君と猫とサンルーム【画像あり】
◆ひろたひかる さまより素敵なイラストを頂戴しました! 感嘆の溜息を吐きながら眺めていたのですが、気が付いたらSSを書いていました。
完結後に何度もすみません、またも追加させていただきます。
ひろたさま、イラストありがとうございます! このSSをお楽しみいただけたらと願っています……!
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彼(香取正人)視点
梅雨の走りのころだった。なんとなくいつもより湿気っぽい海風、今にもポツリと落ちてきてもおかしくない曇天。そろそろかしらね、と店に来る常連客とばあちゃんの天気談義を聞くともなしに耳にしながら、俺は営業中の札をひっくり返すために店の扉に手をかけた。
午前十時から午後三時までがじいちゃんたちがメインでやっている喫茶の時間。その後少し休憩時間を挟んで午後五時半からが、俺がやるレストランにこの店は変わる。
カラン、とずっと変わらないくすんだ銅色のベルが鳴る。店の脇の紫陽花は蕾を固くして、まるで雨を待ちわびているみたいだ。喫茶のメニュー表を引っ込めて、札を準備中に返す。それだけで人待ち顔だった店がまるで昼寝でも始めたかのように静まって見えるのはいつものこと。
今日はこのまま駐車場を通って庭側から母屋に戻ろうと歩を進めた。
――と、何か聞こえた気がした。周囲を見回しても、店の駐車場には常連客の見知った車が一台。駅に続く大きめの通り側には通行人はいるが、ちょうど店の前の小道は無人だ。
しばらく立ち止まってみたが、その後は何も聞こえず、空耳だったかとまた歩き始める。
「 」
今度は先ほどよりはっきりと聞こえた。人間でないことは確かだが機械音でもない……とすると、何か動物なのだろう。犬か猫か鳥か、まあそれなら屋外にいてもおかしくない。
ポツ、といよいよ雫が肩に落ちる。そのまま家へと戻っていいはずなのに、何故か気にかかってもう一度、今度は足元の方を注意して見回す。
「 、」
また聞こえる。さっきよりも高い音に、なんとなく焦る。次々と落ちる雨粒にだんだん色濃く染まっていくアスファルト。声の出どころを探して慌てて屈んで、ぐるりと覗き込む――、いた。紫陽花の根元、すっかり影になったところで、小さいものが震えながら途切れ途切れに鳴いている。
まだ小さい、痩せて汚れた子猫だった。
* * *
「それで飼うことに?」
「いや、思わず保護してしまったけどそんなつもりはなくて。ほら、飲食店だし」
サンルームのお気に入りの席で昼寝をしているチャコを目を細めて眺めながら、手にしたカップの向こうから彼女が俺に聞いてくる。
里親を探すつもりだったと言えば、納得したように頷きながらも不本意そうだった。本当に、チャコを気に入っているらしい。
「店で声かけて、欲しい人を探して。ここで何度かお見合いさせたんだけど、コイツは怖がるばっかりで」
「ああ……そうなんだ」
最初は人見知りもひどくて、物陰からも出てこられず怯えてばかりだった。だんだんに人馴れしてきても、チャコが自分から寄ってくるのは俺とじいちゃん、ばあちゃんだけ。
今ではまるで看板猫のようになっているが、実は店といっても基本的にチャコは、家と店舗の間にあるこのサンルームのその席に、それもだいたい決まった時間にしかいない。
「あまりの懐かなさぶりに貰い手がつかなくて手を焼いていたら、佐野さんたちから『ここで飼ったらいいじゃない』って言われて」
昼の常連客は高齢の方が多い。曰く、昔は多くの飲食店で猫を飼っていたそうだ。『ネズミを捕まえてくれるでしょう』と、懐かしそうにチャコを見る。いつ頃からか、駆除の方法は猫から薬剤に移り、衛生についての意識の変化も相まって飲食店から猫の姿は消えていったそうだ。
『強い薬を撒くよりよっぽど安全だと、私なんかは思うけど。まあ、でも、今の子たちはアレルギーとかもあるからねえ』
そう言って孫の話へと移っていく。
顔を見合わせた俺たちが保健所に問い合わせれば、厨房に入れるのはもちろん駄目だが、客席にいる分には規制は無いと言う話だった。飼うとしても母屋に居させるつもりだが、何分にも古い家なので扉も建具も旧式だ。自分で入り込んでくる可能性は捨てきれない。
それでしばらく、里親探しと並行しながらスタッフと来店客に「猫がいる店」について聞いてきたが、予想外に好意的な意見が多かったのには驚いた。そして先にほだされたのは常々「女の子がいたらいいのに」とぼやいていたばあちゃんだった……子猫は雌だったのだ。
各所にアルコール消毒液や抜け毛対策の粘着ローラーを置き、間違っても入り込まないように、作業効率を優先して開け放してばかりいた厨房の扉を必ず閉める。今まで以上の掃除の徹底。基本的に業務中は猫に触らないこと、もし触ったら、手洗いで済まさず着替えもすること。表の張り紙に明記すること――そんなことを超えて、チャコは今もここにいる。
猫嫌いで一時離れてしまった馴染み客も、サンルームから出てこないことや空気清浄機も置いたことなどに安心して、やがて戻ってきてくれた。
「結果的には来客数も増えたし」
「招き猫なのね」
そう楽しそうに言う彼女は、自分がチャコの一番の成果だということに気付いているだろうか。俺ら家族にしか懐かないチャコが、初見で寄っていった。大人しく、どころか気持ちよさそうに撫でられて抱かれているのを見て、どれだけ驚いたか。
特別視するのはどちらが先だったろう――俺と、チャコと。
夜も食べに来てくれるが、チャコがいることの多い昼間の店の方が彼女は好きらしい。というか最近は、夜は母屋の方で、ばあちゃんと楽しそうに着付けやら何やらしていることもあって、そっちでチャコと会えるから満足なのだろう。どうにもばあちゃんには、毎度先を行かれている気がして仕方がない。
「あ、起きた。おはよ、チャコ」
丸まって寝ていたクッションの上で伸びを始めたチャコに向かって、嬉しそうに話しかける。
サンルームのガラス越しに降る日差し、中庭の緑。柔らかく微笑む彼女へゆっくりと向かう猫は、やがて膝の上に落ち着くと、そっと背を撫でる手に満足そうにゆったりと長い尻尾を揺らす……喉の奥が詰まるような、光の繭に包まれた憧憬のような。
俺の視線に気付いた彼女が、少し照れくさそうにする。
「え、な、なに? 何かついてる?」
口元を気にしてお手拭きを探そうとした手に、自分のそれを上から重ねる。相変わらず、小さいな。
恋も結婚も、自分には関係ないと思ってきたけれど。
「いや――何かいいな、って」
こういう日常なら何をしても手に入れたいと、ごく自然にそう思った。
* * *
(イラスト:ひろたひかる さま)