祭りの支度はこちらでどうぞ
彼(香取正人)視点
活動報告既出分に大幅に加筆修正しています。
新メニューの試作が続く最近、定休日の俺の朝は遅い。昼近くになってようやく起き出してみれば、居間の隣の和室では、ばあちゃんの桐箪笥が引き出しごと抜かれ、たとう紙とその中身が散らかりまくっていた。
「……ばあちゃん、何やってるの」
「あ、マサ君起きたの。これ? おばあちゃんの昔の浴衣。千耶子ちゃんにどうかなって」
「っはぁ!? 」
起き抜けにその名前を聞くとは思わなかった。思わず見回してしまったじゃないか、心臓に悪い。もちろん彼女がいるはずもなく、ソファーで新聞を広げて趣味の切り抜きに精を出すじいちゃんと視線がかすっただけだ。
「ほら今度、花火大会あるでしょう。あそこの会社も夜店出すから。千耶子ちゃん浴衣持ってないって言うし」
「……ああ、夏祭り」
夏の始めに行われる地元の花火大会はちょっとした規模の祭りで、この辺りの店や事務所はそれぞれ屋台を出すのが長年の習いだ。確かに彼女の職場も綿あめだったか、かき氷だったかの出店をしていたはずだ。うちの店も毎年フランクフルトを鉄板で焼いて売る。俺はもちろん、裏方だ。
ばあちゃんはあれこれ布を広げては楽しげにどれがいいかな、なんて選んでいる。
「売り子さんはハッピか浴衣でしょ。買わなきゃな、なんて言ってたからとりあえず今年は私の若い頃のを着たら? って言ったら喜んでくれちゃって」
趣味で踊りを嗜み、祭りでは婦人会で盆踊りパレードにも参加するばあちゃんは和服の衣装持ちだ。自分の方が体は小さいが浴衣だし、売り子中はタスキをかけるから、袖の長さも大丈夫だろうとばあちゃんは言う。
「若い子だとやっぱりこのへんかな。マサ君どっちがいいと思う?」
「浴衣なんてわかんねえよ……」
そう言いつつばあちゃんの手元を見れば、濃紺色の布地に水色やピンクで水彩画のような鉄線の花が描かれたものと、白地に濃桜色の撫子の二枚。確かにどちらも似合いそうではある。
迷っているとちょうどその時、和室に入り込んできたチャコがばあちゃんの後ろでころりと寝そべった。チャコのすぐそばの、パサリと開かれたたとう紙からのぞく一枚の浴衣に俺の視線は吸い寄せられる。
「ああ、こっち? これはおばあちゃんも好きなんだけど、ちょっと地味じゃない?」
真白ではない柔らかな白地に薄紫の藤の花、所々に入る淡い鴇色の花房。
祭りの夜の喧騒、波の上に打ち上がる花火、潮風に揺れる髪――彼女がこれを着たところが一瞬にしてリアルに想像できてしまい、俺は片手で顔を覆った。ヤバい、破壊力が高すぎる。
「地味じゃ、ない」
どころか、ダメじゃないか。こんなの着ていたら他の男どもも惚れてしまうだろうが。相反する俺の心情などお構いなしに、ばあちゃんはウキウキと楽しそうだ。
「そう? じゃあ、この三枚あたりで選んでもらおうかな。そうすると、帯はこれがいいわねえ。よーし、じゃあ並べてっと……」
パシャ、と軽快なシャッター音が響く。ばあちゃんの手元には俺のスマホ。
「……ばあちゃん?」
「あ、マサ君の電話借りてるわよ。それで、添付……ああ、これ、うん」
「え、は、なんで?」
「おばあちゃん自分の電話ないから、マサ君のこれ借りてアドレス交換? っていうの、この前したの。千耶子ちゃんと。次はええと、ここ押すのだったよね、えい、送信っと」
「はぁ!?」
一生懸命操作しながら話すばあちゃんだが、今のは聞き捨てならない。俺が、いつ彼女に言い出そうかと思っていたことを勝手に済ませていたとは……! 相変わらず自由だな、この人は!
