夏祭りは大忙し
本日二話更新、一話目。
転勤先の支店では地域の夏祭りに屋台を出し、社員は浴衣かハッピで売り子をするのが慣例だという。浴衣なんて幼稚園の夕涼み会で着たのが最後の私が、どうしようかなあとぽろっとこぼした言葉を拾われた。
『着ないのがあるから、よければ』そういって「香」のおばあちゃんから譲ってもらった浴衣は素敵な藤の花の模様。少しレトロでそこがまたいい。
なんでも、これを着ておじいちゃんと夏祭りに行った思い出の一枚だと言う。そんな大事なものをと遠慮しようとしたら、しまいっぱなしで可哀想だから、千耶子ちゃんが着てくれたら嬉しいわってにっこりとされて、ありがたく大事に着させてもらうことにした。
主に会社帰りに行われた、喫茶「香」での着付け教室。最初に言われた通り「浴衣を着て、帯を締めて、畳んでしまう」ところまで、わりとすぐに一人で出来るようになった。その後もおばあちゃんのおすすめに甘えて、今度は普通の着物を着られるようにと習い続けている。
浴衣とか和服とか、実はちょっと憧れてはいたのだけれど中々機会がなくて踏み出せずにいたのだ。身近に詳しい人がいるわけでなし、お茶や日舞を嗜むような生活でもなく。興味はあっても、呉服屋は敷居が高いし何か買わされそうだし、わざわざ着付け教室に通うようなフットワークの軽さも持てなくて今まで来たのだった。
そんなわけで、無理のない形で和装の一歩を踏み出せたことは非常に嬉しい。
ついでに、ご自宅の和室が着付け教室会場だったのだけど、毎度ちらっとチャコちゃんが姿を現してくれるのも地味に嬉しかった。本当にちょっとだけ姿を見せてすぐにいなくなっちゃうんだけれど。それでも“あまり自分からは他人に寄らない”というチャコちゃんが自ら覗きに来てくれるのは、なんだか特別扱いされているような気になってしまうのだ。
そんな風にされると、つい手土産に猫缶とかササミジャーキーとかを用意してしまうのは仕方ないと思う。こらそこ、ご飯目当て言わない。いいの、それでもっ。
帯の結びは蝶々みたいな文庫。とりあえず最初なので超スタンダードなのを覚えた。来年は、矢の字なんかでキリッといってみたいという野望をこっそり持っている。
ちなみに練習初日。初めての着付けが完成して、姿見の前でくるくる回って喜んでいたところを偶然通りかかった彼に見られた時は、顔から火が出るかと思った。いや、覗かれたわけではなく、戸を開けっぱなしにしていた私が悪いのだ。閉めたつもりだったんだけど……もしやチャコちゃんが。いや、そんなことは。ああ、ええと。彼。コックさんの彼、正人さん。ってとうとう名前で呼ぶようになっちゃったよ!
だって「香取さん」って呼ぶと、おばあさまとおじいさまとコックさんの彼の三人が振り向くんだもの。そりゃそうだよね、家族だし! というわけで、ややこしいから、と「おじいちゃん」「おばあちゃん」「正人さん」呼びを提案されてこうなってしまいました。
男の人を名前で呼ぶのなんて慣れてないから毎度内心ばくばくしてる。それで、呼ぶとなんだか妙に嬉しそうに返事してくれるのがまた心臓に悪い……先日ドラッグストアに行った時に動機息切れの薬を見かけて、買うか買うまいかしばし悩んだくらいだ。
下駄を買うのに連れて行ったくれた呉服屋で、なぜかプレゼントしてくれた大人可愛い髪留めは、私のチェストの一番上の引き出しにしまってある。
他のアクセサリーとは別にして、布張りの浅い箱に入れているのに特に意味はない……はず。
まあ、そんな風な日々を過ごして、夏祭り当日の今日。私は浴衣にタスキをかけて、職場の出店テントでかき氷を売っている。
知らなかったのだけど、この辺では一番大規模に花火が上がる夏祭りなんだそう。近隣の市からも集まっているらしく、とにかく人出がすごい。ちょうどメインの大通りにあるせいか、昼前に開店してからというものちっともお客さんが途切れない。
氷の手配や、かき氷を削ったりなんかは経験者の先輩社員がみんなやってくれて、新入りの私はひたすら接客。注文を聞いてお金を受け取って渡すだけ。労力的には一番楽なはずなのに、結構疲れる。主に常に営業スマイルを貼り付けている顔が。
だいぶ陽も傾いて、祭り客たちが海岸沿いの花火会場の方へ移動を始める頃になって、ようやくお客さんも落ち着いた。そんな、もう間も無く私の売り子当番も終了お疲れさま! の頃になってちょっと困った客が現れた。
「ねーえ、いいじゃん」
「あの、困ります、他のお客さんもいますので、」
「教えてくれたら退くよ? すぐ戻って来るけど」
あははっ、なんて調子の外れた軽い笑い声にげんなりする。二人組で来た若い客のうちの一人が、かき氷を渡した私の手首を掴んで離さずナンパを始めたのだ。
間に長机の幅しかない状態で、身を乗り出されて顔にかかる呼気のアルコール臭といったら、一体いつから飲んでたんだコイツ。私なんかに声をかけることといい、かなり酔っている。
さっきまでテントにいた会社の皆、副支店長はお祭り実行委員の商工会議所の人に呼ばれて、一人はゴミ出しに、一人は水分補給の休憩で、とこれまたタイミングよく私一人のみという状態。
こんなことならホームセンターのレジ打ちじゃなくて、居酒屋でバイトして酔客のあしらい方に慣れておくんだった。さっきから何を言っても人の話など聞いちゃいない。
「教えてあげてよー、こいつ彼女と別れたばっかで寂しいんだってさ。慰めてやってぇ?」
「ほらぁ、言わないとこうしちゃうぞぉー」
「あの、ちょ、やめてくださいっ」
ちくしょう、連れも酔っ払いだ。こんな時に一番頼りになる幸子さんはトイレだ。幸子さーん、早く戻ってきてーっ! ああもう、シロップ頭からかけてやりたいっ! ベッタベタにしてやりたいっ!
