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彼(香取正人)視点
ランチセット、ダージリン。そう言って伝票をボードに貼ったばあちゃんは、内緒話をするかのように話しかけてきた。
「ちょっとマサ君。今ご案内したお嬢さんがね、チャコに似てるの」
「は? ばーちゃん何言ってんの」
「目が大きくてくりくりしてるところとか、なんかね、雰囲気が」
楽しげに言い、カチャカチャと必要なものをトレイに並べるばあちゃん。じいちゃんは聞いてないフリでこちらに耳を傾けながら、鋳鉄で出来たホットサンドメーカーをコンロにかけ火加減を覗き込む。
「寝てるチャコ見つけてすっごく嬉しそうにして。起こさないようにわざわざ小さい声で注文して。猫が好きなのね」
「へえ」
「ああ、ほら、ここから見えるでしょ。サンルームのあそこ」
言われた方に目を向ければ、確かに窓際の席に女性が座っていた。
この厨房と中庭を挟んで向かいにあるサンルームは小さめのテーブル席が二席だけのこぢんまりとした空間だが、天井と壁がガラス張りという開放感と、他の客席から離された隠れ家のような雰囲気が人気だ。ついでに家の猫がちょくちょく顔を出すことでも。拾い主に似て愛想は全くない猫だが、それなりに需要はあるようだ。
「ほら、似てるでしょう?」
「ここからじゃそんなところまで見えないし、分からないよ」
夜の仕込みをする手を休めずにいる俺に、ばあちゃんはつまらなそうだ。
「もう、マサ君は。ここで『どれどれ?』って乗ってくるくらいなら、おばあちゃんだって心配しないのに」
「たった一人の孫がいつまでも独身で悪いね」
「本当よ、早くひ孫抱かせてくれないと。お迎えが来ちゃうわ」
諦め半分、からかい半分の口調はいつものこと。自分でネタにする程度には重く受け止めていないことは確かだ。おかげで妙な罪悪感は感じずに済む。
小さな頃から可愛がってくれた祖父母の願いをなかなか叶えてやれないでいることは申し訳ないと思う。でも、適当に相手を選んで、結局お互いに不幸になるのはどうしても避けたかった。
それは、自分たちだけでなく周りも巻き込むから。双方の親や兄弟、友達や――子ども。
両親の泥沼の離婚劇に付き合わされる子どもなんて、自分だけで十分だ。
さてどっこいしょ、と掛け声ひとつかけてランチセットのトレイを持ち、ばあちゃんは厨房を後にする。結構な重たさがあるから、本当はじいちゃんか俺が行けばいいのだが。威圧感のある体型とあまり仕事をしない表情筋という、残念ながら接客向きでない容姿の俺らは常連相手がせいぜいだ。
料理は自信あるのだが、一見さん、それも若い女性の前に出るのは営業妨害に他ならないと悪友たちに揶揄われるが、反論はない。
眺めていると、サンルームに入るばあちゃん……「よく見えない」なんて、実はそんなことはない。俺の視力は2.0だ。測ったらもっとあるかもしれない。正直に言えばさっきから何故か目が離せないでいる。
中庭の緑越し、サンルームの白い柱と壁、ガラスの向こうの白いニット。猫が反対側にいるのだろう、こちらに顔は向かないが、ゆるく下ろされた髪も光に包まれてやけに眩しく見える。
テーブルに配されたトレイに一度目を奪われながら、わざわざ顔を上げてばあちゃんと何か話している。食べる前に両手を合わせて「いただきます」をする、その姿になんだか胸が騒ついた。
ランチタイムの波が過ぎた店内。ばあちゃんがカウンターの常連客の長話につかまって、いや、楽しんでいるものだから、俺が水のお代わりを持って行く羽目になった。……怖がられないといいのだが。驚かれるならまだいいが、怯えられでもしたらと思うと足が進まない。サンルームの入り口でしばし躊躇ったのち意を決して中に入れば、しゃがみこんで猫を撫でている後ろ姿が目に入った。
――驚いた。よっぽど慣れてからでないと、自分からはまず滅多に人を寄せ付けないのに。思わず声をかけた俺に、ゆっくり振り向いた彼女と目があった時。
周りから音が消えた。
正直、何を話して彼女の前に座ることになったのか、よく覚えていない。ただ、彼女の腕の中で甘える猫に、言いようもない感情を抱いたことは確かだ。猫相手に嫉妬とか、俺は阿保か。しかもチャコは雌だってのに。
ばあちゃんが言った通り、確かに似ている。目の形とかだけではなく、何となく全体の雰囲気が近い気がする。チャコを人にしたら、もしくは彼女が猫になったらこんな感じ……って、俺は何を考えているんだ。
そうは言ってもチャコが初対面でこんなに懐くのも、同類もしくは家族と思っているんじゃないだろうか。
物件チラシの地図をなぞる小さい手、小さい爪。本当に同じ人類かと思う。猫を抱える腕だってこんなに細くて折れるんじゃないか。お前がガッチリしすぎなんだと悪友にはよく言われるが。
にこやかに上がる柔らかそうな頬に、頷くたびに溢れる髪に、触れたい。
話すときにこっちの目をまっすぐ見てくる瞳を逸らせたくない。
湧き上がるこの独占欲は何だ。
今、会ったばかりで名前も知らないのに。
この俺は、さっきまでの俺と同一人物なのか。
自分が自分でないような、こんなにぐちゃぐちゃな塊を抱えている俺に、何の疑いも抱いていない眼差しを向けられて……思わず、自分を棚に上げて言った言葉に何とも論理的で常識的な返答をされる。しかも言うに事欠いてこんな俺を「悪い人な訳がない」とは。まるでこちらの心の底を覗かれて釘を刺された気分だ。また困ったことに、それが決して嫌ではないなんて。
いやしかし、それはダメだ。猫相手とはいえ、キスはダメだ。なのにそんな眼で見上げられたら、ああ、もう、どうしたらいいんだか。
そして、何がどうしてこうなった。この至近距離はどうしたことだ。ギリ触れていないが、このまま抱きしめてもいいかでもそうしたら壊しそうだが何だかいい匂いするしこれはバターか紅茶か違う何か粉っぽいような花かもしかしてこれがシャンプーとか香水とかいうやつか!
