慣れてくれば気配でわかるから」
「気配って......こちとらエスパーじゃないんだよ」
「ねぇはーやーく、風呂入りたーい」
彼女に急かされ、正人は足早になる。その直後、カマキリが近くで小さな虫を捕食している場面に遭遇する。
「あ、危ないよ! でもはーやーくー」
「無理いうな!」
陽がほぼ沈んだ頃、正人は最後の水汲みを終えた。縁が少し欠けた茶碗に、お湯が注がれる。クタクタになって座り込んだ彼をよそに、琴葉は服を脱ぎ始めた。
「おまっ、羞恥心はないのか!」
正人が真っ赤にした顔を背けると、彼女は自身の裸体を見て何かを察する。
「アハハ、私の身体はクソガキには刺激が強かったか」
「お前な、クソガキクソガキ言うが、大して変わらねぇだろ!」
「私300歳何ですけど?」
「さ、300!?」
「邪印による副作用。人間の5倍長く生きれるの」
彼はあんぐりとした口のまま、琴葉の裸体を眺めた。
「もう妖怪の類だな……いてっ」
琴葉はポンと軽く彼の頭を小突き、湯船に浸かった。
「人の身体ジロジロ観察してその感想? はぁ、モテないね絶対」
「何だと!」
その日、正人と琴葉は寝るまで口喧嘩を続けた。それから1週間が経過し、彼は琴葉に指摘されることなく水汲みなどの家事をこなせるようになっていた。
「おい女、もう飯がないぞ!」
正人が食料が置かれた場所を見渡すと、吊るされている紐にも、籠の中にも何もなかった。
「よし、そろそろ狩りでもしてもらおうか」
「狩り!? 無理に決まってんだろ!」
聞く耳を持たず、琴葉は弓と矢筒を手渡す。
「おま、なぜ俺が弓を使えるって知ってんだ!」
「あぁ、金持ちの家に棲み付けば食糧に困らないかもって君を見ていたからね」
「ゴギブリかよ」
彼女はイラっとしたのか、突き飛ばすように正人を外へと追い出した。
「よーし、獲物とるまで帰って来なくていいぞ」
「な、おいふざけんな!」
正人は何度も扉を開けようとするが、うんともすんとも言わない。彼女は扉にある小窓に覗き込むように顔を近づける。
「あ、1つアドバイスしてやる。この身体で生きると言うことは、常に危険と隣り合わせだ。だがそれは同時に、同じ世界の相手にも言えること。もし死ぬと思ったら、そのことよく考えな」
そう言い残すと、琴葉は扉の前から離れていく。正人は扉を叩いても埒が明かないと悟り、川の周辺を歩き始める。
「ったく、狩ったところで俺は食えねぇって言ってるのに」
彼はブツブツと愚痴を漏らしながらも、弓と矢が使えるのか点検する。葉にいるてんとう虫を見つけ、射る構えをした。呼吸を整え、指先の震えを限りなく抑える。しかし止まった的とは違い、てんとう虫は停止と動作を不規則に繰り返した。また、彼は感覚を研ぎ澄ませると周囲に潜む外敵の物音にも敏感に反応するように。
「......クソ。外れた」
弓道場の環境とはかけ離れた状況に、正人は久しぶりに矢を外した。悔しがる彼はもう一度矢筒に手をかけるが、その瞬間聞き馴染みのある鳴き声が響く。ピンク色の伸びる何かは、てんとう虫を絡めとって口へと収納される。
「カエルか......まぁ、あれを仕留めれば許してくれるだろうな。俺は食わんけど。琴葉の真似でもしてみるか」
彼は指先の揺れが静まるのを待たず、カエルが静止したタイミングで風を切った。放たれた矢は足元に突き刺さって絶命には至らなかったものの、逃げられることもない。だが、足が止まる。彼の頭には、この日までに遭遇した様々な生き物たちの捕食のシーンが過った。
「食わなきゃ食われるんだ。わ、悪く思うなよ!」
正人は生唾を飲み込み、矢先をカエルの頭に立てた。一瞬目を閉じて殺そうとしたが、何を思ってか彼は見開いたまま勢いよく振り下ろす。それが頭を貫くと、ゆっくりと喉を鳴らす音が小さくなり、数秒で完全に止まった。その間、彼は呼吸を忘れていた。
「はぁ......これをもって帰れば......!?」
その殺傷の間、正人は覚えたはずの周囲への警戒を忘れていた。しかし、同時に琴の語った気配を察するという感覚だけは掴みかけている。振り返らずとも、背後に迫るクネクネと動く生物の影が何かわかったのだ。
「……!?」
彼はカエルが奪われないよう、大袈裟に動いて蛇を誘った。地面を蛇行して迫るそれは、予測する速さを少しばかり上回る。彼は全速力で逃げるが、ギリギリ撒くことができずにいた。水汲みやカエルを仕留めるまでにであった生物は、彼も当然恐怖を感じていた。しかし追跡してくる捕食者は、10センチの彼の体格を2回りも上回るサイズで比ではない危機感を抱く。
「……あの時と同じ」
彼は小人になってしまったその日と同じく、今度は川を背にして逃げ場を奪われた。正面の茂みからは、カサカサと迫って来る蛇の物音が次第に増している。弓を構えるも、勝てる算段は何もなかった。そして、絶望する彼をさらに恐怖へ叩き込む生物が現れる。
「ピュー」
トンビが空中を旋回し、正人を虎視眈々と狙っていた。彼は茂みから現れた蛇と、目を合わせる。
「はっ、何でまだ助けが来ると期待してんだろ。甘えたら死ぬ……か」
