第二話 先生のコーヒー
◎登場キャラ
・本多実々(みみ)
大学生。フィリピン人とのハーフで、薄い褐色の肌をしている。控えめで責任感が強い人。
・「先生」大学教授。
実々がホームキーパーをすることになった先生で、少し変。
・実々の腕時計の「僕」。本作の語り部。
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赤い壁掛け時計が、
高い所から偉そうに十二時半を示しています。
腕時計と壁掛けの違いがあるとはいえ、
同じ時計としてあまり面白くありません。
季節はもう夏です。
大学もあと少しで夏休みに入ります。
暑くなるのに合わせて、僕のご主人、実々さんは髪を切りました。
セミロングから、カフェオレ色の顎辺りまでバッサリ。
軽いイメチェンです。
というのも実々さん、
夏休みに思い切ってバイトをするつもりなのです。
人生初です。
僕は心配です。
実々さんはあまりテキバキした人ではないからです。
でも実々さんには一つの目標があるのです。
実々さんがいる食堂は、いろんな人の声がごった返しています。
「ぽんちゃん、しっから軍資金稼いでおいてな」
そう言いながら、実々さんの友達、山科さんはるるぶをバッグにしまいました。
実々さんの目標とは、自力で旅費を稼ぐことです。
山科さんやヨッチャン達と旅行する日を、
実々さんはずっと前から楽しみにしていました。
なのでお盆に帰省する以外は、バリバリ働くつもりです。
バイト先はもう決まっています。
マクドナルドです。
駅前の、店員さんがいつも目まぐるしく動き続けている店舗です。
いつも。
目まぐるしく。
やっぱり今からでも、勤め先を変えた方が良い気がします……
ひんやりとした廊下がどこまでも伸びています。
廊下の両脇には沢山の白い扉が並んでいます。
その中のドアの一つを実々さんは押し開けました。
ドアには、
『塩見』『宇宙総合論理学』
というプレートが貼り付けてあります。
ここは実々さんが在席する、
塩見ゼミの研究室の一つです。
既に部屋にいた人たちが、まばらに声をかけてきます。
軽く会釈をしながら、実々さんはいつも座っている席へ向かいます。
部屋は20人位が使うのにちょうど良いようなサイズです。
会議机がコの字に並べてあります。
実々さんはコの角っこにある椅子に、腰をおろそうとしました。
と、
「やほー」
2つ隣の席から明るい声がかかります。
茶髪の矢沢さんがちょいちょいと手招きしていました。
実々さんが矢沢さんの隣まで移動します。
「悪いんだけどぉ」
矢沢さん。
苦笑い。
僕、何となく察する。
「これ、頼めないかな」
「?」
「ほら、この前のキョージュんとこにさ」
キョージュこと、秋庭先生の家に行ってから、もう2ヶ月ほどが経っています。
話ながら、矢沢さんは机に人差し指を向けました。
「届けてほしーんだよね」
あの日以来、矢沢さんから家政婦の代理を頼まれたことはありません。
矢沢さんが指さした先には、古ぼけたハードカバーが置かれています。
「あたしも困ってんだよね。
今日先生のトコ行く日じゃないし。
そもそもホームキーパーってさ、別に召使いじゃないじゃん。
でもあのゼミのヒト、その辺よく分かってないらしくてさ」
と分厚い本にデコピンをする。
矢沢さんは秋坂ゼミの学生に、
先生が届けて欲しいと言った本を、替わりに持っていってくれ、と
押し付けられたらしいのです。
「つってもそれあたし関係ないじゃんね」
そだね、関係ないと思う。
実々さんはもっと関係ないと思う。
実々さんはカフェオレ色の指で黒髪をいじっています。
困っています。
今は学期末なので、もうすぐ試験があります。
ゼミが終わったら帰って試験勉強をする予定です。
「あの、先輩――」
今回も一応柵の前で立ち止まり、実々さんは家の中に呼びかけました。
返事はありません。
二度は呼びかけずに、柵から玄関まで早足に進みます。
バッグ越しにも形が分かるほど、預かった本は重いようです。
早く先生に渡して、肉に食い込む肩紐の痛みから開放されたい。
という感じの心の声が、じんじん響いてきます。
実々さんは結局矢沢さんの頼み(威圧)を断れませんでした。
試験勉強よりも人間関係を優先したようです。
そして今回は無償です。
一声かけて、実々さんはドアノブをひねります。
難なくドアが開きます。
この家の人には鍵という概念がないみたいです。
実々さんが、
はぁ~、
とだらしない声を吐き出します。
やっと痛いのから開放されるので、そんな声が出ても仕方ないです。
重みに任せるままバッグを廊下に下ろしま、
せんでした。
(危なあ。やっちゃうとこだった)
