引越しました(旧 拍手小話)
web拍手お礼ページにて公開していたものに少し書き足しました。
「千耶子ちゃん、アパートの方は落ち着いた? 今晩は大丈夫?」
「あ、はい。ありがとうございます、幸子さん。楽しみです」
「うふふー、美味しい店だから期待してて!」
風光明媚な田舎町に転勤になって約一週間。慌ただしく済ませた引き継ぎや、引越しの後片付けが一段落したのを見計らって、職場の人たちが私の歓迎会を開いてくれることになった。
幹事は私の直の上司でもある幸子さん。工務店という、社員も関係者も男性ばかりが多い業種だが事務方は当然女性もいる。幸子さんはこの道三十年のベテランだ。
前の地元支店では完全分業制で私は資材発注ばかりを担当していたが、ここでの職務は多岐にわたる。事務所の規模は地元に比べ小さいが仕事の内容が減るなんてことは当然無く、しかも少ない人員でこなさなくてはならない。結果としてオールマイティな手腕が求められる。
そして今までの例から言うと、この支店に数年間勤務して元の地元に戻れば、待っているのは事務方管理職への道。特に手に職もなく、きっとこの先も「おひとりさま」であろう私には、自分を養うだけの仕事を続けることは人生に直結する問題だ。
壁紙や床材とばかり接していた私だが、ここに来たからには人員の発注もスケジュール管理も、なんなら接客も守備範囲になる。さすがに経理だけは専門の人がいるが。
関連業者さんたちには、やんちゃっぽいお兄ちゃんたちもいるし、最近の現場は外国の方も多い。初日だけはさすがに緊張したが、みんな気さくな人で楽しく打ち解けている。
幸いなことに私は昔から人見知りもしないし、なぜか相手からもあまり警戒されないタイプだ。おかげさまで転勤早々「千耶子ちゃん」呼びで可愛がられている……アラサーだが、これでも一番若手なんだよ。
六十を超えた支店長のおじちゃんにすれば自分の子どもより歳下なものだからか、すっごい子ども扱いされる。お昼休憩にお茶を淹れたら感心されたし。いや、お茶くらい淹れられるから。コーヒーだって飲めるから。今夜お酒飲んだら止められるんじゃないかと、半ば本気で心配している。飲みますからね。
「なんてお店なんですか?」
「駅からちょっと入ったところでね、昼間は喫茶店で夜はレストランになるの」
――そこは、もしかして。
「……漆喰壁で、サンルームとチェリー材のカウンターがあって、猫がいる……?」
「なんだ、知ってた? ふふ、そう、そこ」
来て早々あの店に目をつけるとは見所がある、と褒められて手のひらに飴をのせられた……幸子さんにまで子ども扱いだ。いいけど。
「楽しみです。夜はまだ行ったことがないので」
「メニューがね、あってないようなものなの。今日のお魚は何かなぁ」
その日の仕入れでメニューが変わるらしい。昼間行った時の雰囲気からは洋食屋さんかと思ったら、夜はパスタから散らし寿司までなんでもアリなそう。こんなのが食べたい、と言えば材料さえあれば作ってもくれるそうで、凄いなそれ。
そんなんだから毎日通う人も多いと言われて、そりゃそうだと納得だ。一人暮らしのためにあるような店じゃないか。
「ウチの息子の同級生が店長してるんだけど。腕のいい子よ、ちょっと顔が怖くて取っつきにくいけど」
笑って言う幸子さんのその言葉に、目の前に迫ったコックコートを思い出して心臓が跳ねる。うわ、やばい、今、仕事中っ。
「ん、大丈夫? 重かった?」
「あ、あはは、大丈夫です。ちょっと手が滑りました、はい」
持っていたサンプルカタログを取り落とした私は、拾いながら息を整えた。
……本気でヤバイかもしれない。
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「千耶子ちゃーん、飲んでる? 食べてるぅ?」
「はいっ、飲んでますし食べてます、美味しいですっ!」
「田中さん、ウザいわぁ。向こう行きなさいよ」
「ええー、幸子さん酷ぉーい」
わはは、と笑いながらも大人しく席替えに応じるあたり人がいいこの酔っ払いは副支店長だ。幸子さんが大物なだけかもしれないが、なんと風通しの良い職場だろうか。
大きくはないテーブルをあちこちくっつけて店の一角を借り切った状態で歓迎会は催された。店内は白シャツに黒いエプロンのホールスタッフの若い子ばかりでコックさんの彼の姿は見えず、キョロキョロしてしまった。メインの調理は彼がほとんど一人でやっているから滅多に客席側には出てこない、と聞いてがっかりしたのかホッとしたのか。
