第一話 先生の家
第一話 先生の家
僕のご主人の名前は、本多実々(ほんだ みみ)。
そして僕は彼女のおしゃれな腕時計。
その日も大学の路面には、太陽光が元気よく降り注いでいました。
実々さんも、いま実々さんの前にいる茶髪の女の人も日焼け止めを 塗っています。
「ほんと助かる! 本多さん!」
目の前の茶髪さんが大げさに合掌をします。
実々さんは、私は全然大丈夫ですからと控え目に微笑みました。
茶髪さんは実々さんが喋っている途中でもう校舎の方へ駆け出しています。
「ホントありがとねー!」
走りながら元気よく手を振っています。
そして校舎の中へ消えました。
茶髪さんに応えるように、隣のヨッチャンも手をブンブンしています。
実々さんは軽く会釈しながら、脇腹のあたりで小さく手を振ります。
実々さんはこういう時、小さくしかリアクションを取りません。
「惜しかったあ。
ホームキーパーのお礼にチケット一回とかー。クラブなかったらアタシ行きたかったー」
歩き出しながらヨッチャンが言いました。
ホッケーをやっている彼女の顔はこんがりと焼けています。
「惜しかったね」
ヨッチャンに応える 実々さんは薄いカフェオレのような肌をしています。
ママがフィリピンという国から来て、褐色の肌をしているからです。
パパは日本の人なので、娘の実々さんは濃い茶と黄色が混じって儚げな茶色なのです。
髪はセミロングの黒色です。
本当は大学に入るとき、茶色に染めるつもりでした。
でも直前で不安になって、お店の前でUターンしたのです。
「もうこの辺のはずなんだけど……」
腕時計を、つまり僕を見ながら実々さんはつぶやきます。
場所は大学から二駅行った住宅街に移っています。
実々さんは、家と大学の周り以外では土地勘がありません。
北陸から関東の方へ越してきて、まだ二年 しか経っていないので仕方ありません。
ちょっと方向音痴だったりするので、尚更仕方ありません。
実々さんは大学で宇宙科学という勉強をしています。
なんか難しいやつです。
実々さんは楽しそうに勉強してます。
将来はずっとそれの勉強をするか、それを人に伝える仕事がしたいようです。
あ、と実々さんが小さく口を開きました。
スマートフォンと表札の文字を見比べて、
「良かった」
と小さく微笑みました。
どうやら目的の家が見つかったようです。
表札には『秋庭 -Akiaba-』と書かれてあります。
実々さんは今日、この、
本当はもっとお洒落なんだろうなー、
と思う、今は白い壁が薄茶色くなったペンションみたいな所で、家政婦さんをするのです。
さっきの茶髪の(ゼミの)先輩に、一日だけバイトを変わって欲しい と頼まれたからです。
彼女いわく、
「軽く変な人だけど基本部屋から出てこないから。別に相手にもしなくて良いよ」
だそうです。
「ごめんくださーい」
実々さんにしては大きな声で、家の方へ声をかけます。
返事はありませんでした。
実々さんはもう一度、今度はもっと頑張って、声を出します。
静かです。
涼しい風が通り過ぎていきました。
「おじゃましまーす」
また控え目な声に戻って、実々さんは柵を押し開きました。
キィイィと錆びついた音が草ぼうぼうの庭にひびきます。
(お仕事に庭掃除は入ってないんだ)
少し寂しそうな心の声が聞こえました。
僕は実々さんの思っていることがある程度聞けるので、こういう事も分かるのです。
僕が実々さんから愛されている証拠です。
結局、この家の人からの返事は、玄関を開けてもありませんでした。
仕方ない。
心の中でそう言いながら、実々さんがバッグの紐を握り直します。
「私は今日こちらのお手伝いをする事になってるんだから。
それに時間に遅れたらもっと失礼だし。
……きっと」
言い訳みたいな事をモゴモゴしながら、スリッパに履き替えます。
振り返って靴を揃えて、ついでに脱ぎ散らかっていられる他の靴も揃えます。
どれも男性用で、サイズもおなじみたいです。
(一人暮らしなのかな)
と、実々さんの心の声
ごめんくださぁ…ぃ……
と、囁くような声を掛けながら、実々さんは奥に進んでいきます。
廊下も庭と同じてあまり綺麗ではありません。
あちこちに本の塔が出来上がっています。
茶髪さんが掃除機をかけているのか、ホコリ臭くはありません。
キィキィと床板が鳴ります。
もうお昼近いのにカーテンは開いていないようです。
足元が見えにくいので、実々さんがうっかり本の塔にぶつかってしまわないか心配です。
角を一つ曲がりました。
すると、やっと廊下まで窓の光が伸びる部屋がありました。
バッグの紐を握りしめていた実々さんの拳も、ほころびます。
小さく深呼吸をすると、
実々さんは部屋の前に立ちました。
左右の手を腿の前で揃えます。
ドアは開いています。
「失礼します。
東川大学2年生の本多と申します。
矢沢さんの代理で、本日こちらのお手伝いをさせていただきに参りました」
緊張で声が震えています。
実々さん、バイト経験がないのです。
でも何度も心の中で練習したセリフはちゃんと言えました。
また返事は帰ってきません。
また!
