第六話 パステル色の思い出に終末を
少女は眠っていた。
少女が目を覚ます。辺りは広い草原でいっぱいだった。
少女は記憶どころか話すための言語や知識もなかった。単語の一つさえ分かっていない。
直感的に分かることといえば、自分が白い着物を着ていることと立ち上がって歩けることと自分は生きている者であり同時に生きていない存在でもあること。その存在が幽霊だということに少女が気付くのはまだ先のことだった。
少女の居る草原には誰一人いなかった。
一人で居ることが恐い。そう思い、少女はここから逃げるようにどこかに向かって歩き出した。ただひたすらに歩き続けた。それから一週間、少女は疲れきっていた。どうやら幽霊には餓死はなくとも、空腹や疲労は存在するらしい。足取りはすでにフラフラとしており、目は霞む。
それでも少女は歩くのをやめない。自分には歩くことしかできない。歩くのをやめてしまったら自分は消えてしまう。少女にはそう思えた。しかしもう少女は限界だった。
そしてついに倒れてしまう。少女は歩くのを結果的にはやめてしまう。
だが、少女に待っていたのは消滅ではなく――救いだった。
気付けば少女はベッドの中にいた。着ているものも白い着物からカラフルな水玉模様のパジャマになっている。少女が辺りを見渡すとそこは広い部屋だった。
部屋は洋室で広いベッドのほかには大きな鏡があり、少女は初めて自分の姿を見た。そこには黒く長い髪に、十五、六歳くらいの見た目の女の子が映っていた。
少女が鏡に映る自分に困惑していると、ドアからコンコンと音が聞こえたかと思うと、「入りますよ」と穏やかな声と共に一人の老人が入って来る。
老人は声と同様、穏やかな顔をしており、紳士が似合う容姿をしていた。
「気がついたようですね。具合はどうです?」
老人はニコッと微笑むが、少女には老人が言っている言葉を理解できなく、言葉も話せないので、どうすればいいかと悩んでいたら、老人はすぐに幽歌が話せないのを察し、
「私の名前は黒野。よろしくお願いしますね」
ゆっくりと少女に分かりやすい声で少女に挨拶する。
「く……ろ……、の? よろし、……く?」
少女は黒野という名の老人の言葉を真似して発音してみる。
すると黒野はとても嬉しそうに笑いながら、
「そう黒野です。私たちはこれから貴方の家族です。ようこそ『我が家』へ」
黒野は歓迎の言葉を贈り、先程と同じように微笑みながら少女の頭にぽんっと手を置く。なぜだか分からないがその行為に少女はとても安心した。
*
黒野はここで少女のような幽霊の世界での生き方が分からない者や馴染めない者などを保護する施設『我が家』の園長である。
ここでは少女の他にも数十人の幽霊たちが時にはケンカしながらも本当の家族のように協力し合って暮らしている。
少女は『我が家』で黒野に実の娘のように育てられて言葉や知識に常識を学び、他の幽霊たちには痛みや嬉しさを学んで兄弟のように育っていった。
少女がここに来て三か月、少女は大分言葉を覚えてよく笑う子になった。しかし少女にはまだ名前がなかった。少女を呼ぶ時は基本貴方や君などの二人称で呼んでいたが、そろそろそういう訳にもいかないだろう。
黒野は今まで少女の教育の忙しさのあまり名前を考える暇もなかったが、本当に名前を付けないといけないと思う。が、決まらない。他の幽霊たちにも相談するが、ハチャメチャな意見が出るだけで、全くまとまらない。一部からはもう『名無しちゃん』でいこうとか『少女A』という意見も出たが、それは余裕で却下の方向になった。
どうしたものかなぁと黒野は頭を悩ませていると綺麗な音が耳に入って来た。
なんだろうと思い、耳を澄ませてみると、その声は唄を歌っていた。歌詞のない唄を。なのに、聞いているだけで心を惹きつけられるほどの綺麗で、優しい唄だった。
歌声の方へ吸い寄せられるように近づいてみると、この歌声の主は――少女だった。
少女はまるで恋焦がれるように切なく、同時に楽しそうに月を眺めながら歌っていた。少女が歌い終わると、黒野は気付かぬ内に賞賛の拍手を送っていた。
「あっおとうさん! どうしたんですか?」
少女は黒野に駆け寄りながら最近覚えたばかりの拙い言葉で、父のように慕う黒野の言葉遣いを真似て訊ねてくる。