わあ、返事きた、さすが若い子は速いわ〜、なんて嬉しげな声がやけに遠くに聞こえる。
「あ、ねえマサ君。さすがに下駄や肌着は自分のがいいと思うから、千耶子ちゃんのこと『藤吉』さんに連れて行ってあげて。今日は何も予定ないって言うから、会社帰りにここに寄ってもらう事になってるから」
「え?」
「お買い物デートねえ」
うふふ、じゃないよ、ばあちゃんっ。
「だって車の方が楽じゃない、荷物も積めるし。いいでしょ? 千耶子ちゃんも、助かります、だって」
スマホの画面を指差しながら満面の笑顔を向けられる。ちょいちょい、と手で招かれて内緒話のように屈ませられた。
「……浴衣に似合う髪飾りとか、あると嬉しいわねぇ」
「っ!……顔、洗ってくる」
乗せられている気が物凄くするが、悪い気は全くしない自分がいるのも確かなことで。動揺を隠しきれずに和室を出る俺の背中でチャコが、にゃあ、と楽しげに鳴いた。
定時退社できたと嬉しそうに言いながら、彼女がやって来たのは六時を過ぎた頃だった。
和室に並べられた三枚の浴衣を見て、パッと顔を輝かせた次の瞬間、どれにしようかと眉を寄せて、でも楽しそうに悩み出す。そんなくるくる変わる表情から目が離せなくて、珍しく膝に乗ったチャコを言い訳に隣のリビングから動かず居座ってしまった。
ばあちゃんが彼女の肩にふわりと浴衣を羽織らせていく。姿見の前に立ち、候補の三枚を着比べる和室はやけに華やいでいて、まるで自分の家じゃないみたいだった。
随分迷っている風に感じたが、改めて時計をみれば決まるまで十分もかかっていなかった。選ばれたのは、あの藤の浴衣。見えない角度で握った拳に思わず力が入った。
「もちろん着付けも当日やってあげるけど、それとも練習する? 浴衣は難しくないからすぐ覚えられるわよ」
「え、いいんですか? 嬉しい、ご迷惑でなければぜひ教えてください!」
にこにこ提案するばあちゃんに即答の彼女。来年もあるし、着崩れた時に自分で直せると助かる、と言う。着付けの指導はここで、二人の時間が合う時に適宜行うことで話がついたようだ……何でそんなサクサク『次の予定』が決まるんだ。ばあちゃんのその手腕を見習いたい。切に。
それで、まあ、浴衣は決まったから店が閉まる前にと、ばあちゃん馴染みの呉服屋に向かう。外に出て車を出そうとしたら、今度はじいちゃんに手招きで呼ばれ、折り畳んだ紙をこっそり握らされる。
開けて見れば、春先にオープンした隣の市のレストランの切り抜き。地元の魚をメインに使う、雰囲気の良さそうな隠れ家的フレンチで同じ料理人としてなかなか興味深い。何故か今日の日付と時間がメモしてあった。
「予約しておいた」
「は?」
「……アベックに人気らしいぞ」
もとから食事に誘うつもりではいたけれど、満足気に頷くじいちゃんを見ていたら、素直に乗せられることにした。
でも、じいちゃん。今時「アベック」はないと思う。
いってらっしゃい、と手を振る二人に彼女は何度も挨拶をして、ようやく出発する。機動性と小回りを重視して選んだ俺の車は、自分の体に似合わず小さい。普段は気にならないのに、触れそうに近い肩がその車内スペースの狭さを猛烈に強調していた。とりあえず、平常心を心で唱える。
「すみません。せっかくお休みなのに」
「ああ、いえ。こちらこそ、ばあちゃんが強引で申し訳ない……もうすぐ着きますので」
助手席に座る彼女をちらりと目の端に入れて、アクセルもブレーキも出来るだけ丁寧に踏む。俺は運転手で来慣れているが、呉服屋自体が初めてだと言う彼女は少し緊張しているようだった。
「そんなに格式高い雰囲気のところでもないけど」
「でも、やっぱり普通の洋服屋さんとは違いますし。一人では敷居が高いから、本当に助かります。私、成人式の着物も、従姉妹のお姉ちゃんのお下がりだったので……」
大学の卒業式はスーツだったし、と言う彼女の成人式の振袖姿を思わず想像してしまう。借りた振袖は濃いピンクの華やかな柄で、自分にはあまり似合わなかった、と残念そうだ。確かに、同じピンクでも濃いのよりは薄い色の方が似合いそうだ。でもきっと、可愛かったんじゃないかと思うと言えば、あわあわとして真っ赤になってしまった。そんな顔を間近で見た俺の心臓の方がヤバい。
