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唇を重ねたら最後、満開の花

「お腹空いたね」

 さぁちゃんの気の抜けた言葉が愛しい。

「政子さ。スタバ行こうよ」

「そんなに時間はかからないと思うけど?」

「腹が減っては戦はできませぬぞ政子殿」

 日本史の先生の口振りを真似してくるさぁちゃんが可愛い。

 さぁちゃんのお願いに基づいて、高等部の校舎から引き返して、私達は井の頭公園の吉祥寺口の入り口手前にある、近郊からの観光客で混み合うスタバで季節らしいホワイトモカと大きなサイズのスコーンを頼んだ。

 ……味はぶっちゃけ、覚えていない。これが最後の晩餐なのだろう。

 私達の「花円」の、最後の瞬間は近づいている。


 午後と春の陽気のなか、さぁちゃんはカーディガンを脱いだ。いよいよ清楽館に再度登校する。卒業式を明日に控え、部活に励んでいた同級生達が後輩達から歓迎を受けているであろう嬉々とした声が、私にはやけに遠い世界のものに感じられる。

「羨ましいね」

 さぁちゃんが呟いた。

「羨ましいけどさ。私はさぁちゃんと今一緒にいる自分のほうが、もっと羨ましいよ」

「わぁぁ政子ぉ~! キュン死にやでっ!」

 下手くそな関西弁のさぁちゃんを抱きしめたい。

 「花円」までの道のりを、噛みしめよう。

 高等部の校舎から「花円」までの道のりは、徒歩では僅か二分程度。校舎の廊下側は御殿山に接していて、二階の渡り廊下が既に中腹に面している。人通りの少ない銀色の渡り廊下から、明葉家が所有している御殿山へ――私はさぁちゃんの小さな手を引く。触ったら雪のように溶けてしまいそうな小さな手を握った。

「政子の手は汗ばんでるね」

 実は脇汗も半端ない……

「緊張だよ――さぁちゃん。嫌じゃないかな?」

 今更だが、さぁちゃんの許可を尊重したい。

「うん。どうぞどうぞ」

 良かった。これでアウトだったら私今頃切腹するところだった。

「政子とも、明日でお別れかー」

 いきなりそんなこと言うなよ。寂しくなるじゃん。

「卒業後も逢えるじゃん。てか逢ってよぉ~」

 逢ってほしい。

安のものになっても構わないから。頑張ればさぁちゃんとまた未来で逢えることを、確認したい。清楽館のエスに誓った、私の最後の願いだよ。

「政子が欲しいものは何?」

 さぁちゃんの口振りは優しかった。

「欲しいもの?」

「うん。例えばさ。明治に進学するのが政子の人生の目標じゃないじゃん。そっから何かになるために頑張ったりするんでしょ?」

 耳が痛かった。

 さぁちゃんには申し訳ないけど、将来の夢を見つけることができなかった。専業主婦って柄でもないし、特技がある訳でもない。

「私さ。ないんだよ実は。さぁちゃんは何になりたいの?」

 バレンタインデーの時もそうだったけど、私は勝手にさぁちゃんがちゃらんぽらんだと決めつけていた。無垢な少女もいつか大人になる。ならなきゃいけないんだ。人と関わり、社会と接点を持つ。傷つくのは、傷ついてからで良い。そうやって本当に世の中が自分に合うのかを判断してからで遅くはない。

 御殿山から井の頭池を見つめながら、さぁちゃんは深呼吸。

「私は前にも言った通り、芸術系。てか、今からでも願書出願しようかなぁ~。なんちゃってね。浪人して考えるよ。安くんと予備校で一緒に勉強してさ。ついていけるかなぁ勉強……まぁ良いや」

「良くないでしょ。って、まぁそれは置いといて。

『花円』をどうするかって言うのは、結論は出たの?」

「だよねぇ。『花円』については、枯らせる訳にもいかないし、だからと言って後輩ちゃんが引き取ってもくれないのよねー。

 あたしにとって『花円』は作品なんだけど、結局最後の一ヶ月は全然面倒見てなかったわね。ごめんね政子。本当は政子が水をやってたとこにあたしも行くべきだったよね。ごめん」

 珍しく、さぁちゃんがどんよりと曇りだした。

「温室の電源も、切ったままだったよね。

 あたしさ。ぶっちゃけ、カトレア達が最後に萎れても良いと思ってたんだよ。だから切ってた」

 いきなり過ぎて訳がわからない。自らそんな判断を下すということは、一体どういう意図がある訳なんだ!?