「いえ。貴方の名前をどうしようかと考えていたら、私が聞いたことのない綺麗な歌声が耳に入ったのでつい拍手を送っていたんですよ」
「わたしのおうたじょうずだった?」
「ええ、とても上手でした」
黒野は優しく微笑んで、少女の頭にぽんっと手を置いて撫でる。少女はこうするといつも喜ぶのだ。
「えへへ~」
唄を褒められて嬉しいのか頭を撫でられて嬉しいのか分からないが少女は楽しそうに笑う。こうしてみると見た目よりもずっと子供に見える。その幼さが黒野は微笑ましかった。
「しかし貴方はいつあんな唄を覚えたんですか?」
「ん~と」
黒野が聞くと少女は考え込むように首を傾げて、すぐに目を輝かせる。
「あのねあのね! このまえねわたしがひとりのときさびしいなとおもいながら、おそらをみてたらかってにうたえるようになったの!」
少女は元気な声で黒野に伝える。その声にはたくさんの距離を一人で歩いた孤独な少女の影はもうなかった。
「そうですか」
黒野は少女の元気な声に安堵するも勝手に歌えるようになるなんて不思議なこともあるんだなと思っていると、少女ははい! はい! と手を上げている。
「どうしました?」
「おとうさんわたしのおなまえねあれがいいです! スーパーゆうれいまん!」
「スーパー幽霊マンですか? うん~それはやめたほうがいいのではないですか。というよりもスーパー幽霊マンってなんです?」
「え~」
黒野が否定すると少女は笑顔から不満気な顔になる。よっぽどスーパー幽霊マンがよかったのだろう。少女のブーイングに黒野はいい名前を付けてやらないといけないなぁとプレッシャーを感じているとふとさっき少女が歌っていた姿が思い浮かぶ。
「そうだ!」
普段は冷静な黒野がいきなり大きな声を出したことに少女は驚く。少女を驚かせたことに黒野は謝るが、まだ興奮は収まらない。
「いったい、どうしたのですかおとうさん?」
少女が黒野に聞いてみると、
「思いつきましたよ。貴方の名前を」
「えっ、スーパーゆうれいまんですか?」
「違います。というよりも貴方まだスーパー幽霊マンを引っ張りますか」
「だってスーパーゆうれいまんがいいんだもん!」
顔をふくれっ面にして少女は訴える。その表情に黒野は複雑な気持ちになる。
「そうですか。そんなにスーパー幽霊マンがいいんですか。でも、とりあえず私の考えた貴方の名前を聞いてくれますか?」
黒野はなんとか話を聞いてもらおうと提案すると、少女は腕を組んで考え込むと不満タラタラの顔で許可する。
「う~んじゃあいいですよべつに!」
「ありがとうございます。ではさっそく言わせてもらいます」
黒野はスーと息を溜め、自分の考えた名前を声に出す。
「……幽歌。幽霊が歌うで幽歌」
「ゆう……か?」
少女はキョトンとなる。
「どうですか? 幽歌よりスーパー幽霊マンの方が良かったですか?」
少女は先程と同じように腕を組みしばらく考えこんでから、パッと顔が明るくなる。
「おとうさんゆうれいがうたうから、ゆうかというのはてきとうというのです。でも……
ゆうか、とてもかわいいおなまえです。おとうさんわたしのなまえはゆうかがいいです!」
「そうですか。……良かったです」
無事少女の名前が決まり、黒野はホッとする。
「あっでもスーパーゆうれいまんはわたしのこーどねーむにしてくださいね」
「……貴方コードネームの意味分かってます?」
*
少女が幽歌になって今日でちょうど五年と半年の月日が経つ。
この期間で『我が家』から無事独り立ちして出て行く者もいれば、幽歌と同じように人間のころの記憶が無くなっている者や悪霊に襲われて片腕、片足がを失った者が『我が家』に入ってきたりと幽歌はさまざまな出会いと別れを繰り返してきた。
その間に幽歌は拙さが残る口調からしっかりとした口調に成長し、『我が家』の家族たちからにもいろいろと教わり、ある程度の学力や知識も付いた。
また幽歌には普通の幽霊では持たないはずの特別な力が存在することが分かったが、それでも『我が家』の家族たちは幽歌を特別扱いせず、変わらずに笑って接してくれた。
幽歌はそんな家族が大好きで、そんな毎日がとても充実していて幸せだった。
しかし一年後、幽歌が大好きなその日常はあまりにも脆く崩れて行った。