……セーフ。よかった、通報されるような事態にならなくて。自分の自制心を褒めたい。怖がられていないだけでも奇跡なのに。
真っ赤な顔で泣きそうに言い訳をするのがいちいち可愛らしい。俺も赤いか、そうだな、自覚はある。
「千耶子さん」
初めて呼ぶその三文字がやけに熱を持って感じる。恥ずかしげに返事をするこの人と、もっと時間を過ごしたいと思う。
忘れそうになったスマホを渡した時に触れた指。人の肌は、あんな感触だったか。
動揺を残しながら去って行く背中を見送り、店内に戻った俺に訳知り顔で頷いたのは、ばあちゃんではなくじいちゃんだった。
その晩。一段落した厨房をスタッフに任せると賑やかな店内を縫って、いつもの席に座る悪友の元へ行く。
「ああ、正人。この前言ってたアパートの内覧のお客さんだけど。今日来てね、二丁目のとこのに決まったよ。法人契約で二年更新。いつも通りこっちで管理するから」
「……あの部屋さ、前に入居してたの男だったよな」
「ああ、うん。銀行員だったな。綺麗に住んでたからクリーニングで済んだけど」
「壁紙変えてくれ、全部。フローリングの張り替えも。あと、前に言ってた玄関のシューズクローゼット、あれも大きいのに変えていい」
持っていた箸を取り落としそうになりながら、ぽかんとこちらを見上げる。
「え、マジ? 壁も床も綺麗だよ。ちょこっと日焼けしてるくらいで、目立つ傷もないし」
「いいから。費用は俺が持つし」
「……へえ。いいよ、分かった。入居まで日がないし優先でやらせるから割増料金になるけど?」
頷くと、面白いものを見るような眼でしげしげと眺められる。幼馴染でもあるこいつとは、家族ぐるみの付き合いだ。でも不動産の管理を任せているのはそれだけが理由ではなく、実績と実力を認めてのこと。
「……ユニットバスも交換とか言い出しそうな勢いだな」
「それもあったか」
「いやいやいや、まだ全っ然、新しいからねっ、 さすがにそこは管理者として引き止めるよ!? クリーニング念入りにするから!」
勘のいいこいつのことだ。俺がいつもと違うことなんてお見通しだろう。そしてその原因も。しばらくニヤニヤしながら箸を進めていたが、やがて何も言わない俺にしびれを切らして自分から話し出した。
「午後に事務所で契約の説明したんだけどさ、雑談で昼飯の話になって。ここで食べたって聞いたよ。地元の情報教えてもらったって言ってた」
「……」
「正人、お前ってさあ」
何だ、と問えば真面目くさった顔で楽しそうな声を出す。
「親のことがあってさ、女の子とか結婚とかを避けてるのかと思ってたけれど……出会ってなかっただけなんだな」
結局、そういうことなんだろう。両親の残したトラウマなんて思い出している暇がなかった。
「で、どうするの? 悪いけど個人情報は出せないよ」
「いらない。とりあえずは、胃袋を掴む」
「おお、全力で取りに行け。そうだな、一個だけアドバイス。好き嫌いは特別ないけど、魚が好きだって。『海が近いから美味しいでしょうねー』って、楽しみにしてたよ」
頑張れよ、と高く上げられたビールジョッキに握りこぶしを合わせると、厨房に戻った。
また来るだろうか、この店に。来てくれるだろうか、夜に。最高に美味いアクアパッツアを食べさせたらどんな表情をするだろう。
ふと顔を上げたガラスの向こう、サンルームの上空には朧に霞む月がかかっていた。
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