165 ビーバーの戦い
◇◇◇◇
前男爵が山頂に鎮座してから一週間後。
ルリア達がサラの屋敷に到着する三週間以上前のこと。
巨大な卵形の岩のような何かに変化した前男爵は山頂から水源に毒を垂れ流し続けていた。
最初に異変に気がついたのは、川の中流に住むビーバーだった。
そのビーバーの体長は二メトルほどあり、並のビーバーの倍以上ある。
そう、守護獣のビーバーだった。
「むーむ?」
ビーバーは何度か水を口にして、臭いを嗅いだ。
やはりおかしい。嫌な味と臭いがするし、これは体に悪い気がする。
その変化は人もその他の動物も気づけない程度。
水の中で暮らすビーバーだからこそ、水の味のわずかな変化に気がついたのだ。
「む……」
きっと、水に良くないものが混じっている。
このまま、汚染された水が流れていけば、大変なことになる。
どうしよう。ビーバーは困ってしまった。
一般的なビーバーは家族で暮らしている。
だが守護獣のビーバーは、他のビーバーより遥かに体が大きい。
それゆえ、一緒に暮らせる仲間がおらず、ビーバーは一頭で暮らしていた。
「む」
川の流れをせき止めるためにビーバーはダムを造り始めた。
守護獣のビーバーは、一般的なビーバーと異なり、普段ダムを造らない。
ビーバーがダムを造るのは自分と家族の身を守るためだ。
守護獣のビーバーは強いので、ダムを造る必要が無かったのだ。
「む、むっむ、む」
ビーバーは黙々とダムを造り続ける。
ガリガリと木を倒し、枝を集め、泥を盛る。
食事を摂る時間や、寝る間を惜しんで、造り続けた。
「むうむうむ」
お腹が減るし疲れる。汚染された水の中にずっといるので体調も悪い。
それでもビーバーはダムを造り続けた。
ビーバーが思い浮かべていたのは、数年前、下流に行った際に出会った人族のことだ。
◇◇
数年前のこと。ビーバーが下流に向かって川を泳いでいると、四人の子供達が遊んでいた。
「いくよ~とりゃあ~~」
「わーわー」
子供達は二メトルぐらいある岸壁から、川に飛び込んで遊んでいるようだった。
「……む」
ビーバーはその様子をこっそり見つめていた。
本来家族で暮らす種なのに、家族のいないビーバーはさみしかったのだ。
そして、ビーバーは人のことが好きだった。
だから、仲良くなれないかなと見つめていた。
しばらく、楽しく遊んでいた子供達だったが、
「あっ」
一番小さな子が足を滑らせ、流され始めた。
「あっ……たす、ア……たすけ……」
子供は必死になって手足をばたつかせるも、流れの速いところに巻き込まれて流されていく。
流された子供も泳げないわけではない。だが流れは急だし、川底はすべる。
水を飲み、パニックになり、完全に溺れ始めた。
「まずい!」
気がついた年長の子供が追いかけようとしたとき、
「む!」
川の中を高速で泳ぐビーバーが、あっという間に助け出す。
溺れる子供が振り回す手足に殴られても意に介さず、前足で抱えて岸壁まで運んでいく。
「げほげほげほげほ!」
「大丈夫か」
子供達は無事を喜び合った後、
「ありがとう、助かったよ」
「ありがとね? 死ぬかとおもった」
「むっむ!」
気にするなとビーバーは言いながら、お礼を言われて嬉しかった。
「あ、お礼にリンゴあげる」
「む? むしゃむしゃむしゃ」
子供達からもらったリンゴは、今まで食べたどんな物よりおいしかった。
「む~」
ビーバーはお礼に頭をぺこりと下げた。
「かわいい。なでていい?」
「む」
「えへへー。かわいいねー」
「それにしても大きいビーバーだなぁ」
「きっと、川の主だよ~」
そんなことを言いながら、子供達はビーバーのことを撫でてくれた。
その手は気持ちよくて、ビーバーは幸せな気持ちになったのだ。
「あ、これあげる!」
「そうだね! 仲間の証だもんな!」
「む?」
子供達はビーバーの右手に白いリボンをつけてくれた。
「みんなとおそろい。な?」
そういって、子供達は自分のつけたリボンを見せてくれた。
「む~!」
仲間に入れてもらえたことが、ビーバーはとても嬉しかった。
それからビーバーは頻繁に下流を訪れた。
そして子供達と遊んで、幸せな気持ちになった。
