第4話〜とある街娘の災難①
まだ正午を過ぎたばかりだというのに薄暗い森をマリアーナは走っていた。
親しい間柄の相手からはマリと愛称で呼ばれるその少女は先月に10歳を迎えたばかりだった。
縛らなければ背中の辺りまでいく赤毛をゴム紐で一つに括り、最近悩みのそばかすと、笑うとできるえくぼが特徴と言えば特徴の普通な街娘。
普段はツキワという街の外門近くの宿屋〈止まり木停〉の一階にある食堂で朝晩と給仕に勤しみ、昼からは家の手伝いで街の外壁から程近い森で木の実や薬草を採取することを日課としていた。
その日は思ったよりも薬草が集まらず、普段ならばあまり立ち入らない、森の奥へと歩を進めていた。
外壁近くは衛士が巡回しており、なおかつ定期的に自警団や冒険者が害獣や危険なモンスターを駆除しているため、ただの街娘であっても比較的安全に歩き回ることができた。
そのためマリアーナは10歳の誕生日を迎えると同時にそれまで一緒に来ていた母親に頼み込み、一人で森に採取しに来ていたのだ。
マリアーナは幼い頃から外壁沿いの森に出ているが、小型の獣はおろかどこにでもいると言われるゴブリンとすら遭遇したことはなかった。
実際は外壁をさらにぐるりと囲うように魔物避けのまじないのかけられた要石が等間隔に設置されているため、余程のことがない限りモンスターや大型の獣は越えてくることはなかった。
そしてここ数年は魔物による被害はほとんどなかった。
様々な要因、偶然が重なりあい、好奇心旺盛な少女が大人に立ち入らないよう言われている森の奥に向かってしまったことをどうして責められようか。
森の奥に進んで数十分。
そこには普段あまり人が立ち入らないためか豊富に薬草が繁っていた。
手持ちの篭一杯に薬草、そして木の実を採った少女は満足げに、街へと帰ろう立ち上がった。
そしてソレと目があった。
「………ひっ!」
成人男性の一回りは大きいであろう身体。
歪な形にそそり立つ太い牙。
黒く鈍い光沢を放つ毛皮。
少女はソレを見たことはなかったが、名前だけは話に聞いたことがあった。
【ブラックボア】
森の奥に生息する魔物で、要石が置かれるまでは年間十数人がブラックボアの突進と牙による刺突で命を奪われていた。
【冒険者ギルド】によるブラックボアのランク付けは単体で【E】だが、群れのボスクラスになると【D】相当の危険度を持つ。
マリアーナは知るよしもないが、ほんの数メートル離れた位置にいるブラックボアはまだ成体になるかどうかといった若者であり、一人前の冒険者であれば一人で倒せるレベルである。
しかしまだ10歳を迎えたばかりの少女の瞳にブラックボアは小山のごとく映り、おもむろにブラックボアが蹄で地面を荒々しく削るのを見てようやくハッと意識がはっきりとする。
マリアーナがとっさに真後ろに向かって駆け出さず、薬草を採ったばかりの茂みに向かって飛び込んだのは偶然だった。
腰の辺りの高さの茂みを抜けて振り返った少女の目に、さきほどまで自分の後ろに生えていた己の胴体ほども太さのある若木が半ばからへし折れているのが映った。
少女は一瞬硬直し、次いで悲鳴をあげることもできず篭を放り出して駆け出した。