第7話〜とある街娘の災難②
いったいどれほどの時間走り続けただろうか。
少女の腕や頬には木の枝や茂みでついた無数の切り傷や擦り傷がたくさんあった。
中にはざっくりと切ってしまったのか、普段であれば涙を我慢できないほど深い切り傷もあったが、それ以上に背後から聞こえる重い足音にマリアーナは足を止めることばできなかった。
体感ではもう何時間も逃げ続けているように感じられたが、実際に少女がブラックボアと遭遇してからはほんの数分ほどしか経っていない。
ほんの数分、されど何の力も持たない10歳の少女には永遠に思えるほど長い時間。
方向感覚などは端から存在せず、要石の方向からは逆に向かって走っていることなど少女には知りようもない。
仮に要石を越えたとしても、マリアーナを標的に定めたブラックボアが追うのを止めることはなかっただろう。
要石はモンスターや獣にとって本能的に避けさせる効果があり、無意識に近づかせないようにはできるが、知能が高かったり興奮している相手には効果が薄い。
「………ママ、パパぁ………………」
荒く苦しくなった息の合間に、漏れるように声が出た。
何もなければそろそろ街に戻り、夕方からの〈止まり木停〉へと給事の仕事に向かったことだろう。
食堂には宿泊客以外にも食事目当ての冒険者が仕事終わりにやってくる。
荒くれ者の雰囲気な冒険者は大声でがなりたてるのでマリアーナは苦手だったが、中には毎回優しく声をかけてくれる常連さんもいた。
8歳の頃からお手伝いを始めて、今では仕事は慣れたもの。
宿屋のおかみさんは厳しいが優しく、コックも兼ねている宿屋の主人は寡黙だがよく頭を撫でてくれた。
マリアーナの家は裕福というわけではないが貧乏でもなく、父と母、そして5歳の弟がいて、昔から人見知りな弟は〈止まり木停〉の手伝いに行こうとするマリアーナと離れたがらなくてよく愚図って困らされたものだ。
マリアーナは細く華奢な手足を懸命に動かす。
幸いなことに人の手のあまり入っていない森の中は木々が生い茂っているため、ブラックボアの巨体では全速力は出せない。
しかしマリアーナの体力はそろそろ限界を迎えようとしていた。
ブラックボアは獲物が疲弊するのを待っているのか、付かず離れずの距離を追いかけ、時折耳障りな鳴き声を上げる。
そして意図せず森の奥へ奥へと入り込んでしまったマリアーナは、ようやく拓けた泉の辺りに出ると同時にブラックボアに追い付かれた。
ブギャアァアアァァ!
一際大きく鳴き声を上げたブラックボアは鼻先で突き上げるようにマリアーナに突進し、反動で突き飛ばす。
「きゃあぁ!?」
短い悲鳴を上げて、マリアーナは衝撃と共に地面に叩き付けられた。
全身を痛みが駆け巡り、マリアーナは呻くことしかできない。
ブラックボアは獲物が動けないことを確信してるのかゆっくりと歩いてマリアーナへと近付く。
「………っ」
悲鳴すらも出すことができない。
しゃくり上げるような息が吐き出され、マリアーナは痛みと恐怖に視界が滲むのを止められなかった。
そしてブラックボアは獲物にとどめを刺そうと大きく牙をかかげ、
「畜生風情がガキをいたぶって、随分といい気なもんだな?」
次の瞬間本能に冷水を浴びせられたように硬直した。
そしてマリアーナも不意に届いた人の声に、そちらの方へと視線を向ける。
「………ぁ、たす………けて………」
そこには紛れもなく人がいた。
なぜかブラックボアも動きを止めている。
マリアーナは絞り出すように、涙で滲むその人影に向かって助けを求めた。
そして、
「いいだろう」
その″男の人″は、腰に差した刀を抜いた。
《蒲公英・一輪》
マリアーナの目の前で、ブラックボアの頭部が消失した。