第一章 新月
雨音がちらほらと聞こえ始めた、初春の真夜中。
部屋に響く時計の、無機質な秒針の音がもうすぐ新しい日を迎えることを、何の感情もなく教えてくれていた。
室内に広がる甘ったるい砂糖の匂いとそれから、ガラスのダイニングテーブルに置かれた炭酸の緩く抜けたシャンパン、部屋の隅に虚しく存在するラッピングされた大きな箱。
カレンダーを横目で見ると、Marchになっていて、あぁすっかり失念していた、剥がすのを忘れてた、と、茶色の革張りのソファから腰を浮かせる。数字が羅列している紙の前まで行き、片手で乱暴に破けば、Aprilと表された一枚の何をも言えない紙が姿を見せる。4月1日、今日の日付の部分に何となく視線を向かわせた。
日にちが記された下に仏滅,そしてエイプリルフールとあり、
「‥‥‥新月。」
黒く塗りつぶされた丸い球体のようなイラストが書いてある。
呟いてから思い出したように、カーテンの向こう、窓の外の黒い曇天を見上げた。当然だが、この天気で月など見えるはずもなく、見えたとしても今宵は新月であったから、そもそも月は姿さえ現さない。
‥‥‥そんなに避けなくたって、俺の方から願い下げだよ。
月さえ、自分から逃げていくというのなら構わない。
去るもの追わず、来るものは去る。
ふといつだったかの記憶が頭を過る。
こんな自分に優しくしてくれた人らのことを思い出していた。
それは全て、過去出会った数少ない理解者達であった。
過去の偶像だとしても、俺は何もないわけじゃない。心のささえが記憶のなかで今も俺を理解してくれている。自分でも自らを醜いと称し、見捨てようとさえ思った。けれど俺がいなくなったら誰がこの寂しさを慰めてやれる。誰がこの悲しさを温めてやれる。全部、俺でしかできないことだ。だったら生き抜くしかないじゃないか。生きて、自分を護るしかないだろう。
改めて一人だと感じてしまった、俺の、嘘のような誕生日。
嘘だったらいいのにな。まだ生きているって現実が嘘であればいいのに。
おもむろに、テーブルに置かれている苺のショートケーキを手掴みで口にほうばった。久しぶりに口内を蹂躙する糖質に激しい吐き気を覚え、手洗いに駆け込む。嗚咽と共に唾液とまだ形ある砂糖の塊が便器に垂れていく。それを見て競り上がってきた吐き気を留めることなく、便器へと放り込む。
肩で息をしながら、そっと呟く。
「誕生日おめでとう。」
目の前の景色が暗転し、プツンと意識が途絶える音がした。