序幕
風音桃花は、この物語の主人公ではない。
ただし、彼女がこの物語の始まりであり、また終着である事を、後に一人の刑事は知ることになる。
「いい場所があるんだ。」
彼が言っていたその場所は、それはもう見事なものでした。
今までの茂る濃緑や土の色、薄暗く、湿った空気とむせ返るような森の香りから一変して、降り注ぐ日光、明るい緑の草に、一面にひらひらと舞う薄桃色がかった白い花弁がまるで蝶々のようでかわいいです。甘い香りがほのかに漂ってきて、心が弾みます。
私はしばらく、その景色を一歩も動けずに眺めていました。
「きれい……」
本当は最寄りの駅から彼と一緒に来るはずでしたが、待ちきれず一足先に来てしまいました。
なぜここに来れたのかといいますと、幼馴染の彼が貸してくれた一押しの小説に出てくる場所で、何度も感想をせがまれたので、話の内容はもちろん、ここまでの道順も来たことがないのに分かっていました。
家の近くに、こんなにも静かで、美しい場所があったなんて。私ではなく、三駅先に住んでいる彼が知っていたとは驚きです。
一時期は巷で話題になったそうですが、小説が発売されてからもうずいぶん経つみたいなので、熱も冷めてしまったのでしょう。この景色は今、私だけの独り占め状態です。
私は一歩、また一歩と足を踏み出し、景色の中心である、一本の木にゆっくりと近寄りました。
幹にそっと手を置くと、少しゴツゴツとした部分と、すべりの良い部分があり、相反する感触が不思議です。ですが、太くて私の身長の倍をゆうに超えた立派な木の傍は、とても安心感がありました。
「ここでよく本を読んでいたのかな」
読書好きな彼が、この木に凭れかかり、一枚一枚ページをめくる姿が思い浮かびます。
彼はいつも楽しそうに、少し早口で本の説明や感想を話してくれるのです。その口角は上がって、目は弓なりになっていることでしょう。
――当てはめると、なんだか変な顔ですね。
クツクツと、思わず笑みが零れてしまいます。変顔を思い浮かべて笑われたと知られてしまうと、彼は恥ずかしさで涙を浮かべてしまうかもしれません。私の胸に留めておきましょう。
「そろそろ戻らないと、先に来ちゃったってバレちゃいますね」
少し名残惜しいですが、またすぐにやって来るのです。駅に引き返すことにしましょう。
さて、どうやって彼を誤魔化しましょうか。何もなかった振りをすれば大丈夫ですよね、多分。
某名探偵ではないでしょうから、靴の裏に残った土から先回りしたと気づかないといいのですが。
彼はうっかりさんなところがあり、ほんわかしているように見えますが、たまに鋭いところがありますからね。本をたくさん読んでいるためか、感想の中には私がびっくりするような穿った見方をしたものまであったりします。
本当にバレないでしょうか。なんだか心配になってきました。
そんなことを黙々と考えていたせいか、はたまたこんな場所に来る人はいないと油断していたせいか、後ろから近づいてくる足音に私は気づいていませんでした。
「……ちゃん、…………?」
待ち合わせの時間まで、後どれくらいでしょうか。そういえば、ここまで来るのにずいぶん時間がかかっていたなと、左手につけた腕時計を目の前に持ってきます。
「なあ……ちゃん、………ない?」
後四十五分、思ったより長居してしまいました。大人の足でなら十分間に合うでしょうが、十二歳の子供の足ではギリギリです。どうしましょう、急がなければ。
焦った私が勢いよく振り返ると――
「無視するなよ」
ガゴッ! ドサッ。
私の記憶は、そこで途切れてしまったのです。