親指を隠して、花をしたためて
久我山にあるさぁちゃんの実家は、百坪を越えるであろう敷地に古めかしくも洒落た小さなビルのような鉄筋づくりで、玄関には明葉家の先祖の肖像画が飾ってあった。
『これ、あたしの曾お爺ちゃん、旗三郎って言うんだって。キラキラネーム爺』
去年の秋頃かなぁ、さぁちゃん家に遊びに行った時、曾爺ちゃんの名前をディするさぁちゃんを思い出すとなんだか可笑しくなってきた。
ピラティスの先生をしていて上品な雰囲気を醸し出すさぁちゃんの母親が『あら、うちの紗月とお友達になってくれたのぉ~? チョベリグだねっ☆』とか言ってたのも、地元の名士の家なのにどことなく抜けている明葉家らしくて面白い。
●
一人は、暇だね……
センター試験を明日に控えた金曜日の昼休み。私はさぁちゃんに代わって「花円」の植え込みのカトレア達に水をやることを自ら名乗りでた。さぁちゃんは、諸般の事情で欠席している。
さて……気を取り直そう。
「花円」に植えられた花は、その全てが洋蘭の女王として名高いカトレアだった。まるで『あたし、カトレアなんだよ』と主張するさぁちゃんがしたためた花のように。
カトレアは水を蒔きすぎると腐ってしまうため、日によって水を与える場所が変わる。冷たい銀色の如雨露は重く、手が疲れる。さぁちゃんは力持ちなのかもしれないなぁ。
一通り水をやり終えると、私はさざれ石のベンチに腰掛けた。毎日のように腰掛けているせいで私とさぁちゃんの痕だけ変色しているような気がする。改めて変色痕を見てみると、さぁちゃんの身体は私より一回り小さいのがわかる。お昼休み、一人でお弁当を広げて、カトレアと御殿山の緑に囲まれながら、誰にも知られないお喋りをする。誰にも知らせないお喋りを。
五十路の母による冷凍食品ばかりのお弁当と、コンビニで買ってきた適当な一〇八円のパンを食べる。美味しい訳がない。とっとと食べて、スマホをイジる。ネットでカトレアについて調べてみる。一九世紀に南米で発見された洋蘭の女王カトレアは、発見者の植物学者ウイリアム・カトレイから来ているらしい。カトレアは花であり人。原産国に自生していた頃の花とは打って変わって、人為的に造作された自然の征服。西洋の価値観の結晶のような存在かもしれない。
「花円」に立ちこめるカトレアの薫りは、遠くからでもはっきりとわかるさぁちゃんの女王たる存在感。その花言葉には「純粋な愛・魔力」がある。
さぁちゃんは、愛の塊。
愛想が良くて、可愛くて……てか完全に私の主観だけど、才気干魃な女の子。何かに秀でたタイプではない中堅オールラウンダーの私を、さぁちゃんは友としてくれたことへの感謝が尽きないよ。高三の二学期からはほぼ毎日、昼と放課後に「花円」とか吉祥寺でべったりまったりしてる。もちろん、さぁちゃんとのやりとりをSNSにアップしたりなんかしない。誰かにリア充を伝えたいほど飢えたりなんかしていないから。もっと早く仲良くなっておけば……とも思うけど、今があるからそれで良い。男女共学の学校だったらまず彼氏ができたであろうさぁちゃんが、私と恋人以上に濃厚な時間を過ごしている。こんな平凡な見た目の私なんかと。
温室越しに目映いばかりの冬の青空を見上げた。
空が、花のように綺麗だね。
そう思えたのは誰のおかげか……言うまでもないよね。
ーーそろそろかなぁ
午後一時。
色々振り返ってたら時間が来た。
私は親指を隠した。
●
今頃、霊柩車が武蔵野に別れを告げ、私達の魂もいずれそうなるように、肉体が感受性の鉢植えとしての使命を終えたばかりの永久の心が旅立つ。私が親指を隠したところで意味はないのだが、命との別れは星の消滅に等しい。やがて訪れる夜空の瞬き達も、光年に比例して実際には私達と物理的時間を共有してはいない。私が親指で隠したいのは、さぁちゃんなんだよ。
三日前の夜、さぁちゃんの親戚のおばちゃんが息を引き取った。棺にカトレアの蕾を一つ手向けたこと、そして、ちょうどこの時間に荼毘に付されることを、さぁちゃんがメールで教えてくれた。火葬場の蕾はさぁちゃんの親戚のおばちゃんの永久を彩るのだろう。
『あたし、カトレアなんだよ』
ーー「花円」のカトレアが咲いて散る頃には、さぁちゃんと私も清学館から旅立つ。
親指では隠しきれないこの心につける名前はまだない。
●
さぁちゃんには、早く笑顔になってもらいたい。
いきなり悲しい気持ちから立ち直るのは難しいのだろうけど、友人として何かできることはないかと考えた。その一つが、さぁちゃんに代わって「花円」のカトレアに水をやることだった。無事に水やりを終えたことを連絡すると、さぁちゃんはたくさんのハートマークをつけたメールを返してくれた。励ましてあげるべきはさぁちゃんなのに、メールを見た瞬間私のほうがニヤケてしまった自分が嫌になるけど。
五限の授業のために戻ると、私が所属する三年雪組の教室では、学級委員を務める岩上円が教壇に立って何やらほざいていた。
「皆さん! 卒業式の前日に、雪組前夜祭をやりたいと思います!」
陸上部部長を務めていた岩上はよく通る声で教室中の女子を振り向かせると、なぜかドヤ顔で話を続けた。
「やっぱり私達、清楽館ってお嬢様学校だけど、たまには普通の関東のJKらしいことがしてみたい! みんなでカラオケとかボーリングとかやろう!」
今更何言ってんのよ。ここは武蔵野清楽館だぞ。親の所得八・九桁がデフォの学校でぶっちゃけ私や岩上のようなタイプって浮いてるじゃん。清楽館は茶髪黙認の校則がそんなに厳しい学校じゃないけれど、冗談抜きで雪組の生徒のうち、五分の一はファーストフード店に行ったことがないだろうし、三分の一は男性が必ず食事を奢ると考えてる。お嬢様学校だから。
案の定、岩上の提案は盛り上がることなく、三年雪組は静寂に包まれていった。
ーー私はそれに気を良くした。




