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口づけた花、恋よりも強い!

『あたし、カトレアなんだよ』

 さぁちゃんの言葉が春風のように、私の胸に種を蒔いたのは、私の仄かな胸騒ぎではないはず。心地よいようで、迎えたくない、最期の瞬間は、もう過ぎた。

 卒業式の日の朝。

吉祥寺駅から井の頭公園へ、噛みしめる。

 桜にはまだ早いが、梅の並木が綺麗な通い道。

 誂えた黒のスーツがよく似合う父は微笑んでいた。

「政子。清楽館って凄く素敵な学校だったんだろうなぁ」

 そうだよ。素敵な人と出会えたんだよ。


 一方で、己の年齢にアンチエイジングしすぎな赤いスーツにブランド物のバッグで武装した母が何のためにここにいるのかは知らない。

「そぉ? 清楽館は派手さが足りなかったから。大学が勝負ね。良いとこに就職するのよ。そのほうが人生面白いから」

 ちょって待て。母の言葉は正論かもしれないが、母にそれを言う資格はない。断じてない!

「ちょっとお母さんっ! お母さんの言う面白さは本当に面白いの? てかお母さんは何もしないで遊んでるだけじゃん。それで何が面白いの? 面白さは絶対じゃないわ」

「ありゃま。政子も結構言うじゃん」

 父の頑張りをそう言うふうに皮肉る母が許せない。

「こらこら二人とも。喧嘩するなよ卒業式だぞ」

 母に厳しくあたる私を、父は窘める。

「だってさ。何もわかってないよ! お父さんは優しすぎるよ。てかお母さんここに来る資格あんの!? お母さんに何がわかるのよっ!」

 最後の日に喧嘩なんて――これからさぁちゃんにも逢うのに。

 新しい世界の私は、こんなものなの? 道標を失った鈴木政子は、実に脆い。

 保護者や顔見知りのクラスメイトや、応援に駆けつけてきた下級生達までが一瞥して、ダメな私達親子に哀悼を捧げる。


 気づいたら、私の視界には安がいた。

 安はつくづく、バカな男だと思う。

 母と喧嘩している最中だぞ。そんな折の険しいこの私の表情を見てもなお、イケメンではない笑顔をまっすぐに捧げる。

「鈴木さーん!」

「や、安くん。今はちょっとぉ……」

「今しかないでしょ! 明葉さんの一番の友人は鈴木さんしかいないんだよ。僕なんかよりよほどふさわしい。一回みっちりお喋りしようよ。明葉さんも一緒に!」

 既に卒業式を終えた安は、心なしか大人に見えた。いや、卒業式が彼を大人にしたのではない。さ

ぁちゃんという支えが、安を無駄に強くしたのだろう。

「ちょっと政子。この野暮ったい子は何よ?」

 安はさぁちゃんの彼氏だぞ。あのさぁちゃんが認めた男だぞ。そんな言われたらまたキレそうだわ。

「まぁまぁ。確かに僕はカッコ良くないし。ところで今日の卒業式は男でも関係者は入場できるって聞いたんだけど、鈴木さんは、明葉さんのお母さんとかにはまだ逢ってない?」

「まだだけど」

「そっかぁ。じゃあまだ僕はここで待つかな。ありがとう」

 関係者と言えでも、彼氏の役柄では入場することはできない。彼氏が入場したいのならば、彼女の保護者等の許諾が必要らしい。

 父が、安に一言告げた。

「政子は、良い友達をたくさん持ったんだねぇ」

 安は照れていた。

 母は舌打ちをしていたが。

「久美子。やめないか。今日は平和に行こうよ」

 父が母の名前を呼んだのは、私の記憶上は十年以上ぶりだった。

「私はいつだって平和よ。平和じゃないのは世の中なんだから」

「まぁまぁ。政子もしっかりとした娘に育ってくれたみたいだし、次は久美子の番だぞ」

 父に頭を優しく撫でられた母は、言葉が少なくなっていった。

「お母……さん?」

 父が母に向けた眼差しに、私は驚いた。

 はっきりと睨んでいる。いや、ただ睨むだけなら私も普段母にそうしているが、父のそれは、私のものとは次元が違う。

「久美子の分まで政子を見てきたが、次は久美子が大人になる番だ。いつまでも子供でいる訳にはいかないんだよお前もな。お前はもう十分に贅沢した。だからまず理解しろ。政子の友達は素晴らしい」

 ひ弱な態度ばかり取っていた父なのに。

 その弱さもまた、かつてのさぁちゃんのようで――


 新しい世界で生きていくには、自己が必要。

 優しさと理不尽さの、その両極で大人になれる。

 私が空であることが、まだどんなことかはわからないけれど、さぁちゃんと親しいこの私なんだか

ら、きっと大丈夫。

 みんな、さぁちゃんのことが大好きだから、さぁちゃんは、空になることにした。さぁちゃんが嫌いなもの、苦手なものも受け入れる。私も変わるんだ。

 この空は、本当にこれからが楽しみだわ。

 