またです。
僕は腹が立ってきました。
今度は絶対聞こえたはずです。
だって向こうの人、ヒゲも剃らずに本を睨めつけるように読んでいる男の人、と実々さんはほんの数メートルしか離れていないのですから。
これはきっと実々さんへの嫌がらせです。
でも実々さんは、僕とは違うように考えました。
「勝手にお邪魔してしまいすみません」
頭を深く勢い良く下げます。
あんまり勢い良く下げるもんだからわずかに風が吹きます。
目まで届く男の人の前髪がかすかに揺れました。
男の人はようやく、目を本から離しました。
一瞬でしたけど。
「待ってたんですよ」
男の人が喋りました。
普通のことなのにとても新鮮です。
「コーヒーがね、昨日の夜からなくなってしまったんですよ。
淹れてきてもらえませんか」
キノウノヨルカラ?
僕のピカピカした長針と短針はお昼の十二時をさしています。
部屋の中の重そうな机にも、本や書類の塔がが建築されています。
その内の一つに微妙なバランスでカップが置かれてました。
空っぽです。
(夜……夕飯の後からずっと)
机の前にいたの? かな、
と、実々さんは軽く驚きました。
でもすぐに、はいと返事をします。
男の人は、実々さんと親子ほど歳が離れているようでした。
目の下には濃いくまができています。
エリの伸びたTシャツから除き見える肌にも、生気がありません。
というか、
女の人が来ると分かっているのに、屈めば胸が見えるような服を着ているなんてどうかしています!
実々さんは男の人の気を散らさないように小さく、
「ご用意してまいります」
と答え、小さく会釈をし、小さく回れ右をします。
台所は自分で探すつもりです。
と、後ろから声がかかります。
「申し訳ない。
朝食を一緒に作ってきてくれませんか。
昨日の昼から何も食べていなくて」
繰り返しになりますけど今はお昼です。
この人の言う、昨日の夜っていつなんだろう。
実々さんは玉子粥を作りました。
空きっ腹には、少し冷ましたお粥が良いと思ったからです。
コンビニのお弁当や外食ではお金がかかるので、料理は普段からしています。
「失礼します」
一声かけて部屋の中へ。
一歩目で本に蹴躓きそうになります。
(わ、や、わっ)
何とかお盆は死守できました。
実々さんが部屋の中を見回します。
(壁が埋まってる……正しくは何畳分なんだろ)
実々さんは足元に注意しながら進んでいきます。
ちょっとしたジャングルを探検しているようです。
高い本の木。
床がほとんど見えない本の草むら。
壁がどこにあるか見当がつかない本棚の壁、壁、壁。
窓が埋まってないのがミラクルレベルです。
「お食事とコーヒーをお持ちしました、先生」
先生と呼ばれた無精ヒゲの男の人は本から目を上げません。
目で本の文字を追いながら、手は猛スピードでペンを走らせています。
どうしよう。
という心の声が不安げです。
そっとお盆を置いて出ていこうにも、お盆を置くスペースがどこにもありません。
少し間がありました。
突然先生が顔を上げます。
「ん、いい匂い」
「遅くなってすみません。お食事を持って参りました」
実々さんが微笑みます。
右手には白いマグカップがあります。
マグカップからは湯気が立ち上り、湯気は先生の小鼻をかすめています。
実々さんはカップを先生に近づけ、先生の嗅覚に訴えたのです。
先生はお粥をかき込み始めました
食べながらお腹がぐうぐうなっています。
ほんとに丸一日何も口にしていなかったようです。
実々さんが再びジャングルをかき分け始めます。
掃除に洗濯、夕飯の用意。
ホームキーパーの仕事はまだまだあります。
と、
「やー、美味しい」
また背後で声がしました。
さっきよりずっと、すっとんきょうな音程です。
「これは、うん、もぐもぐ美味しい。
失礼ながら加藤さん、腕を上げましたね」
失礼なのは実々さんの名前を間違え事です。
さっき名乗ったのに。
「ありがとうございます。
お口に合ったのなら良かったです。
あ、遅くなりましたが私は――」
「……?
あれ。加藤さんですよね。
家事を頼んでいる。
髪黒く染められたんですね」
顔を上げた先生と実々さんが目が合います。
「私は宇宙科学科の矢沢さんの、代理の本多と言います」
実々さんが二度目の自己紹介をします。
「…………?
………!
そうでした。申し訳ない、矢沢さん。
加藤さんは一つ前の方ですね。
彼女は赤い髪にしていらっしゃいました。
あなたの茶色い髪とはまるで違い…………
あれ? 矢沢さん髪黒くされました?」
この人大丈夫だろうか。
「私は矢沢さんではないんです。
ご挨拶のタイミングがおかしくてすみません」
実々さんは我慢強く3回目の自己紹介をします。
「あー、代理の方ですか。
………ふむ
本多さんは黒髪、と」
変な事を呟きつつ天井を見上げます。
「ところで本多さん。
矢沢さんの髪は何色でしたでしょうか」
これが、実々さんと先生の出会いでした。