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ごゆっくりどうぞ


 あ、と思った時にはもう遅く、緩んだ手から数枚のチラシが滑り落ちる。ピンクベージュの素焼タイルの上に散らばった白い紙。自分の動揺ぶりをなんだかおかしく思いながら拾い上げようと椅子から腰を浮かすと、動いたのは猫の方が先だった。


「あれ」


 すと、と音もなく床に降りると、そのうちの一枚に近づき前足でちょいちょいと触ったあと、紙の上に座った。私の方を向いて、当たり前のような顔をして綺麗にお座りをしている……それは、座布団と違うよ?


「……紙の上が好きなの?」


 残りの紙を拾い集めて猫の前にしゃがんでも、逃げるどころかぺたりとお腹をつけてすっかりくつろぎ姿勢だ。

 おお、可愛い。

 天窓から降り注ぐ陽に照らされてぬくぬくと気持ちよさそうにくつろがれると、お腹の下から紙を引き抜くのも躊躇する。うん、もういいか、このままで。


 ゆっくり顔の前に出した指先を嫌がられないのを確認すると、そっと撫でてみる。耳の後ろから首のあたりの柔い毛に指を沈めてくすぐるように触ると、気持ちよさそうに身を預けてきた。

 たまらん。なんだこの子。

 自慢じゃないが犬も猫も飼ったことがないし、友人の家の猫にはなぜか嫌われている。誘われて何度か行った猫カフェでは、手元のオヤツがなくなった瞬間にぼっちにされるタイプだ。いまだかつて、これほどまでに親しげな雰囲気を表してくれた猫さまがいらしたろうか、いやいない。


 最初に目があった時に色々持っていかれたと思ったが、それ以上に心を鷲掴みにされた。すっかりと。

 嫌がられないのをいいことに、ほっこりニヤニヤと撫で回していたら、不意に背後から声をかけられた。


「すみません、うちの猫がご迷惑をおかけしてはいませんか」


 タイルの床に膝をついてしゃがみこんでいた私は、このサンルームに人が入ってきたのにも気が付かなかった。今すっごくにやけきった顔をしてたと思うんだけれど。見られて……ないよね、多分。こほんと平静を取り繕って声のした方をゆっくり振り返って見上げる――うわ、でっかい人。


「あ、いいえ。なつっこい子ですね。撫でさせてもらってました」

「いや……珍しいです。人馴れはしているのですが、撫でられたり、自分から寄っていくことはあまりないんですよ」

「あれ、そうなんですか? 随分慣れてるなあって思ってたんですが……」


 ということは、え、私、特別扱いされちゃった? どうしよう、嬉しい。もう、ますます可愛く思えてしまう。

 銀色の水差しを手にしたコックコートの男の人は、同じ歳か少し上くらいだろうか。ガタイが良くてちょっと近づき難いいかつめの顔つきは、コックさんというより職人気質な板前さんとかそういう感じ。ああ、でも、なんとなくさっきのおばあちゃんと目元が似ているから、多分身内なんだろう。この人がさっきの美味しいホットサンドを作っているのかなあ。

 コックさんの彼は私の手元の紙の束と猫を交互に見やり、この状態の原因に気付いたようだ。焦ったように早口になる。顔に似合わず、案外気の小さい人なのかな。


「大事な書類では? 今どかしますから」

「ああ、いえ、物件案内なので。コピーですし……あ、あの。それじゃあ私がこの子抱っこして持ち上げてもいいですか? 嫌がられなきゃですけど」

「それは、構いませんが……」


 飼い主の許可が出た。片手を伸ばして紙束をテーブルに戻すと、離さずに背中を撫でていた手をそっと腹側に回し、両手を触れる。


「はーい、抱っこしますよー。嫌だったら言ってくださいねー」


 猫は大人しく私にされるがまま、ゆっくり持ち上げられた。うおお、なんていい子っ……! 猫初心者の私は抱っこの安定感に自信がないので、そのまま椅子に座り猫を膝上に抱き込む。重いような軽いような、ただ体温のあたたかさだけがやけにリアルに感じられた。

