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いらっしゃいませ


 今思えば、その店を見つけたのはきっと偶然ではなかった。

 初めて降り立つ目的地の駅、そこに着く少し手前の車窓から見える店。ぼんやり外を眺めていたはずだが、きっと無意識に目にとめていたのだろう。引き寄せられるように厚い木の扉を開けた……それが、どんな出会いをもたらすかも知らずに。





 ダークグレーのスーツの彼は部屋の鍵をバッグにしまうと、アパートの階段を下りる途中でにこやかに話しかけてきた。私は彼の後ろをあまり離れないようにしながら、コツコツと鳴ってしまうヒールの音が響かないように気をつけて足を運ぶ。


「お気に召したお部屋はありましたか?」

「そう、ですね……やっぱり二番目に見たのが」

「あのアパートはおすすめですよ。間取りも使いやすいですし収納も十分。それに大家さんがしっかりした方で、鍵も防犯性が高い最新のものに変えられたばかりですし」

「ただ、ペット不可なんですよね」


 ああ、それは、と残念そうに不動産屋のお兄さんは苦笑する。


「ペット可ですとこの辺りでは戸建になりますね。あとは、マンションの分譲賃貸……どちらにしろファミリー向けで、重岡しげおか様のご希望よりは随分広くなりますが」

「ですよねえ。あ、いいんです、飼ってるわけじゃありませんから。飼えたらいいかもなあって、ちらっと思っただけで予定もないですし」


 誰もいない真っ暗な部屋に帰ることを想像して、猫でも待っていてくれたらと詮無いことを思ってしまった。実際に飼えたとしてもお留守番ばかりさせて、構ってあげることもお世話もろくに出来ないのは分かっているのに。

 他の物件を探そうとファイルをめくり始めたお兄さんの手を止め、とりあえずここから駅前まで歩いてみたいからと案内の社用車に乗るのを断った。ついでにその辺でお昼を済ませて、午後にまた事務所で物件や賃貸契約について話す約束をして、今しがた見終わったアパートの前で別れる。


 この早春。辞令により県外の支店に転勤が決まった私は、初めての一人暮らしをすべく物件アパート探しに来ていた。

 地元で生まれて地元で育ち、地元の企業に就職。このまま地元で終えると思っていた社会人六年目、うっかり転勤に引っかかってしまったのだ。

 基本的に勤める職場は県内におさまっているが、創業者のゆかりの地だったり、昔っからの取引先があったりと、県外にもひとつふたつ小規模だが支店がある。私に出された異動先は、まさにそんな飛び地のような県外支店だった。不幸中の幸いと言おうか、回りくどいリストラではなく、キャリアアップを視野に入れてくれた采配であったが。

 家族は健康で、両親も、同居の祖母も今のところ介護の必要もない。結婚や出産の予定もない。仕事を続ける意志はある……転勤を断るような理由はひとつも見つけられなかった。


 自宅から通うことも可能と言えば可能であった。朝六時前の電車に乗り、異動先の支店に着くまで片道二時間半という電車移動を毎日……無理だ。そうやって職場に通っているお父さんたちがたくさんいるのを知っている。でも自分には到底無理だ。根が怠け者で自分に甘い己の特性は誰よりもよく分かっている。

 さらには、彼氏がいたことはあるものの結婚の「け」の字もかすらないアラサー娘への「そろそろいい人はいないの?」攻撃もだんだんうざくなってきたところだ。知子叔母さん、最近物忘れが多いのか、顔を合わせるたびに聞いてくるんだよね。一週間で結婚を考える相手ができていたら世話ないわ。


 それにあれは、社会人二年目くらいの時だったか。一人暮らしについて軽く調べてみたら、敷金礼金仲介手数料前家賃のほか、家電に台所用品、カーテンやちょっとした家具など結構揃える必要のあるものがたくさんあった。

 さらに新たに契約が必要な、電気水道ガス及びネット環境その他諸々の必要経費に軽く戦慄した結果『そろそろ実家を出て独り立ちしてみちゃおうかな計画』を凍結した過去がある。


 今回は転勤に伴う引越しとあって、基本費用は会社持ちだし、期限付きだが家賃補助だって多めに出る。しかも今住んでいる地元よりちょっと田舎なので、家賃そのものが安い。初めての一人暮らしとしては非常に経済的に助かるこのチャンスをみすみす逃すことはない。そんなわけで、異動の内示を受けると同時に引越しを決意し、今日に至る。

 問題は、転勤先が身内も友人も一人もおらず土地勘もない風光明媚な町で、生まれてこの方ホームグラウンドにばかりいた自分にとってアウェイ感が半端無いということか。郊外のショッピングモールなどはそれなりに賑わっているが、そもそもの人口が少なく海が近く山もあり、郊外には観光牧場もある……遠足で来るようなイメージのところだ。


 事前に会社を経由して地元の不動産屋さんと物件を紹介されていた。そのうちの数件に目星をつけて、今日実際に案内をしてもらったのだが。


「参った……いまいちピンとこない」


 部屋選びで「見るべきチェックポイント」などは事前に勉強もしたし、一人暮らしの子の話も聞いて来た。だがスケジュール的に余裕のない私の希望で、この午前中だけで次から次へと四件も見たものだから、正直お腹いっぱいだ。

 本当は誰かに同行してもらいたかったが、あいにく友人たちは皆今日の都合がつかず、普段なら非常に頼りになる姉も現在つわりの真っ最中。そんなわけでたった一人で内見に挑んでいた。


 新しい生活や一人暮らしに期待も希望もある反面、家族や友だちとももう直ぐ別れ別れかと思うと、なんだか胸のあたりがスースーする気がする……自分らしくないこのセンチな気分は馴染みのない潮風のせいか、それとも空腹のせいか。やはり猫がダメなら金魚でも飼うか。ああしかし、緑色になって向こうが見えない水槽がリアルに眼に浮かぶ。

 そう思いながら歩いていると、ふと目を向けた線路脇の路地に一軒の店があった。


 【喫茶 こう


 住宅の一部を店舗にしたよくある造りだ。しかし雰囲気がいい。経年の漆喰壁にダークチョコレート色の重そうな木戸、真鍮に光るドアノブ。開けたらカランカランと鳴るベルが上に付いているに違いない。

 厚めの腰高ガラス窓は木枠で花台が設置してあり、色とりどりのパンジーやビオラが満開だ。実家ではまだ葉が出たばかりのチューリップもだいぶ蕾が大きい。薄いレースカーテンで中の様子は伺えないが、ドアに下げられた『open』の看板と、手前に置かれた小さいメニュー表で営業中ということは分かる。

 紅茶がメインのようだが、コーヒーも軽食もある。何より、一番下に書かれた一言に目を奪われた。


『時々、猫がいます。大人しい子ですが、アレルギーの方などはご留意ください』


 ……猫!

 それを読んだ次の瞬間、私はカランカランと予想通りの音を立てたドアの内側に立っていた。

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