  ●


 父と母がどうなっているか心配だけど、最後の教室へ。後輩達が飾り付けをしてくれていたのだろうか、星組の黒板には色とりどりの寄せ書きが飾ってあり、皆思い思いに記念写真を撮っていたりしていた。

「政子~! こっちこっち!」

 円が手招きしてくれる。

「うん! わかったぁ!」

 鞄を机に置こう――


 私と、まだ来ていない数名の机の上には、昨日まで「花円」にあったカトレアが一輪ずつ置かれていた。

 私はそれを手に取ると、嗅いでみた。

 さぁちゃんの心はずっと一緒でも、やっぱりそこに体がないと寂しいよ。

 瞼を閉じてみた。

 さぁちゃんが昨日、私が眠っている間に「花円」のカトレアを片づけたのは、このためだったのね。

 見ると雪組のクラスメイト達は皆、手にカトレアを持ち寄って、それぞれ写真を取り合っている。

円が親しげに肩を叩く。

「政子もさ! 撮ろうよ!」

「円! う、うんっ! それにしてもさ。朝来たらビックリだよ。みんなの机に一輪ずつ綺麗なカトレアが置かれていてさ。

 このカトレアってさ。誰が置いてくれたんだろうねぇ~?」

 さぁちゃんに決まってるよ。こんなことをするのは。さぁちゃんは未来を咲かそうとしている。

「てか。さぁちゃんも一緒にして撮りたいよね。最後の日なのに何してんだよ全くぅ~」

 メールも電話も返事はない。

「まさか最後の日に遅刻!?」

 冗談めかして円に呟いてみるものの、私は内心ビビってる。嫌だよまさか何かの事情で本当にさぁちゃんが花のように儚い存在になるとかだったら――


「ああっ!!」

 クラスメイトの実塚さんが鼓膜まで響く大声で叫ぶ。

「どうしたのよ!?」円を始め、みんな実塚さんの元へ駆け寄る。

「ヤバいよヤバいよ明葉さんが窓の外でぇ!」

 何っ!?

 幾人かのクラスメイトを跳ね退けて、銀色のサッシを握って窓から身を乗り出す。校門と講堂を背に人々で賑わう光景のちょうど真ん中、さぁちゃんが花のように咲いていた。

「さぁちゃんって……」

「うん。あたし、カトレアなんだよ!」

 「花円」に咲いていた最後の一本を、さぁちゃんは制服の胸ポケットに挿し、そして遠く窓に映る私のほうを見上げた。

「さぁちゃんっ! 早くこっち来なよっ!」

 最後の日に何いちゃいちゃしてんだよっ! そんなの後でやれば良いじゃんか!

「政子! 教室の花を見たでしょっ!

 あたしも政子が大好きだからっ! 今からそっちに向かうからっ!」

 さぁちゃんの周りには、慈愛に溢れた表情のさぁちゃんの両親に安に深村、大先輩のガレット屋さんのマスターに司書の先生、皆それぞれ、カトレアを一輪ずつ手に持っている。

「政子。告白されてやんの」

 円がニタニタしている。

「そうだよ! 告られちゃったよ! 嬉しいよ! でも恥ずかしい!」

 いくら何でもやりすぎだよ。みんなにバレバレじゃないか!

「でも政子。ちょっと羨ましいな」

 腕組みしながら円の瞼は少し潤んでいた。

「ええ? そぉ?」

 冗談めかしてみるけれど、心の底から沸々とする感情を、もう抑えることができない。

 さぁちゃんは左手の人差し指を床に向かって指す仕草をし、右手をロングスカートの裾を突っ張るように親指と人差し指の先端で持つ仕草を見せる。左で清楽館の白亜の大階段と天窓に栄える星を指しながら、右手で躍動と精神の調和を示す『エトワール・レビューポーズ』で、クラスメイトや大人達に挨拶する。武蔵野に咲く明葉家の末裔は人々に愛されるけれど、指さす大地にこそ、道標となる空がある。何も見えない、知ることのできない東京に、人生とは希望であり、文化とは忍耐であることを知る。


 私達は花――涙で育つもの。

 でも、こんな大勢の前でやられたら、涙も出やしないよ。

 私は開き直っちゃうよ。

 誰にも隠しなんかしないよ。

 身の程を無視して、私も生きてやるよ。

 もう逃げられないもん。

 みんなもう知っている。「花円」に咲いていた花のこと、私がさぁちゃんのことが好きで、さぁちゃんも私のことが好き。それはもう周知の事実。エスってこんな開けっ広げなものなの!? 二十世紀との落差激しすぎない!?

 ――ただ、しんみりしないのがさすがさぁちゃんだね。二人のことを、これでみんなで忘れないだろう。この先、私達が自分を見失ったとしても、武蔵野のみんなが何とかしてくれるだろう。

ありがとう、みんな。


さて、美しさすら笑い飛ばせるそんな花の名前は、上手く言えなくて気恥ずかしいけど、二度とは咲かない最後の花。

そう――「カトレアオメガ」


                    おわり

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