名前を呼ばせて(貴斗)
「なぁ、沙希。」
「ん、なーに?」
「お前何か、綺麗になったんじゃね?」
「へ?!な、何言ってんの!!」
「やっぱ良い男が傍にいると変わるんだな。」
「もう、てっちゃん、黙ってー!!」
どうして俺は、自分の彼女と同僚の仲睦まじい姿をコーヒー片手に傍観してるんだ。
金城は真っ赤になりながらカタログを逆さに開いている。典型的な失敗。林田はそれを見ながらケラケラと笑っている。
たった3人のブース。他の3人は情報課に行っている。せめて後1人いてくれたらこの状況を何とかしてくれただろうが、生憎誰も帰って来ない。さっき出て行ったばかりだし。
金城と林田が仲が良いのは分かっている。同期で同い年で、社内でもチーム内でも一番付き合いの長い2人。1つ先輩の2人に俺の知らない1年があるのだって重々承知している。
林田が友人として綺麗になったと告げているのも分かる。林田には千果さんという好きな人がいる訳だし。良い男というのも、自意識過剰でなければ俺の事を言ってくれているんだろうと思う。金城が赤くなっているのが俺の事でだと思うと嬉しい。
が、しかし。どうしても解せない事が1つ。
いや、仕方のない事だと片付けるべきだし、俺がさっさと言えば良い事だとは思うが。
俺、まだ下の名前で呼んだ事も呼ばれた事もないんだけど。
その夜。
「……それでですねー。この間、」
大体において俺は聞き役で、金城は話し役だ。今だって食事をしながら社内の友人の面白話を聞かされている。
これじゃ傍から見れば上司と部下みたいな感じなんじゃないか?俺の方が後輩だけど。
本当はもっと対等に話したい。金城自身の話を聞きたいし、金城と林田がそうする様に気兼ねなくもっとフランクに話してほしい。
俺と同期の菅野には2人とも普通なのに、どうして俺は敬語を使われているんだ?
……何か距離を感じるな。
下の名前も、別に呼べない訳じゃない。「金城」より「沙希」の方が短くて言いやすいし。下の名前で呼ぶのに抵抗を感じた事もない。
だけど、急に呼んで引かれたりしないかとか、そういう事を柄にもなく考えたりする。
金城が今の状態を良いと思っていたら、変化を求める事は無粋な気もしてなかなか踏み出せずにいる。
でも、そろそろ。
「その時、てっちゃんが、」
「沙希。」
「……へ。」
「沙希の事を聞きたい。林田じゃなくて。」
それまで女性の話だったのが、いつの間にか林田の、というか男の話になってもう我慢の限界。そんな楽しそうに「てっちゃん」って呼ぶなよ。
目の前にいる恋人は「貴斗」なんだけど。
「あ、わ、え、え?」
意味不明な文字を幾つか呟いて固まった金城、いや沙希をどうしようかと考える。落ち着かせて沙希と呼ぶ事を当たり前にしたい。あわよくば俺の事も下の名前で呼ばせたい。それはまぁ、急がないけど。
こういう大事な時に、普段あまり喋らないツケが回ってくる。
「林田ばっか、ずるい。」
ださい一言が溢れた。気付いた時にはもう手遅れで、思いの外しっかりと不満げな声が俺の耳にも戻ってきた。
もういい。どうにでもなれ。
「俺も沙希って呼ぶから。常に。」
「つ、常に?!会社でも、ですか?」
固まっていた沙希は、常にという言葉に反応する。何だよ。
「呼ばれて困るのか、沙希は。」
名前を強調して呼んでやる。もうちょっと赤くなるとかそういう変化が欲しかった。呼ばれ慣れてるから平気なのか?
それって何か、めちゃくちゃ悔しい。
「いや!あの、困ると言うか、その、何て言ったら。
あ、だって周りの人に恋人だってバレちゃいます!!」
良い言い訳を見つけたとでも言う様に、つるりとした顔で俺を見上げる。自分の言っている事の意味、ちゃんと分かってるのか?
好きだからって全部が許せる訳じゃない。これは、駄目だろう。
「……俺達はバレちゃいけないような関係なのか?
