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 いらっしゃいませ、と穏やかな声をかけてくれたのは、可愛らしい花柄のエプロンをつけたおばあちゃんだった。もうすぐ喜寿を迎える私のおばあちゃんと同じくらいのおばあちゃんっぷりで、グレーの髪をきちっとお団子にまとめている。

 目尻の深い笑い皺にホッとして、ついこちらも笑顔になった。


「あの、こんにちは。猫、いるんですか?」


 おっと、思わず聞いてしまった。おばあちゃんは嬉しそうな顔をすると、水の入ったグラスをお盆に乗せてカウンターから出てきた。


「今日はおりますよ。では、近い席がよろしいでしょうかね」

「はい、ぜひ!」


 いやった、猫! と、わくわくしながら付いていく。テーブルや椅子は落ち着いた木製で、外から入ると少し暗く感じる穏やかな間接照明はいかにも老舗のカフェ、という感じ。艶々としたカウンターはチェリーだろうか。こういうお店は大概狭いものだけど、意外にも店内は割と広くて、テーブル席もそれなりにあった。これまた意外なことにほぼ満席で、みんな思い思いにお茶を飲んだり何か食べたりしている。

 案内されるまま奥の突き当たりを左に折れて……普通のファミレスだとトイレがありそうな場所に向かうと、そこは小さなサンルームになっていた。その光景に目を奪われる。


「わあ……きれいですね」

「ふふ、ありがとうございます」


 コの字になった住居と店舗に囲まれるように造られた中庭。決して広くはないが、吹き抜けた空からの光は気持ちよく届いている。風は阻まれるためか地面には柔い緑色が萌え、地元ではまだ固い蕾だった花が早くもほころび始めている。一足早い春爛漫なその様子に思わずうっとり見とれてしまった。

 ガラスの壁と天井から差し込む柔らかな陽の光でサンルームはぽかぽか。お肌にあたる紫外線の事が一瞬頭をかすめたが、なんとも心地よい雰囲気にさっと都合よく流された。

 通り過ぎた店内にあったものよりも軽い印象を与える白ペイントの丸テーブルが二つ、今はどちらも無人。椅子にはお手製だろうキルトのクッションが置かれ、その一つに白銀色の猫が気持ちよさそうに丸くなっていた。


「あ、ねこ」

「ちょうどグループでいらしてた方達がお帰りになったところで、お席が空いていてようございました。猫もついさっき降りてきたんですよ」

「お昼寝してますね」


 猫がよく見える席にお水を置いてくれた。スプリングコートを脱ぐと遠慮なく、だが音を立てないように細心の注意を払って静かに座る。声を潜めてお勧めを聞きランチセットを注文すると、おばあちゃんはにっこり笑って下がっていった。

 猫は時々ピクピクと耳を動かすものの起きることはなく、私はじっくりと眺めることができた。白ベースに銀色を思わせる薄いグレーの縞模様。大きなガラスから差し込む光の下、ふわふわとした毛が一本一本お日様に包まれるように輝いている。成猫だろうけれど少し小柄な感じがする。

 瞳は何色なんだろう、どんな声で鳴くんだろう。起きてくれないかな。なつっこいのかな、人見知りかな。私は今見てきた物件のことも忘れて、お腹を軽く上下させながら隣でスピスピ眠る猫にすっかり夢中になっていた。




「はい、お待たせいたしました」

「わ、おいしそう」


 音もなく目の前に置かれるトレイにはランチメニューのホットサンドがふた切れ。縁がぴったりくっついてこんがりと焼かれ、バターの香りがするトーストにぎゅっと詰まった玉子、ハム、春キャベツ。

 アチアチとしながら指先で摘んでパクリと齧り付けば、お、チェダーチーズが入っていた。美味し。太めに千切りをした生のキャベツが熱でちょうどよくしんなりして甘みが増しているのも、カリカリの縁とのコントラストもいい。


 お皿の脇には大きく真っ赤な苺が三粒と、シャキリとした緑がまぶしいサラダ。そういえば物件を案内されている時にイチゴ狩りの案内看板を見た。子どもの頃に行って楽しかった思い出が蘇る。

 サラダのドレッシングも、小さいココットに入ったデザートのプリンも手作りっぽい。コーヒーか紅茶を選べたので紅茶にしたらなんとポットでサーブされて、これでお値段税込七百五十円。駅近でこの味、ボリューム、価格。素晴らしい。店内は地元の人が多そうだったけれど、これは繁盛するわ。


 一口食べたら止まらなくなって、しばし猫も忘れてホットサンドに専念した。熱い紅茶は水色も綺麗に澄んだダージリン。やはり思った以上に疲れていたようで、胃袋が少し落ち着くとじんわりと足先から疲労感が登ってくる。

 これから住む家を紹介してもらうのに第一印象は大事だろうと『綺麗なお姉さんスタイル』で来た私の足元は六センチのヒール。持っている靴のなかで一番足に合って履き慣れてはいるが、さすがに午前中いっぱい立って歩いて、少々疲れた。


 ポットから注いだ二杯目の紅茶は食後にゆっくり楽しむ。まだ起きる気配のない猫を片目に、不動産屋で渡された物件案内のコピーを順番にぼんやり眺めた。

 どれも、会社への通勤時間はほぼ同じ。立地は微妙に違うけど、そもそも小さい町だからどこに住んでもそこまで変わらないだろう。コンビニやドラッグストアが多少近いか遠いかの差くらいか。ああ、でも車を持たない私には、坂道とバスの便は検討材料だ。

 

 こくりとまた一口飲み込んで、ふうと息を吐く。香りまで美味しい。店内に流れる音楽にもわざとらしさがなく、少し離れたホールから聞こえるお客さん達のざわめきも耳に心地いい。

 ガラスの向こうは柔らかな緑色に溢れている。ここから見える中庭の奥の建物はこの店の厨房になっているのだろう。コックコートらしい白服を着た人影が動くのが、ぼんやりと葉陰のガラス越しに見えた。おばあちゃんがやっている店ならば相棒はおじいちゃんだろうか。なんとなく微笑ましく思えて勝手に口角が上がる……暖かいサンルームで飲む紅茶、隣には眠る猫。

 ゆっくりと流れる時間が目に見えるような空間だと思った。


 カバンからスマホを出し、地図アプリを立ち上げる。間取りや日当たりなんかが一番よさそうだった二件目を調べたら、会社との通勤経路に今いるこの店がばっちり入っている――これはもう、決まりか?

 スマホをテーブルの脇に置き、数枚の物件チラシをまとめてトントンと揃える……ふと何かを感じて目を向ければ、ちょうど目を覚ました猫。

 体はそのままで頭だけを軽く上げ、大きくあくびをひとつ。少し寝ぼけた目を薄く開けてぐるりと首で見回し、私を認めると確かめるようにゆっくりその目を見開いた。


 綺麗な、黄色い瞳。


 見つめ合った時、呼吸を忘れた。



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