彼は琴葉の放ったその言葉と共に、「危険と隣り合わせなのは相手も同じ」というアドバイスを思い出す。その瞬間、脳に電撃が走る。彼はトンビが迫っているのを確認し、正面から迫る蛇と距離を縮めていく。そして彼の右足が敵の射程範囲に踏み込む。
「あ゛ぁ゛」
彼は叫び声と同時に手に握った砂を投げつけ、蛇の視界を奪った。成功したと確信し、トンビが接近するのを待って走るスピードを落とす。その間、蛇は視界を回復して飛びかかる。予想よりも速く、彼は動揺しながらも矢筒を口に挟ませた。
「……はっ!」
正人はギリギリまでトンビを引きつけ、挟まった矢筒に混乱している蛇に狙いを誘導する。その結果、地面とスレスレの低空飛行で突進するその足は、間一髪で避けた彼をよそに、蛇の胴体を鷲掴みした。トンビはそのまま捕まえて蛇を川に沈め、窒息するのを待ち望む。安堵した彼はそんな光景に目もくれず、仕留めたカエルの場所へと戻った。
「ない。またやり直せっていうのか」
仕留めた場所には何もなく、正人はただただその場に立ち尽くした。
「もう運んださ。お疲れ」
彼の落ち込みとは対照的に、現れた琴葉はニコニコとしていた。
「お前、どうしてここに?」
「どうしてって、見てたからね」
「見てた!? なら助けろよ!」
「それじゃあ訓練にならないでしょ? でも私は1人で乗り越えると確信していたよ」
「はぁ?」
「だって君、口は悪いけど結構素直に受け入れるからね。教えたことちゃんと覚えている君なら、やれるだろうって」
正人は拳を握りしめ、涙を堪えた。
「何でそんな気にかける? 俺は親にもクラスメイトにも、誰にも相手にされなかった。なのになぜ、お前は......」
「小人のこと、昔は世捨て人と呼んでいたの。寿命以外のあらゆる理不尽な死や孤独を迫られる人たちが、普通に生きられる第2の人生......それが小人。君のことは少ししか知らないけど、こっち側だとわかった。私も久しく話す相手がいなかったんでね。ま、助けたついでに楽しくやってこうじゃないかって感じかな」
「世捨て人、あんまり言われていいものじゃないが......」
正人は自分に問いかけるように呟き、黙り込んだ。
「さ、帰ろ。今日はクソガ、正人の狩りの祝いにご馳走を振舞ってやる」
「あ、そういえば楽しくやってこうって言っていたが、俺は追い出されないのか?」
「追い出す?」
「ほら、条件の1人で生きていかなきゃとか……」
「あー、この世界は厳しいからね。私がもしものことがあっても、大丈夫なようにってことさ」
それから数分後。暗がりの中、ポツンとドールハウスの窓から光が見える。部屋では皿の上にカエル肉の唐揚げが山盛りにあった。
「う、うめー! なんじゃこりゃぁ!」
その皿の前に座る正人は、目の色を変えて肉を口に運んだ。
「君、ゲテモノは食えないんじゃなかった?」
「うるせぇ。俺が殺したんだ。食わないとダメだろ。それに、この身体で生きてくって受け入れたからな」
琴葉はその言葉を聞き、微笑むような表情で、ボソッと小さく呟いた。
「ようこそ。これが私たちの東京さ」
一方、同じ日の夜。歌舞伎町の客引きや酔っ払い、チンピラなど雑多な人間たちが行き交う大通りの端。騒がしい人々の音にかき消され、小さな銃の火が吹く。
「おらおら、逃げろー」
「東堂さん、マジで最高っすね!」
東堂と呼ばれる顔に傷がある男は、正人と同様に小人の姿になっていた。彼とその仲間のゴロツキの首元には、チョーカーのような電子機器が装着されている。
「いやぁ!」
彼らの放ったデタラメな一発が、逃げ惑う小人の女性の肩を貫く。その場に倒れ込むと、横にいた夫らしき男は彼女の前に立って両腕を広げた。
「お前ら、リバイバーって知ってる?」
東堂は拳銃を男の額に擦り付け、口角を上げる。
「し、知っているが私たちは組織とは関係ない。それよりこんな酷いこともうやめっ……」
女性を庇った男は、鼻をほじりながら適当に引き金を引いた東堂の1発で、呆気なく命を落とした。
「ちょっ、東堂さん何で殺したんすか! リライバーの報告しなきゃマズイっすよ!」
仲間の1人の言葉で我に帰り、「いっけね」と東堂は呟く。
「ま、この女いりゃいいだろ。さっさと電話入れろ」
「うっす」
頭に風穴が空いた死体の前で、女性はただ泣き崩れていた。その姿を眺めていた東堂は、ズボン越しでも分かるほど股間を隆起させる。彼は「おい」と言って強引に彼女を振り向かせ、両手で頬を触った。
「いいねぇその顔。あー、今すぐにでも皮剥いだり目を潰してやりてぇよ。テメェがリライバー知らなきゃ、こっそりやってたのによー」
彼はガンギマリした目で、怯える女性を触りまくる。その傍ら、仲間の1人は電話越しに頭を下げていた。
「はい。ようやく見つかりました。あ、いえ楠正人の方は未だ発見していません。あの事故ですし、やはり死んだのではないでしょうか」
「でも良いなぁ。街中で好き放題銃ぶっ放して、女痛ぶっても捕まらない。東京サイコー!」
「東堂さん、話しているんですから静かに……」
電話越しの誰かは、「フハハハハ」と笑いを抑えられずにいた。
「その女、必ずデリーター本部に連行しろ。これでようやく、私も安泰だ」
その言葉を最後に、通話は途切れた。




