口づけたい花、恋とは違う
『あたし、カトレアなんだよ』
さぁちゃんは時折、そんなことを呟く。
私、鈴木政子の無二の友人であるさぁちゃんは、私のような地味な名前とは違い、明葉紗月という素敵な名前を持っている。
「え? さぁちゃんは人間だよ」
私にはこの類の冗談を上手く切り返せる能力が欠けていた。
「政子は真面目だなぁ~」
二人きりの時の私は、一人でいる時よりも正直でありたいと強く思っている。
井の頭公園に程近く、私達が通う慎ましやかな私立の女子高、武蔵野清楽館高等部。その敷地内にある小高い丘に隠された、さぁちゃんと私、二人だけの蜜なる場所、「花円」。
「花円」は花園の誤表記ではなく、直径二〇メートルほどの円形の温室。なかにはプランター等が配置され、そこにさぁちゃんの趣味で植えられた花が季節に応じて色を変化させる。サークルの真ん中には、さざれ石を削って造られた何とも贅沢なベンチがあり、ちょうど二人分が座れるようになっている。清楽館の生徒や教員にすらあまり知られていない、大人とか心の汚い人にはたどり着けない愛の国、それが「花円」だと私は考えている。
そんな「花円」には、冬咲きのカトレア達が蕾をつけはじめていた。
さぁちゃんはそんなカトレアの蕾に、無自覚な可憐さを重ねていたのだろうか?
「嫌?」
一月の澄んだ青空と私達を隔てる温室のビニールの下、瞳を潤ませたさぁちゃんは、そのまま私の右肩に寄りかかってきた。
「さぁちゃん。ヤバいよ~」
顔を少し右に向けると、さぁちゃんの唇の熱や、熱い吐息が漏れ伝わる。それは私の心臓のリズムを心地良く乱した。
「んふふ政子。チューしたげる」
さぁちゃんは右の瞳を閉じて、左の瞳を剥きたて卵の白身のようにキラキラさせていた。睫はチクチクさせる黒い棘のようで、私の胸はもはや痛みすらあった。
私の主観でしかないけれど、さぁちゃんはヤバい。綿飴を被ったようなキラキラした髪、大きく黒々とした瞳、雪も羨む真白な肌、華美な化粧でごまかすこともなく、正に少女漫画から飛び出してきたような造形。葡萄茶色のカーディガンを羽織り、胸元に白いタイをつけ、ちょうど膝丈の紺色プリーツスカートからは、私の二の腕と同じ太さの脚がスラリと伸びている。暖かそうな黒タイツによく磨かれた焦げ茶色のローファーも相まって、さぁちゃんがお家でいかに大事に扱われているかが想像できる。そりゃあさぁちゃんの親からしたら、こんな娘が生まれてきたらそれこそ凄いギフトだろう。さぁちゃんには男性ならずともいけない感情に掻き乱されても神様は許してくれるだろう。女の私ですら思う。
……でも待てよ。
「さぁちゃん? 待って。私達付き合ってるんじゃないよねえ?」
チューなんてちゃんちゃらおかしい!
彼氏じゃないんだぞ私!
……でもふと我に返った時、この状況がおかしいことに気づいてしまった私の常識にあらがわない部分が憎らしい。
「どしたの政子ー?」
さぁちゃんが眉をひそめる。
「私達、いやいやいや、チューとか女の子同士だよっ! そ、そう言うのは彼氏とかからかなぁ~って思ってぇ!」
どうした私? 体中が熱くなってきてるぞっ!
「あれ? まさか政子。彼氏できたんすかっ!?」
さぁちゃんが私の胸のあたりを頭でぐりぐりしてきやがった! 髪の毛が顔にかかって、その度にカトレアのような薫りが私の心を抉った。
「そうじゃないよぉ! ただ私は、そう言うものだと思っているから」
さぁちゃんと違って私は奥手なんだよ。
本当に好きな人、恋人としか、唇は重ねられない。
「政子。嫌だった?」
さぁちゃんが悲しげな声で少し震えていた。
「ごめん。嫌とかそういうんじゃないと思うんだけどさ。さっきも言ったけど、チューはほら、やっぱり彼氏とかそういうんが出来たらと思うんだよね」
女の子同士のコミュニケーションとしてか? はたまたどこかの風習か? よくわからないけど、帰国子女でもないさぁちゃんは何を考えているのだろう?
「政子はマジメだなぁ~」
さぁちゃんに名前を呼ばれる度に、私に鈴木政子って地味な名前をつけた親のセンスを疑いたい。
「さぁちゃんはね。裕福だからわからないかもしれないけどさ。世の中にはね。ろくでもない奴がいっぱいいるんだよ。それにさぁちゃんは可愛い上に人懐っこいんだから。すぐに自分の内面とか喋ったり、スキンシップとったりするのは、世の中の大多数の場面では、危険なんだからね。大学生とかになったら女子大行っても合コンとかあるじゃん。男子を勘違いさせちゃったらどうするの? 人生狂っちゃうよ」
私達はきっと、ずっと友達だろう。だからこそ、さぁちゃんの将来が不安で仕方ない。さぁちゃんが危ない橋を渡ろうとしていたら、引き留めないといけない。悪い奴に騙されなければいいんだけどなぁ。その優しさが仇とならないように、私はこれからも、さぁちゃんをできるだけ近くから見守りたい。
「政子……」
さぁちゃんは、それ以上は何も言わずに、私の腕を掴んできた。
「チューはできないけど、私が守ってあげるからね」
無二の友人として。
さぁちゃんという可憐な花を守りたい。
高校三年生の一月、世間がセンター試験を控えるころ、私にとってもっとも大切な絆が見えたように思えた。




