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花と蜜、抱きしめたいよ

 さぁちゃんと二人きり、ガレットが名物の喫茶店に到着した。本物の煉瓦を積み上げた外壁には蔦が絡まり、灯火色を主体としたステンドグラスからは中の様子は把握できない、隠れ家という名にふさわしい店によく似合う金庫みたいな手触りのドアノブを腕力全開でこじ開けた。暗めの店内だが、煉瓦が積み上げられた暖炉の灯りが柔らかく、二人だけの夜を昼に盗んできたような贅沢が溢れている。カウンターの右端には高級なダウンジャケットをハンガーにかけ、紐付きの老眼鏡を操りながら英字新聞に目を通している白髪の紳士が水だしコーヒーの香りを楽しんでいた。

 そんな喫茶店のマスターは背筋のよく伸びた、白いキュロットパンツを汚すことなく履きこなす淑女だった。

「武蔵野清楽館の生徒さん達ですね。どうぞこちらへ」

「何でわかったんですか?」

 淑女は私達に微笑む。

「雰囲気でわかるんですよ。特にお連れさんの雰囲気とか、清楽館のお嬢様そのものじゃないですか」

 確かに、さぁちゃんの雰囲気は珍しいからなぁ。

 さぁちゃんは好奇心旺盛な小さな子供のように、瞳を爛々と輝かせた。

「はい! あたし達は清楽館です! よくわかりましたねぇ!」

「ええ、だって……」

 白樺のように穏やかに冬枯れた白髪が銀色の風を憂う淑女はそう言うと、左手の人差し指を床に向かって指す仕草をし、右手をロングスカートの裾を突っ張るように親指と人差し指の先端で持つ仕草を見せる。清楽館の女学生なら入学式後のオリエンテーションで誰でも躾られる、左で清楽館の白亜の大階段と天窓に栄える星を指しながら、右手で躍動と精神の調和を示す『エトワール・レビューポーズ』。淑女はそれを難なくやってのけた。

 さぁちゃんが声をあげる。

「ああそれぇ! ということは……」

 淑女は落ち着いた声で応えた。

「そうです。私はあなた達の……半世紀くらい先輩かな?」

 清楽館の大先輩の登場に、私はちょっとだけ後ずさった。

 さぁちゃんは愛嬌を振りまきながら、マスターに話しかける。

「半世紀くらい前だったらアレですか? ピカソ生きてたんですよね? わぁぁ~会っておきたかったぁ♪」

 さぁちゃん。生きてただろうがここは吉祥寺だぞ。この店そんな前にあったのか?

「あらあら。それは前の東京オリンピックの頃ですね。ピカソはさすがに来日しませんでしたけど、あの頃の清楽館の周りには木々の梢しかなかったですわ。武蔵野は田園地帯でしたね」

「ああなるほどぉ~。それ図書室で読みました。地域史のやつですよね」

「そうそう。それです。よくわかってますね。サービスしてあげますね」

 さぁちゃんとマダムの相性が頗る良くて幸先が良い。


 さぁちゃんに腕を引っ張られながら、店内奥の赤いソファに深く腰掛けた。ライムで香り付けされた水に口をつけ、ふぅ、と息をもらした。

 赤いソファに、私はさぁちゃんの横に腰掛けている。もう、そのことだけで、お腹いっぱいになりそう。

「政子ぉ~」赤いソファは何でもして良い訳じゃないぞさぁちゃん。私の肩に小さなおでこをぴとっとつけて、左手の人差し指で私の脇腹をつんつんしてくるさぁちゃんは、改めて私に『チューしたげる』のか?

「ね、ねぇさぁちゃん近くない?」

 悪びれることなくさぁちゃんは、下から私の顔を覗く。

「近いね。あ、そうそう、可愛いよ。政子」

 かぁぁぁぁぁぁ~!

 私の何がそんなに可愛いんだよ!

 で、でも、私の深層心理がひょっとして、可憐であることを願っているかもしれない。てか、さぁちゃんが言うんだから可愛いのかもしれない。

 喧噪著しい町中と違って、人生の粋も甘いも経験していそうな、ライムライトの終幕にすらふさわしい老紳士と、半世紀経っても芯は枯れない私達の大先輩しかいないこの場なら、私は、私達は、もう少し正直になれる。

「さぁちゃんは、チューしたことあるの?」

 

たまにさぁちゃんは絵になりすぎている時がある。赤いソファーに腰掛けると言うより、価値を与えている。かけられたリボンのようだ。

「あたし? あるよ」

 うそぉぉぉぉぉぉぉおぉぉぉぉぉ!

「政子はないの?」

 ある訳ないじゃないか!

それはまぁ、大学入ってサークルとか合コンとかで考えます。

「へぇ~。

 まぁあたしは、ポメラニアンとだけどね」

 なぜだろう? 安心感から感極まった私はさぁちゃんを抱きしめる。さぁちゃんの唇を、まだ人間では誰も知らないだなんて!

「じゃあさぁ。もしかして、私が初めて?」

 さぁちゃんは声を発しないかわりに、小さく震えた。

「何で私なのさ?」

この質問に意味はない。

「あたし変な子だからね。あたしのこと興味持ってくれる人いたら、すぐに好きになっちゃう。政子とか、あたしのこと、好きでいてくれてるよね。嬉しすぎてさ」

 ヤバい。そんなこと言うなよさぁちゃん。つくりかけのガレットの香ばしさがソファにまで漂うなか、何よりも甘いさぁちゃんに触れられるなんて。

「さぁちゃんは、ちょっと変わってるかもしれないけど、でも、愛されるものを持ってんじゃん。それで十分なんだよ」

「何それー。お母さんみたいだね」

「もうお母さんで良いよ」

「お母さん♪」

 その一言で膝が痙攣した。

 さぁちゃんは無二の友達。友達だけど、彼女にはならないし、彼氏にもなれない。なのに、この感じ。

 無音。後僅か十センチ、おでこの熱を感じる。

 

 ようやく、唇が愛を食べようとしていた頃――



 不器用にこの店のドアを開く、不愉快な音が鳴った。

「かぁー! ここが話題のガレットの店かぁ!」

 声が既に不細工だなんて感じたことは私史上初めてだ。

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