「何で? さぁちゃんの大切なものなのに?」

「何と言うか、考えてたのよ。『花円』自体も永遠じゃないし、卒業したら面倒見に行くこともあんまりできないし。それならいっそ枯らしちゃったほうが、悲しいけれど。あたしには安くんがいるしさ。

 でもそれが間違いだってことを、政子が教えてくれた」

 さぁちゃんが握り返す。銀の如雨露を毎日握っていた手が本気を出している。

「一人じゃないんだよ。

 安くんはとても素晴らしい人で、これからを共にしたい。

 でも、それって過去を捨てることとは別なんだよね」

 嬉しかった。

「今だけ、政子が望むままをあげるよ」

 振り返ると、さぁちゃんの左頬には真昼の陽光が輝いていた。

「さぁ……ちゃん?」

 さぁちゃんは美しい。

『あたし、カトレアなんだよ』

 出逢った日の言葉が脳裏によぎった。


今日が最後の「花円」。

 自分で言うのもなんだけど、私の手入れの甲斐もあって、カトレア達はまだ色づいていた。

「わぁ~綺麗。まるであたしが育てた花じゃないみたいじゃん~」

 いやいやいや。どう考えてもさぁちゃんが手塩にかけたものじゃないか。何を言ってるんだよ。

「さぁちゃんの花達じゃん」

「ううん政子。それは違うよ。

 何でもかんでも、小さな頃からあたしは飽きっぽくてね。『花円』を作ったの、九月だからね。それまでの『花円』は掻い堀で余った錦鯉とか飼ってた池があったもん」

「そうなの?」

「実はね。夏休み中に工事してもらってさ。まぁ去年は清楽館とは別の場所でバードウォッチング用の小屋を作ってもらったりね。色んなことしたよー。

 でもさ。そんなことしても、あたしは全然楽しくなかった。

 あたしの半分は、きっと私が持ち合わせてはいないんだよ。もう半分は誰かが持っている。今のところ、私にとってそれは安くんなんだけどさ。あたしバカだからさぁ。人に声をかけるってことさえ、よくわかってなかったんだよねぇ。人のところに行くっていう概念すら、当時のあたしは本当に何もわかってなかった。

 政子がさ。こんな、誰も通わない『花円』に来てくれてから、あたしも変わっていったよ。

政子は普通なんだよ。普通に部活やってて勉強やってて、指定校推薦決めちゃって。あたしは普通な政子が好きだった」

「私が、普通?」

「そうよ。

 でも、ある意味今の政子はあたしにも背負いきれないクレイジーさがあるけど」

 そう言われちゃうと、何だかコケそうになったじゃん……

「まぁまぁ政子。政子といた時間はハッピィだったわ。これがある度、孤独な精神は優しくなれた。ここにあるカトレアのように、かな」

 カトレアの花言葉の一つには、「成熟した愛情」がある。

「政子! マフラーを巻こうっ!」

 さぁちゃんはいきなりいつも巻いているスカイブルーのマフラーで私の首を絞めてきた。

 繊維の起毛が薫る。

 長いマフラーを二人で巻く。

「さぁちゃん。恋人っぽくね?」

「だよねー政子」

 声こそ明るいけど、さぁちゃんが今どんな表情をしているか、そんなこと確認する勇気はない。

 卒業式は明日だが、今日しかない。私の愛を伝えるには。

 私が悲しい時、そっとマフラーをかけてくれる優しい人へ。

 今度は、私が愛する番だ。

「何でさぁちゃんは、私を恋人にしてくれないのよ!」

「仕方ないじゃん~。でも政子は彼氏以上のカテゴリだよ!」

「じゃあもっと色々仲良くしようよぉ~」

「人生は短いからしょうがないんだよぉ~。てか今一緒にいるじゃん。あたしだって、政子が大好きなんだよ。頑固で固いとこもあるけど、それも込みで、あたしなんか慕ってくれる政子が大好き。あたしの愛される理由はわからないけど、あたしも政子に好かれているだけじゃ嫌。あたしからも好き! だから安くんと一緒にいても、あたしは政子と心はともにある。政子がいるから、あたしが跳べるんだよ。跳べたんだよ! だから、あたしのチューで政子が変わるなら、進むなら、するよ。政子が跳べるのならば、こんな肉体くらい、安すぎるよ。

