待ち続けた、私なりの花
清楽館の三年生の教室が賑わうのがこしょばい。 この数日ずっと私だけの日々が過ぎていった。文学作品に触れ、「花円」のカトレアに水をやり、さぁちゃんに思いを届けることについて心が揺れていた。
雪組の教室はもう机の中もロッカーも片付けられていて、顔馴染みのクラスメイト達の大半が将来を手に入れたようで、顔つきは明るかった。
ふと岩上と目線が合った気がした……緊張するなぁ。岩上は私のことを気にはしていないのか、いつも通りのバカな高笑いをしている。あれで関東有数の私大とか、その大学もどうかしてるわ……でも岩上も、私の見ていないところでめちゃくちゃ勉強とか頑張っていたんだろうなぁ。
自分の席にたどり着くまでに、岩上に声をかけたかった。私は他者を受け入れることができる。こないだの岩上の呼びかけに嫌味が含まれていても、それすら喜びの花に変えてみせる、それはさぁちゃんのように。好きな人も時間も、全部自分で決めてみせる。
「おはっ……よぅ~!」
緊張してたのか、噛んでしまった。
「ん? あ、あれ? 政子じゃん。お久しぶり」
緊張は私だけのものではなかった。
「円。遅ればせながらだけど、おめでとう。ごめんね遅くなっちゃってさ」
一生懸命勉強していたその努力を、私は全く尊敬していなかった。自分だけ楽しければ良かった。岩上に対してだけでなく、さぁちゃんに対しても。
「政子ありがと~。あ、そうだ政子。もう明日で卒業じゃん。政子とは卒業前にどっか行こうと思ってんだけどさ。
今日さ。前夜祭を計画してるのよ! 政子も行こうよ!」
何だろう。これがさぁちゃんと出逢うまでの日常だった。岩上と、あと何人かの奴等と毎日バカみたいにただただ絡み続けるだけの日々。脆い関係性。片方だけが歩み寄っても届かない。二人のタイミングがともに合わないといけない。私も岩上も、清楽館に溢れる才能豊かな女子ではない。能力のない奴等同士で身を寄せ合うのは必然だった。そこにさぁちゃんが寄ってくるはずはない。私達が醸し出す蜜は綺麗なものではなく、粘っこくて惰性に充ちたもの。気高きカトレアの如きさぁちゃんが、そんなものを手に入れたくはない。
でも、さぁちゃんは私を可愛がってくれた。
もし私に何か秀でたものがあるならば、それはさぁちゃんを見つけたことかもしれない。さぁちゃんは向こうからは寄ってこない。岩上とのバレンタインデーの時における仲良しぶりも、遅刻したが故の偶発的なもの。それを私と言ったら、ああ恥ずかしい。
「前夜祭って、何すんの?」
「学校主催の奴だとあんまはしゃげないじゃん。だから一旦みんな私服に着替えて、カラオケでもボーリングでも……あたし的にはダーツも良いかなって思ってさ」
うむうむ。岩上は、普通だ。
「そうだねぇ。何人くらい来るのかなぁ?」
「数人来りゃ良いほうじゃね? 芸能とか忙しい子も多いからね。
そうだ。政子に一つ宿題があるの。明葉さんを呼んでよ。星組の子もぜひ参加してほしいわ!」
「勿論オッケーでございますよっ!」
それならば、きっとさぁちゃんも、来てくれるだろう。
「あの子、こないだ初めてまともに喋ったけど、超可愛いよねぇ。何か、大切にしたげたい感じ」
「うんうんうん!」
ナイス岩上。さあちゃんと話すネタができたっ!
「明葉さんは政子の大切な友達だからね。しっかり頼むよ!」
岩上と話せるようになって良かった。
どうださぁちゃん! 私だって、やればできるんだよ。
●
最後の放課後。
終礼とともに、さぁちゃんがいる星組の教室へ突入した。
「さぁちゃん~!」
星組の北極星。制服のさぁちゃんを見るのも最後になりつつある。しかと瞳に焼き付けよう。
「おお! 政子さんじゃないっすかぁ!?」
さぁちゃんに逢えることがどれほど私にとって意味があるか、今になってようやく噛みしめる。心拍数が上がる。ここ半年、平日はほぼ毎日逢っていたのに。今日はその意味が全然違う。文字通り世界が変わったも同然だ。だって好きな人だもん。大好きなさぁちゃんがいる。安の彼女になったってさぁちゃんはさぁちゃん。変わらない。
「政子。あれ? どしたの? 今日はなんか政子の表情がホカホカじゃん♪ てか政子相変わらず綺麗じゃん。元気だった?」
元気な訳ねぇだろうよ全く。ドギマギさせやがって。
「元気ぃ? まぁわからないけど」
眉をしかめる私に、さぁちゃんは在りし日と同じような微笑みを見せた。
「へ~。まぁ政子さん。その節は申し訳ございませんでしたなぁ~」
なぜかバレンタインデーの件を謝罪してきた。冗談っぽく明るい声だけど。
「ええ!? あれ明らか私悪いじゃん。てか安くんとはその後どうなったのよ?」
私だって直球なんだよ。
「にゃは~ん♪」
はいっ!?
さぁちゃんは右手で何かを掴むジェスチャーをして、猫の鳴き真似を始めた。
何よそれ!? 私は萌え死にしてしまうっ!
「ええ!? それ何かあったってこと?」
「にゃ~んにゃんにゃん!」
首を横に振るさぁにゃん。
「にゃ~、にゃぁぁぁ」
頬を赤らめるさぁにゃん。
ヤバっ。学内で鼻血が出そう。嫌だよ最後に保健室のお世話になるのは。
「にゃぁ~、ってことよ。
……つまり、何にもないわよ」
全然意味わかんないわよっ!