ギリギリと握られた手首が悲鳴をあげて、酒臭い息が超至近距離に迫って、机で踏ん張っていた手が思わずかき氷シロップ(ブルーハワイ)へ向かおうとしたその時。
「……離せ」
「ひッ!?」
ああ、地を這う声ってこういうのを言うのね。確かにこの瞬間助けを求めて脳裏に浮かんだ人の、最高に機嫌の悪いドス声が全身に響いた。
そらしていた顔を正面に向ければ、がっしりとした体躯を黒っぽい浴衣に包み、酔っ払い兄ちゃんの肩をがっちりと掴んだ正人さんが。……今日のその外見は、首から下げたスタッフ用ネームホルダーが無ければ、どう見てもその筋の人に見えてしまうのに、私はそんな彼を見て泣きたくなるくらいホッとしてしまった。
一気に酔いが覚めたような顔色になった兄ちゃんは、ギロリと睨まれて慌てて私の手を離す。あまりの迫力にポッカリとできた店前の空間に、お祭り実行委員のハッピを着た男の人が呑気そうに出てきた。ニコニコと愛想良い笑顔は見覚えがある。引越しの時にお世話になった不動産屋の若旦那だ。
「……かなり酔っているようだ。事務所で休ませてやってくれ」
「はいはい、君たち飲み過ぎ注意ね。お酒は楽しく飲まなきゃー。あ、正人、後はお前適当に歩いてフリーでオッケーな。携帯だけ通じるようにしといて」
さてちょっと向こうで酔いを冷ましてから帰ろうか、そう言って大人しくなった二人をさっと連れて人混みに消えていった。ポカンとする私の前に残ったのは、まだ眉間にシワの残ったままの正人さん。
「あ、あの。ありが……」
「お待たせっ。ごめんね、トイレ混んでて時間かかったわー……って、あら、どうしたの?」
お礼を言おうと口を開いた時、幸子さんが戻ってきた。
「あ、マサ君、久し振りねえ。今日はこれまた粋だわね。迫力満点で巡回にぴったりだこと」
「ご無沙汰しています。酔っ払った客が絡んでいましたので……」
「千耶子ちゃんに?」
「あ、でも、正人さんが収めてくれたので……ああいうの、慣れていないので助かりました。ありがとうございます」
ようやくお礼を言えたけれど、どうにも彼の表情がすぐれない。軽く腕を組んで片手を顎に当てて何やら思案中だ。その間に幸子さんに、ことの顛末を手早く報告する。
「千耶子ちゃん花火見るって言ってたけど、そんなのの後じゃあねえ、ちょっと一人は心配ね。あ、ねえマサ君、どうせ花火会場までも巡回行くでしょ? 千耶子ちゃん連れて行ってあげて」
「そうですね」
「え、いや、大丈夫ですって。そんな子どもじゃないですし」
「何言ってるの。子どもじゃないからこそ、これからの時間は特に気を付けないと。酔っ払いも増えるからね、一人歩きなんかして絡まれると面倒よ」
そうこうしている間に、いなくなっていた皆も戻って来た。結局、時間もいいしで、お仕事終了を言い渡された私は、そのまま正人さんの方に押し出される。
「花火の後はお家までちゃんと送ってね。頼んだわよ、私の可愛い後輩なんだから!」
「幸子さん、さすがにそこまではご迷惑「ええ、確かにお預かりしました」――ええぇっ?」
そして有耶無耶のうちに二人で花火を見ることは決まってしまったようだ。
戸惑いながらも雑踏に消える私たちの後ろ姿を、小さくガッツポーズをする幸子さんと、ぬるい笑顔の副支店長たちが見送っていた、らしい。