 猫はニャ、と小さく一声鳴いて膝の上に後ろ足で立つと、胸のあたりで前足をふにふにとしながら私の顔を覗き込んできた。ふおおおお……なにこれ可愛い。顔がだらしなく緩んでいる自覚はあるが、どうしようもないでしょ、これ。

 私が猫に夢中になっているうちにコックさんは水差しをテーブルに置くと、猫の下敷きになっていた紙を拾い上げてホコリを払ってくれていた。渡そうとしてくれてこちらに向けた、彼の手が止まる。


「……すみません、見るつもりはなかったのですが。お引越し、ですか?」

「ええ、この春からこちらに転勤で。今日は住むところを探しに」


 あ、そうだ。いいこと思いついた。


「あの、よかったらなんですが、少しこの辺の事を教えていただけませんか? 私、全く初めてで土地勘というかそういうものが……不動産屋さんから少しは聞いたんですけど、やっぱり地元の人のお話が聞いてみたくて」

「え、」

「候補のお部屋周りだけでいいんですけど……あ、ごめんなさいお仕事中でし」

「いえ、それは、この後は休憩時間なので」


 おっと。いいアイデアだと思ったけれど、言いながらそういえばこの人仕事中って気付いてやっぱりやめようとしたら結構な勢いで遮られた。


「……でしたら、お願いしても?」

「自分でよければ」


 私の差し出す物件案内を頷いて受け取る。いい加減見上げるのも首が痛いので、頼むとちょっと遠慮してから腰のエプロンを外して向かいの席に座った。体が大きいから椅子がちっちゃく見える。面白い。


「そうですね、概ね住みやすいところばかりだと……これは最近出来た住宅地の方ですね、比較的若い方が多い地域です。こっちはこの先に小学校があって、アパートの前が通学路ですから……」


 コックさんは真剣な顔でさっと目を通すと、案内に載っている小さい周辺地図を指しながら、一枚一枚説明してくれる。病院の場所やバスの本数など、住まう人に必要なことを先回りで教えてくれてありがたい。ちょっととっつきにくそうな容姿だが、気遣いのある人だ。聞けてよかったと心底思いながら、ほうほう、と頷いた。


「ここにしようかと思ってたんですよ」


 彼の話を一通り聞かせてもらって、候補にしている二件目に見た部屋の用紙を上に出す。


「今うかがった感じでは、周りも心配なさそうで安心しました。不動産屋さんが言うには、大家さんが良い方だそうで。鍵も防犯性の高い物に変えたばかりとか」

「ああ、あれか」

「え?」

「あ、いや、なんでも」


 咳払いで言いかけた何かを誤魔化した気がしたが。まあ、いいか。


「管理は不動産屋さんにお任せですから、私が大家さんと直接会うことは無いんでしょうけれど。でも、どうせなら良い方のところでお世話になりたいですし」

「そうでしたか。この不動産屋は昔からここでやっている地元の会社なので信用はありますよ。建物の管理もしっかりしてますし。自分の同級生の家なんですが、おばちゃ……社長の奥さんが事務を取り仕切っていて、住人トラブルなんかも上手く解決しますね」


 初めての一人暮らしに頼もしいおかみさんは大歓迎だ。そしてやっぱり地元民、世間が狭かった。不動産屋さんが同級生の家とは。もしやその同級生は午前中の案内してくれたお兄ちゃんのことだろうか。仲の良い友だちを自慢するような口振りに嫌味なところはなくて、感じがいい。

 一歩引いた丁寧な口調は、接客業ながら人付き合いが不得手な人に特有のものだろう。私の美容師さんと同じタイプだ。こういう人は大抵、腕がいい。多少強面で朴訥としているが誠実そうな人だし……うん、やっぱりここにしよう。決めた。



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