実々さんは腕に力を込め直して、
今度はそっとバッグを床に置きました。
お陰で本の角は潰れずに済みました
今回の先生は、キーボードに突っ伏していました。
頬にはまばらにヒゲが生えているのが見えます。
髪も整えてありません。
SKY と書かれた空色のTシャツが、哀れなくらいくたくたです。
今日も年齢不詳、職業自称感が半端無いです。
寝息が聞こえます。
まだ息をしているようです。
起きたら、四角い跡がさぞ愉快に並んでるんことでしょう。
実々さんは先生を起こさないように静かに部屋を横切ります。
部屋は相変わらずの密林です。
辿り着いた机の上も前と同じです。
実々さんはちょっと迷ってから、
先生の足元に屈みました。
渡す本をそこに置くのかと僕が思っていると、
実々さんは色褪せたタオルケットを持って立ち上がってきました。
出来るだけ音を立てないように、そのタオルケットを先生の背中に掛けます。
扇風機が直接先生の背中に当たっていました。
SKYのTシャツが強い風にはためいています。
風に舞い上がるTシャツの臭いは、あまり嗅いでいたいものではありません。
実々さんの薄い茶色の眉根に少ししわがよります。
臭いではなく、先生の体調を気にてのようです。
『偉人伝 中東 上巻』
『世界の猟奇事件 2018年版』
『2017年度 祭り文化研究学会論文集』
他いっぱいの本。
この人、何の研究をしているんだろう。
実々さんも同じように思っています。
頼まれた本(直接頼まれたのは先生の学生で、それを頼まれたたのは矢沢さんだけどね!)を、
置く場所を探していたら、さっきの書籍名が目に入ってきたのです。
ちなみに、実々さんの手の中にあるハードカバーは、
『ピエロと神官』
という謎のタイトルです。
実々さんが、そうっと体の向きを入り口側にむけます。
ピエロと神官は今は、先生の右手の脇に置かれています。
後は急いで帰るだけです。
今日中に復習したいノートが何十ページもあるのは、僕も知っています。
「あ、ぁ。加藤さん」
先生が寝ぼけたような声を出しました。
「申し訳ない。
コーヒーを淹れてきてくれませんか」
目はほとんど閉じています。
その下には今日も濃いくまがあります。
実々さんがおずおずと口を開きます。
カフェオレ色の肌を引き立てる、形の良い唇が動きます。
「あの……
すみません先生……
今日は頼まれてらっしゃったご本をお持ちしただけで」
あとご主人の名前は本多さんで、
加藤さんはもう辞めてますんで。
だから先生の言う事は無視しても構いません。
むしろ無視すべきです。
でもここは台所です。
「そういえば先生は何党なんだろう。
前の時はあんまり考えずにブラックお出ししちゃったけど」
お湯を沸かしながら独りごちる実々さんです。
実々さんの長所は、人の頼みを断らないように心掛けているとこです。
短所は人の頼みを断れないとこです。
台所も家の雰囲気に合ったオシャレな作りです。
茶髪の矢沢さんは意外と仕事はするようで、シンクも綺麗です。
テーブルの上にもホコリはありません。
そこや床に本の山がなければもっと良かったです。
僕がそんなことを思っている間、実々さんは戸棚を順に開けていきます。
「クリープないねえ」
また独り言。
一人暮らしが続くと独り言が増えるのです。
「砂糖はどうなんだろ。
袋はあったけど、これ料理にしか使ってないのかな。
先輩にもっと聞いとけば良かったかな」
これは先輩の仕事だという事は忘れているようです。
実々さんは湯気の立つマグカップと小さな小さな皿を持って部屋に戻ります。
皿には砂糖が盛ってあります。
先生は起きていました。
予想通り、キーボードの跡がほっぺたの上でで愉快に踊っています。
先生は目を丸くして実々さんを見つめています。
「どうして今日、
やざ……
かと……
違う。
黒髪で肩まで髪が届かない、から
ああ、」
先生が納得したように頷きます。
「申し訳ない。
今は関係ないあなたにコーヒーを頼んでしまって。
それにしてもお久しぶりですね。
玉村さん」
また新しい名前が出てきました。
先生が一人で喋っています。
「申し訳ない」
これが口癖のようです。
名前を思い出してもらったご主人は、静かに聞いています。
窓の外はすでに暗くなっています。
「私はどうにも人の顔を覚えられないたちでして。
色々試した結果、
ふーふー
今の方法に辿り着いた訳でして、
ふーふー
つまり髪の色や形で人の見分けをしているのです。
ずず、ずずず
おや、これは美味しいコーヒーですね」
先生が嬉しそうな声を上げます。
窓の外はもう暗くなっています。
貴重な時間は戻って来ません。
美味しいコーヒーが飲めて良かったですねセンセイ。