鼻血が出ないように顔を天井に向けていた私に、にゃんにゃんするさぁちゃんがいきなり素に戻るから油断ならない。
「さぁちゃん、今日時間ある?」
さぁちゃん、見てたか。岩上との仲も何とかなった。後は――「花円」に行こう。
「今日ねぇ。あんまり時間取れないかもしれないんだよねぇ」
「え? な、何か予定あるの?」
「うん。実はね。安くんの卒業式が今日なんだよ。それで今から、川崎へ行くの」
「そ、その後とかは!?」
「夕方以降だったら空いてるかもしれないけど――政子ごめんね」
「そっかぁ」
平静を装っているつもりだけど、私の心は今にも引きちぎられそうだった。
「また、明日ね。政子」
その「明日」が過ぎ去れば、明日は二度と来ない。
「じゃあさ。
夕方で良いから、『花円』に行けない?
さぁちゃんは、卒業後に『花円』をどうするつもりなの?」
川崎に行く前に、付き合ってほしい。
いやまぁ私のわがままではあるんだけど、今日だけは、今日だけは頼むよ。
私の目つきや睨み方に我慢できないのか、さぁちゃんは震えだした。
「ちょ、ちょい政子。やっぱり、政子は変だよ」
シリアスに引き込んでしまった。
「そうだよ。私は変なんだよ」
さぁちゃんのことが大好きな変人なんだよ。それがどうした!?
「こないだもそうだけどさ。『花円』の手入れもしてくれてるみたいだし、かと言って安くんにあげるはずのチョコを食べちゃったりしたし、前の政子は純心だったけど、今の政子は何を考えている人か、あたしにはよくわからない」
さぁちゃんは頬杖をついていた。
私も変わったけど、さぁちゃんも変わった。
人々に愛された武蔵野の名士明葉家の末裔は、人を愛する、ただの人になってしまった。
何で安なんだよ……
もっと、さぁちゃんにはふさわしい人がいっぱいいるはずなのに。
「さぁちゃん。チューして」
私達は、歩まねばなるまい。
「政子ぉ?」
「さぁちゃんが好き! 大好き! 大好き!」
唾が飛んでさぁちゃんのカーディガンにもかかってる。私の声の大きさも、わかってるよ変なんだよ。でも、抑える? 何それ? 私のワガママなのはわかってる。でもさぁちゃんはわかってない。
「さぁちゃんは天才なんだよ!」
天才が凡人であることを悟る前に。
「そうありたいと感じていた時期もあったけど、それは何も知らないから言えたんだよ。今は――ここ、教室だよ! 静かにしないと、先生に注意されるよ!」
そんなこと知るかぁっ!
「自分に置き換えて考えてみてよ! 安くんがもし、他の女の子に靡いたりしたらどうするのよ!? 気持ちが通じなくなる日がやってきたらどうするの? さぁちゃんはまだ何も失ったことがないからわかってない!」
「えっ? あたし、こないだおばちゃん死んだんだけど」
こないだ叔母の璃音先生が亡くなっていたのに――
「ごめん――」
そうだわ。そんな悲しさ微塵も感じさせなかったけれど、叔母の璃音先生とさぁちゃんの仲は、十分に失ったと言えるだろう。
「まぁおばちゃんはさ。天国で輝いてるんだよ。いっぱい色々なとこに連れていってもらったりして、お菓子の作り方とかも習ったかな。身についてないけど。
おばちゃんと違って政子はまだ、失ってない、ということかなぁ」
璃音先生を失ってなお、てかそこでさぁちゃんに考えさせる私って何よ!? 蕾の思いが花開いたと思ったらこの毒花は何よ!? 最低!
私の瞼の下の睫は短い。溢れた心が滴になっても、あまり支えることができない。
「政子。大丈夫……じゃない、よね」
両腕で瞼をおさえてももう遅い。
さぁちゃんの場合、別離は精神のものではない。私が目の前から消えたところで、さぁちゃんの心に私は何らか生き残るだろう。だがそう言う問題ではないのだ。それは本当の私じゃない。親友としての鈴木政子だけが、私のさぁちゃんにおける全てじゃない。
「私も安くんに負けないくらい、さぁちゃんが大好きだよ。バレンタインの時だって、意地悪であんなことしちゃったんじゃないのよ! 安くんへの嫉妬よ! さぁちゃんが大好きで、恋してるよ。女の子が女の子にそんなこと言うのは変だけど、それに私も、男が好きなのよ本当は。でもさぁちゃんは違うんだよ。性別とかそんなもんがつまらないと思えちゃう。圧倒的。
でもね。今の私じゃ安くんに勝てないし、こんな私の願いが叶うことがさぁちゃんのためになるかと言われたら、ならないと思う。だからこそ、チューしてほしい」
過去の永遠にはもう会えないけれど、永遠なら、ここにある。
恋人よ。君がどんな気持ちでそれを感じていても構わない。ただ私は、「花円」に憩うさぁちゃんを、嘘だとは思わない。
――バカだよね。自分中心で他者をナチュラルに見下していて友達もできない。私は高い学費払ってもらって清楽館で何を学んできたんだよ。何にもないじゃん。
「政子。落ち着いて」
さぁちゃんは電話で恐らく安に連絡をしている。
『政子に、先にチューされる。それで安くんを悲しませるようなことがあってはならないわ』
もうさぁちゃんは、軽々しく言葉を続けない。一つ一つに重みがある。さぁちゃんは、さぁちゃんだけを生きてはいない。
彼女は、恋をしている。
「政子。安くんはそんなの全然気にしてないって。
じゃあ、行こうか政子」
たった一度、口づけるだけなのに……胸が震えるわ。
「ありがとう……さぁちゃん」
複雑な言葉なんか出ないけど、本当にありがとう。