金城にとって俺は、恋人とは言いたくない存在なのか?」
「え、そんな、そんなつもりじゃ、」
「俺はそんなに認められてないのか?」
「……ッ!!」
言葉で追い込みながら、頭の片隅ではその女々しさに呆れていた。そういう意味じゃないだろう事くらい、一緒にいて分かっている。なのに留める事が出来なかった。
そもそも初めて名前を呼ばれて、会社でも呼ぶから、なんて唐突すぎて否定したくなる気持ちも分かる。
嫉妬とか羨ましさとかそういうものに気を取られすぎて、冷静さなんて欠片もないな。
「そんな訳ないじゃないですか。」
寂しそうな声に、心臓を掴まれた様に苦しくなる。
「だって私の恋人は、竜胆さんなんです。皆の憧れの。
でも私はずっと、キューピッドだったんです。皆の。」
そのどこに俺と彼女の差があるのか、俺には分からなかった。
「沢山の人が、竜胆さんを好きで。何度も頼まれました。
だけど私だって好きで。諦められなくて。知った様な振り
して全部断ってきたんですよ。嫌な奴なんです。」
俺だって同じ立場なら、誰も引き合わせてなんかやらない。他の誰かの付け入る隙なんか、みすみす渡してやる訳がない。
「なのに、私が竜胆さんと付き合っているって知ったら、
きっと嫌な思いする人が沢山いるから。だから。
……言っている事、伝わってます?」
不安げな瞳は波の様に揺れて、分かってほしいと伝えてくる。言いたい事は何となく分かったが。
「金城は、どうなんだ。」
「はい?」
「金城は俺が呼ぶの、嫌か?」
ふるふると勢いよく首を横に振る。そんなにしたら首取れるぞ。
「じゃ、良いだろう?」
「……竜胆さん、私の話聞いてました?」
「あぁ、聞いてたけど。」
なら何でそうなるかな、とぼそりと呟くのが聞こえて、そっちだって分かってないって言いたくなる。
「俺は、沙希が好きなんだ。俺の事を好きだと言ってくれる
人がどれだけいても、沙希だけが好きなんだ。
他の人の幸せは、いつかきっとそれぞれにやってくる。
だけどそれは俺とじゃない。それは絶対に変わらない。
だから無慈悲だって言われても、俺はたった1人、沙希の
幸せだけを考える。それは間違ってるか?」
恋愛の正解も人生の正解も、分かる程俺は何も経験していない。だけど目の前にいる恋人を幸せにしたいと思うのは、至極真っ当だと思っている。
「沙希が皆のために動く優しい人だって分かってる。
だけど人の幸せのために行動する人は、その人自身は
幸せになっちゃいけないなんて、おかしいだろう。
もし何かあったら、俺が絶対助けるから。」
もっともらしい言葉の裏には、誰かが「沙希」と呼ぶ度に嫉妬したくない気持ちやもっと近付きたい気持ちがある。だけどその前には2人で幸せでいたい想いがあるから許してほしい。
「う、うぅ、はい!!」
口をぐっと引き上げて涙を堪える姿は本当に幼い子供の様。可愛いが抱き締めたくなる衝動をどうしたらいい?
「沙希、って呼んでください。
本当はすごく、すごく嬉しかったんです!」
そう言う表情が本当に嬉しそうに見えたから無意識に沙希、と呼んでいた。
「沙希。」
「わー。竜胆さんが沙希の事名前呼びしてる、やらしー!」
林田が茶化してくる。仕事仲間としては良い奴だが、こういう時鬱陶しいと思ってしまう俺は器が小さいのだろうか。
「中学生みたいな反応するな。第一お前も呼んでるだろ。」
「あ、ヤキモチっスか?くー、イケメンはヤキモチでさえも
清々しくて格好良いぜ。」
「何、馬鹿な事言ってんだ。仕事しろ。」
立花さんにファイルの角で頭を叩かれてへなへなとしゃがみこんだ林田は無視して、もう一度ちゃんと話し掛ける。
「沙希。」
「あ、はい。」
「大丈夫だっただろう?」
「ん?あぁ、はい。お幸せにって言われちゃいました。」
恥ずかしそうに団子を触る。数人には自分から付き合っている事を話すと言っていた。少し不安そうだったのを大丈夫だと送り出したが、予想通り。沙希が皆を大事に思う様に、皆も沙希の事を大事に思っているんだから。
「これ以上幸せになれるなら、将来が怖いな。」
俺の呟きに、隣の彼女は真っ赤な顔して頷いた。
続けて貴斗の回。
彼は実は無口な訳じゃありません。
ただ「言わなくていいか。」と思う事が多いだけという裏設定。
沙希の前では結構饒舌です。