幽歌は最高に機嫌が良かった。それは今日で幽歌がこの施設に来て七年になり、ここでは幽歌が施設にやって来た日を誕生日として祝っている。
幽歌は誕生日をとても楽しみにしていた。みんなが自分を祝ってくれるのも、もちろん嬉しいがそれ以上に誕生日などの祝い事で、ただでさえ仲のいい家族がさらに仲良くなっていく感じが幽歌は大好きなのだ。
今、家族は施設で祝いの準備をしているので、準備が終わるまで幽歌は花畑で誕生日に飾る花を摘んでいる。
この花畑は施設から少し離れているがたくさんの綺麗な花が広々とした原っぱに咲いており、幽歌はこの場所をとても気に入っていた。
「フーンフフ♪」
花を摘んでいると思わず、鼻唄を口ずさんでしまう。今日はよく晴れているし、花は綺麗でいい香りするものばかりだし、いい日だなーと実感していると、突然後ろから肩に触れられる。
「キャッ!」
「おっと、ビックリさせたかな」
恐らく、日本人ではない顔立ちの青年が黒野とはまた違った感じの紳士的な口調で幽歌に優しげに詫びる。
「あっ霧亜さん!」
幽歌が霧亜と呼んでいる青年は幽歌の家族の一人である。
彼は黒野と一緒に『我が家』を開き、現在は教師役となり、この世界の生き方が分からない者たちに黒野と共にたくさんのことを教えている。
幽歌も霧亜にいろいろなことを教わった。霧亜を教師として信頼し、家族として頼りにして、そして幽歌が初めて恋をした相手となった。
初恋。その単語が頭に浮かぶ。
黒野や他の家族に感じる暖かい気持ちだけではない。彼の爽やかな笑顔を見るとなぜか体全体が熱くなって、なんだかもう叫びたい感じになるのだ。
幽歌は霧亜に赤くなった顔を見られないように摘んでいった花束に視線を落とす。
「しかし幽歌、今日はいつに増して機嫌がいいね」
「はい。今日は私の誕生日ですから」
幽歌は自分の父親のような存在の黒野と同じ口調で明るい笑顔で答えた。
幽歌の笑顔を見て、霧亜も微笑む。
「そうだね。今日は君の誕生日だからね。上機嫌になるのも当然か」
「はい! 私誕生日が大好きですから。それより霧亜さんが来たってことはもうお祝いの準備は終わったんですか」
「…………。いや実は準備が結構かかってしまってね。僕は君にもう少し遅れてしまうことを伝えに来たんだ」
そう言った後の霧亜の顔は一瞬、ものすごく冷たい目になった気がした。
「え?」
その目に幽歌は恐怖を感じたが、霧亜はすぐにいつもの穏やかな顔に戻った。
「じゃあ幽歌。僕は準備に戻るからもう少し待っててね」
そう言い残して霧亜は花畑から去って行った。
……気のせいだよね……。
幽歌は先程見た霧亜の冷たい目を思い出すが、あれは自分の見間違いだということにし、再び花を摘むことにする。
しばらくして花を摘むことをやめて、迎えを来るのを待つが一向に迎えは来ない。
「遅いですねー」
そんなに準備がかかるってどれだけ豪華にしているのだろうか、もう一人で帰ってしまおうかななどを思い浮かべながらたくさんの花の中に寝転ぶ。
空を見ると、花が摘む前よりも雲が多くなっていることが分かる。それでもまだ空は青い。太陽もまだ隠れていない。
幽歌はそんな大空を見ながら、これまでのことを振り返る。
「今ってとても幸せなんでしょうね」
幽霊でよかった。記憶なんてなくてよかった。心の底からそう思う。
そのおかげで黒野に、霧亜に、家族たちに会えたんだから。ずっとこのままが続けばいいな。そう願いながら幽歌はゆっくりと目を閉じる。
冷たいものが頬に当たる。
目を開けるとどうやら眠っていたらしいことに気付く。空を見上げると雨が降っていた。
眠ってしまう前は空はまだ青かったのにいつの間にか灰色に染まっている。
「雨が降ってきたのなら誰か迎えにきてくれればいいのに。気が利きませんね」
起きたばかりのボーとした頭で文句を垂れる。そう思いながらもかなりの時間が経つのに誰も迎えに来ないなんておかしいと幽歌は思ってしまう。
だんだんと胸に嫌な予感がよぎってきて幽歌は急いで『我が家』に帰るとそこには純粋で優しい少女にはあまりにも残酷な光景があった。
周りは辺り一面血の海だった。
その血の海の中に居たのは化け物と血まみれで倒れている幽歌の家族たちだけだった。