 でも約束してほしいんだよ。あたしの唇を奪ったら、絶対跳んでよ。ちゃんと明日に戻ってよ。政子は大学生としてーー約束だよ」

 さぁちゃんの言葉に対して、私の頬を伝う滴は火傷しそうなくらいに熱い。拭う度、愛しい人は優しい表情を浮かべる。

「さぁちゃんは天才だよね」

 人への優しさ。世の中からズレていることも。さぁちゃんは諸手をあげて天才だよ。私は天才と、今、心を重ね合わせている。こんな幸運なことは人生においてそうはない。

「政子は物好きだよね」

 全くだよ。大切なものがさぁちゃんだからねぇ。

 咽び泣いている。

 カトレア達が見ている。

 私たちの記憶が終わるなら、カトレア達も散りゆく。そしてもっと綺麗なものが待っている。


 永遠をここに閉じこめるため、右手に愛しい人の頭を、左手に愛しい人の撫で肩を。そして唇を、唇

へ。

「これで本当に、政子だね」

 そんなことを言うさぁちゃんの笑顔は天使だよ。


 少しずつオレンジ色の空色が映えていく「花円」からの空に、焦がれる心が二つ。流星よりも煌めいている。一つは小さく白く、純粋な炎。もう一つは浅黒く、強情の果てに爛れた炎。

「行くよ」

「行くね」

 じわぁぁ~と、それは浸透していく。

 ――今だ!


 両方の手が、さぁちゃんの顔を私の顔まで、極限まで近づける。唇の熱が熱い。

 さぁちゃんの唇には、引力がある。下唇を突き出したら最後――

 さぁちゃんの唇には、魔力がある。

 吸って、吐いたら、死んじゃう。震える。宇宙!? 宇宙より広い。

 さぁちゃんの可憐さを、私で飾りたてたい。カトレア達が見ているこの「花円」で。もうすぐこの花達も枯れるだろう。だがそれが良い。この花のような願いは、この花のもとで叶える。私達の願いは、心に舞う種に生まれ変わる。唇の柔らかさと優しさが、明日には必要なんだ!

 

 ――触れたぁっ!

 粘膜が、一つにさせてくれる。

「うぐぐ、ぐぅぅ~~~~~!」

 声にならない声がする。決して快楽ではない。まるで悲鳴だ。普通の恋人同士なら、相手を尊重して優しく労るのが愛だろう。でも違う。私も痛い。さぁちゃんの八重歯が舌を乱雑に噛んでいる。私の舌もまた、さぁちゃんをできるだけ知ろうとしている。互いを、知るだけの痛みも躊躇できない。今日は

永遠になる。唇だけの繋がりじゃない。私の思みに耐えかねたさぁちゃんは少しずつ傾き始める。さざれ石のベンチに倒れ込む。唇を重ねたまま、私が押し倒す。手でさぁちゃんの髪をくしゃくしゃに絡ませたり、眼球から溢れでる涙すらも重ね合わせたり、私はやはりワガママだ。さぁちゃんを尊重できていない。さぁちゃんが私の髪を掴もうとする。愛情ではない。これは拒絶のサイン。私の愛は間違っている。でも、それでも――

 悲しみは二つ。彼女の愛に応えられないことと、この願いが、届かないこと。「花円」は武蔵野の地に静かに乞う。静かに続いていく。もう朝は来ない。同じところをひたすら航海する幽霊船の亡霊――恋人さぁちゃんは、もう言葉もなく、存在として死を迎えている。その偶像はさぁちゃんだけど、その精神は――


 とうとう肉体から崩れ果てた私は、恋人さぁちゃんの胸に、情けない顔を埋める。

 言葉もない――

 時間という海が流れていく――

 唾液(あか)嗚咽(ひかり)を讃えながら――


 カトレア達の露となろう――


 確かにさぁちゃんは人間ではないのかもしれない。人間のように汚れていない、彼女の純真はカトレアのよう。それに引き換え、私は人間でしかない。私の姓は鈴木、名は政子、人呼んで鈴木政子というこの名前が嫌いなのは、地味な漢字が並んでいるからではない。


 私が願ったのは、ただたださぁちゃんとの未来。さぁちゃんとともに過ごす未来。

 さぁちゃんは両腕で、落ちそうな瞼の私の顔を埋めさせてくれた。

 涙の海の中、眠りたくなった。

 さぁちゃんはやっぱり優しくて可愛くて、私なんかが何で抱きしめられてるのだろう? でも一瞬であれ、彼女と同じような自分でいられたのもさぁちゃんの優しさ。さぁちゃんは、天才だよ。

 眠たくなってきたよ。

 幸せを充足させて、生まれ変わるよ。


 次に瞼を開いたら、新しい世界で逢おうね。

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