とりあえず、アクアパッツァはものすっごく美味だった。さすが海のそば。スーパーの鮮魚コーナーも知らない魚が普通にいたし。
今は一通りの飲食が済んで、お父さん連中は締めとばかりに、メニューには無い焼きおにぎりやお茶漬けを頼んでいる……居酒屋か。誰だ、かた焼きそば頼んだの、私も食べたい。海鮮あんかけで。
幸子さんはダイエット中だからご飯はパスと言いながら、デザートのケーキプレートを手にしている……何も言うまい。大好きだ、この人ら。
ちょっと失礼と席を立ってトイレに向かう。洗面所はあのサンルームと同じ方向にあって、途中の通路からちらりと厨房の様子が覗けて……コックコートの広い背中が見えたら急に酔いが回った気がして、慌ててトイレに入った。おかしい、さすがに初回の飲み会だから可愛らしいカクテル程度しか飲んでいないのに。
用を済ませ廊下についている水道で手を洗って心を落ち着けていると、小さく猫の鳴き声がした。振り返ればあの “チャコ” ちゃんが私の足元を通ってサンルームの方へ向かう。
今はお客さんもいないサンルームは天井照明は落とされて壁の間接照明だけ。ほんのり灯された暖色の灯りは雰囲気があって、さりげなくライトアップされた中庭もちょっと幻想的で……もう一度聞こえた誘うような鳴き声に、思わずフラフラとついて行ってしまった。
サンルームの入り口に背を向けて、あの日と同じテーブルについて、膝の上には、猫。まだ常連でもないお店で勝手をしている罪悪感はあったけれども、いい感じのほろ酔いと少し高めの猫の体温にノックアウトだ。
先程までいた客席側からの楽しげな笑い声をぼんやり耳にしながら、私の拙いナデナデにグル、と可愛く喉を鳴らすチャコちゃんにとろけてしまう。いやー、今日もかわいいっ。思わず頬ずりしちゃっても、チャコちゃんってばちっとも嫌がらない。私の肩に前足を乗せて抱き込み背中を堪能していると、後ろからカチャリと金属の音がした。
「あ……千耶子さ、ん」
「え、あ、わ、お、お邪魔していますっ?」
振り返った先にいたのは、コックコートの大きな人。手にはシルバーの入ったケース。驚いた顔でこちらを見ている……うあ。そうだ、こういう顔だった。記憶の中のこの人を何度も思い返したりしたけれど、やっぱり本物は、こう、リアルでグッとくる――って、何考えてんの、私っ。
「あ、すみません勝手にっ、つ、ついですね、チャコちゃんがいたものですから」
「ああ、いえ、構いません……好きですし」
え、す、好きって。
「え、あ、そうではなく、いや、なくはなくて、いやその、チャコが、千耶子さんをっ」
私は随分真っ赤になっていたんだろう。お酒のせいとは言えないほどに。慌てて誤解を解くように言い直すこの人に、会えて話せて嬉しいんだか、あくまで猫に好かれていると念を押されて残念なんだか……残念? あれ? 何この思考。
「あ、あの、すごく美味しかったです。アクアパッツァもサラダも、揚げ出し豆腐も」
自分で言っていてなんだが、どんな組み合わせだ! 本当になんでもありだなこの店。いやでも美味しかったんだって。
取り繕うような私の言葉に、目の前の人はホッとしたようだった。
「美味しかったですか?」
「はい、とっても」
「……デザートは」
まだだと答えると、厨房にとって返して「お好みが分からなかったので」と各種取り合わせのスペシャルプレートを私の前にことりと置いた。暖かい湯気の立つ、カプチーノ付きで。
「お菓子も、手作りですか?」
そこまでしていたら何者だろうと思って聞けば、デザートはおばあさまだそうで。ホッとしたよ、この可愛らしいプチタルトとか、フチが綺麗に波打っているチーズケーキとか、ハートの飾りのついたガトーショコラとかこのでっかい手で作っていたらどうしようかと! ふんわり絞り出したクリームの上のミントの葉っぱとか、ちまちま飾ってるのかと思ったら何かこう、キュンとしちゃって……なぜそこでキュンとなる。あれ? ちょっとさっきからおかしくないか、私。
……誤魔化すように食べましたけど。ええ、美味しかったです。向かいに座って片肘ついて満足そうに目を細められて。心臓三倍速でしたけど。バニラアイス味わう前に飲み込んじゃいましたけど。明日の夜も来るって約束しちゃいましたけど。
だって、お土産にってこっそり小さいタッパーにマカロン入れてくれちゃったから、容器返さないと、だよね。チャコちゃんにも会いたいし、うん。
膝の上のチャコちゃんがやたら満足げなのは、なんでだろうな。