二人で何となく気まずくしているうちに呉服屋『藤吉』に到着する。うるさく騒ぐ胸の音さえも聞こえそうな車内という密閉空間から脱出して、ようやく息が吸えた気がした。
ばあちゃんが電話を入れておいてくれたらしく、おかみさんが色々と用意して待ってくれていた。俺の母親ほどの年齢のおかみさんはおっとりと人当たりが良く、彼女の軽い緊張もすぐに解けたようだった。
他に客のいない店内を興味深そうに眺め、履物を選ぶ。下駄の歯は、色は、鼻緒は、などと決めていくのを、いつものように出されたお茶を飲みながら待つともなく待つ。ばあちゃんのお供の時は時間を決めて一度店から出たりもしたけれど、今日は大人しく座っている。我ながら分かりやすい。
ちらりと周りを見回すと、装飾品のコーナーが目に入った。並ぶのはすっきりとした鼈甲の簪や、大小の花飾りがついた豪華な髪飾り、ブローチのような帯留。
――浴衣に似合う髪飾りとか、
ばあちゃんの声が蘇った。肩より少し長い彼女の髪は暑くなってきて上げることが多い。祭りの時は浴衣だし、確実にまとめ髪だろう。……女物の服だってアクセサリーだって、流行りも知らないし、どんなのがいいかなんてさっぱり分からない。
そんな俺の目にとまったのは、小振りな髪留め。髪留めって言っていいのかもあれだが、なんか洋風な簪みたいなやつで大小のキラキラしてるのが花の形を取りながら一列並んで、そこから少し長めのチェーンで揺れるパール風の玉がひとつ下がっている。
派手ではない華やかさとなんとなく上品な感じが、本人にも浴衣にも合いそうだ。
自分のごつい手には全く似合わないそれを眺めていると、お待たせしましたと満足そうな笑顔で彼女が戻ってきた。会計も済み、包んでもらっているところらしい。トコトコと近くに来て、俺の手にある小さい髪留めに気が付いた。
「あ、可愛いですね、それ」
「千耶子さんに似合いそうだと思って」
「っ、……!?」
あれ、俺、何言った。目の前で言葉を探しながら一気に耳まで赤く染める彼女を見て我に返る。
「あらマサ君、いい趣味。うん、これいいと思うわぁ。じゃあ、これはマサ君からのプレゼントでいいわね」
「えっ、あ、あのっ」
「お願いします。あ、千耶子さんは別なのが良かったですか?」
「いや、あれが可愛かったです。……って、ええっ、ちょ、」
す、と入り込んだおかみさんが口調に似合わずテキパキと事を進めてくれたおかげで、有耶無耶のうちに髪飾りも彼女の手の中。呆然としながらもたどたどしくお礼を口にする彼女をまた、助手席に乗せる。
「あの、本当に、何から何まで……何とお礼を言えばいいのか」
「あ、じゃあ、千耶子さんさえよければ、このまま食事に付き合ってくれませんか?」
「え」
「市外なんですが、新しくできたレストランが割と評判良いんです」
「あ、リサーチですか?」
「ディナーを試したいのですが、夜に一人では入りにくくて。一緒に行って貰えると非常に助かります」
俺の説明に府が落ちたようで、それなら是非、と頷いてくれた。まだ一緒に過ごせる、そんな少し浮ついた気分のまま、ウィンカーを出し国道へと進む。
「でも、私ばっかりいい思いをさせてもらっているみたいです」
「そんなことないです」
「そんなことありますよ」
だって本当に。好きでやっているんだから。
「気にしないでください。楽しいですから」
「わ、私だって、っていうか、私の方が楽しいですっ」
何故そこで張り合う。思わず吹き出した俺に、何で笑うんですか、と少し悔しそうにしながらもやっぱり笑う彼女。ほら、楽しいじゃないか。
さっきより息が楽に吸える車内。こうして少しずつ近づいていって、いつか当たり前のように二人で過ごせたら。ハンドルを握りながら、強くそう思った。
「鴇色」藤の紫によく似合う、優しい桃色。色の和名は雰囲気ありますね。