だが、あるときから子供達が川に遊びに来なくなった。
実はビーバーがいないときに再び子供が溺れかける事件があった。
そのため、大人達から、絶対に川に近づくなと命じられていたのだ。
「む~?」
そんなことを知らないビーバーは、夏が終わったから遊びに来なくなったのだろうと考えた。
「む……む……」
ビーバーは少し汚れた右手に結んだ白いリボンを左手で撫でた。
春になり夏が来て暑くなるたび、ビーバーは何度も下流を訪れた。
だが、ビーバーが子供達に会えることはなかったのだ。
◇◇
「むっむ!」
会えなくなっても、ビーバーにとって子供達は大切な友達である。
ビーバーは強いから大丈夫だが、子供達がこの水を飲んだら大変だ。
こんな汚染された水の中で遊んだら、子供達が病気になってしまうかもしれない。
だから、ビーバーは一生懸命ダムを造り、水をせき止めた。
ビーバーがダムを造り始めて三週間以上たったある日のこと。
ルリアがサラの屋敷に到着する二日前のこと。
前男爵の垂れ流した毒は、ビーバーのダムに溜まり、濃くなっていた。
ビーバーが必死になってせき止めても、完全に止められるわけではない。
わずかに漏れた毒が下流に漏れていく。
そのため、少しずつ人族の間に病気が流行り始めていた。
だが、ビーバーのおかげでほとんどの者は発症せず、発症した者の症状も軽かった。
「む……む……む」
一方、汚染された水の中で作業を続けるビーバーの体調は著しく悪化していた。
食事や睡眠を犠牲にし作業し続けているので、体力も落ちている。
その状態で濃縮された毒を浴び続けているのだ。体調が悪化するのは当然だった。
苦しみながら作業を続けるビーバーの耳に人の声が聞こえた。
「あ、ダムができてやがる! これのせいか!」
「日照りでもないのに、水量が減っておかしいと思ってたんだ!」
「こわせこわせ! このままだと畑は全滅だ!」
川の水量の減少を不審に思った人間達が調査にやってきたのだ。
人族は効率よくダムを壊していく。毒が流れはじめてビーバーは慌てた。
ダムが壊れたら、汚染された水が畑を、飲み水を、生活用水を汚染する。
そうなれば、脆弱な人族は病気になるだろう。
「む! むっ!」
ダムを壊し始めた人族に対して、ビーバーは後ろ足で立ち上がって威嚇する。
「ひっ」
人族達はビーバーを見て、ひるんだ。
「む? む!」
ビーバーはやってきた人族の中に、友達の子供の一人を見つけた。
ずいぶんと大きくなっていたが、ビーバーは一目でわかった。
子供はリボンをつけていなかったが、ビーバーが見間違えるわけがなかった。
「む~!」
嬉しくなったビーバーは、リボンがみえるように右腕を掲げて駆けよった。
仲間だと言ってもらって、いつのものように、優しく手で撫でて欲しかったのだ。
「ば、化け物!」
成長した子供は素早く弓に矢をつがえて放つ。
「ぎゃっ」
攻撃されるとは思ってもいなかったビーバーはその矢をまともに右目に食らい、悲鳴をあげた。
「なんておぞましい姿だ!」
「やばいやばい! でかすぎる! 化け物だ!」
「いったん退け! 準備が足りない!」
人族は慌てた様子で、矢を放ちながら、逃げていく。
その矢が肩に、お腹に、左足に、合計三本刺さった。
「ぎゅあああぎゃあ!」
ビーバーは、なぜ矢で撃たれるのか理解できなかった。
あまりの痛みに水に飛び込む。
毒の水が傷に染みて、気絶しそうなほど痛かった。
濃縮された毒を浴び続けたビーバーの姿は変わっていたのだ。
全身がヘドロの様なもので覆われ、悪臭を放っていた。
ビーバーの面影はかけらもない。
だが、ビーバーは自分の姿が変わったことに気づいていなかった。
「…………む」
人族が去った後、ビーバーはダムの補修を始めた。
「むうぅ」
時折、左手で右手に結んだボロボロの真っ黒に汚れたリボンを撫でた。
ビーバーは子供に弓を撃たれたことが悲しかった。
それでも、矢傷の痛みに耐えて、ダムを補修し続けた。
その後、何度かダムを壊しに来たが、そのたびにビーバーは威嚇して追い返したのだ。
そして、壊されたダムを、補修し続けた。
◇◇◇◇