再び、ここから(湖陽)
「まぁ!よく来てくれたわ。さ、入って。」
美代子さんの変わらず快活な声が辺りに響く。私と彼は顔を見合わせて小さく笑って、その後に続いた。
「あんた!幸多くんと湖陽ちゃんが来てくれたよ!」
暖房の効いた店内では、高校生位の男の子とその両親らしきお客さんが商品を見て回っていた。美代子さんの突然の大声に3人して肩を跳ねさせている。
「あの、すみません。」
「はいはい。」
家族の父親が声を上げる。それに応えて美代子さんが接客に動く。出てくる誠さんを待ちながら小さく彼に話し掛ける。
「あの日以来ですよね?」
「あぁ、だから何か、ちょっと恥ずかしいな。」
口元を歪ませてマフラーを取る彼。涙したあの日を思い出せば、何度だってその隣にいたいと思わずにはいられない。外したマフラーを受け取ってバッグに仕舞うと、驚いた彼が微笑んでくれた。
「すっかり“恋人”だね。」
いつからいたのか、奥の部屋と繋がる通路から顔を出した誠さんがそんな風に言う。言葉は茶化す様に、表情は嬉しそうに。
気恥ずかしさに姿勢を正す私とは対照的に、平然とありがとうと返す彼は本当に強者だと思う。泣いた事に対する恥じらいはあるのに、どうしてそういうのは平気なんだろう。
「おや、少しくらい恥ずかしがってくれたらいいのに。
ほら彼女みたいに。」
わざわざ言わないで下さい。隣にいるから気付かれないと思ったのに。首を傾げて私の顔を確認する彼をそっと見返すと、私のそれが移ったのか耳を赤くする。
「君達は、面白いね。」
静かにそう言って、誠さんは目を細めた。
目を覚まさせる様に、彼が自分の頬を軽く叩く。
「えっと、時計、ありがとう。」
「私は仕事をしただけだよ。最高のデザインをそのまま
形にしただけだ。」
「でも代金も半分にしてもらったって。」
「湖陽さんのデザインはかなり材料費が安くついてね。
何とも節約家な人だよ。」
そんな訳ないのに誤魔化そうとする誠さんから優しさが滲み出る。感謝されたいんじゃなくて、恩を感じさせたいのでもなくて、ただ心からの気持ちで背中を押す様に。
「強情だなぁ。」
呆れた様に苦笑いを浮かべて誠さんを見るその目は、言葉とは裏腹に感謝の色で満ち満ちていた。
「職人は強情でないとこだわりを持った仕事はできない。
さ、入りなさい。」
本当にこだわりを持った職人にしか言えない言葉ではぐらかされるから、それ以上私達は何も言えない。結局言い負かされた事に肩を竦めると、奥の部屋に足を進めた。
通路の向こうには志方家の居住スペースが広がる。アンティーク調の雑貨を扱う店の方とは対照的に畳敷きの和室だけど、使われている証明や家具のお陰か、妙にマッチしているのが不思議。
彼の時計を受け取りに来た時に入らせてもらったから、今日で2度目だ。今日は何だか木の香りがする。
ふと見ると部屋の隅、誠さんの仕事用の座卓の上には数本の彫刻刀と削り出された木屑が散らばっている。さっきまで何か作業をしていたのかもしれない。
「そっちに掛けなさい。お茶を出す。」
「別にいいよ、気にしないで。」
誠さんは奥のキッチンに立つ。その後ろ姿を見ながら、彼が小さな声で私に話し始めた。
「社長はさ、職人気質な誠さんの事昔は嫌いだったって。」
「そうなんですか?」
「「兄貴達は親父を尊敬してたけど、儂は仕事中心な親父に
いつも蔑ろにされている気がしてた」って言ってた。」
構って欲しいと思う時、ずっと机に向かう父親を無条件に尊敬する事は難しいかもしれない。男の子なら尚更、母親ではなく父親に傍にいてほしい時があっただろう。
向こうでやかんが小さく鳴ったのが聞こえた。
「俺は父親がいなかったからその気持ちは分からないけど、
反対にそう思わずにいられたのは、それだけ母さんが
頑張ってくれたからだろうなって思ったんだ。
まぁ、社長と俺とじゃ環境が全然違うんだけどさ。」
近くにいるのに背中を見つめるしかできないのと、父親というものを知らないままでいるのとは確かに違うだろう。近くにいる方がもどかしさが強いと思う。
私はこの人がどういう過去を辿ってきたのかを知っているつもりでいる。その口から聞いて出来事を知ってはいるけれど、その時の彼の気持ちを分かってあげる事はできないんだと思うと、少し寂しい。
「社長が、今は人生の先輩として本当に尊敬しているって
言った時、そういう関係っていいなって思ったよ。
実の父親を尊敬できるって素敵な事だと思う。
あ、でも母さんに怒られそうだな。」
そう言って笑う横顔を私は静かに見つめていた。
「……ここに来るとやっぱり色々考えちゃうな。」
見えない涙を吸わせる様に目頭を抑えるのを見て考える。あの時、泣く彼の背中に触れた時に願った様に、私は今彼の隣にいる。それ以上に私には何ができるのだろう。心に空いた隙間を私が埋められるのだろうか。
静かに誠さんが戻ってくる。お盆に載せた湯呑をそれぞれの前に置くと小さく息をつく。
「……さっき店で君等が並んで話しているのを見た時、
あの2人が来た時の事を思い出したよ。」
あの2人とは、きっと彼のご両親の事だろう。
「初めて来た時、お腹の大きな妊婦と過保護なくらいに
心配する旦那とで、自然と目が止まった。
妊婦本人の方がしっかりしていて、落ち着けと諭されて
小さくなる旦那の組み合わせが面白かった。」
懐かしむ声が湯呑に消えていく。お茶を一口啜った後、誠さんは先を続けた。
「それから何度もここへ来て、気付けば3人になって。
この子は沢山の幸せが注ぐ様に“幸多”にしたんだと、
教えてくれた2人は誰よりも輝いて見えた。」
そう言って立ち上がると。戸棚から何かを取って戻ってくる。テーブルに置かれたのは、大きさの違う輪が2つ。アンティーク調の指輪の様に見える。
「あの2人に頼まれていた指輪だ。結婚指輪じゃない、
ペアの指輪が欲しいと言われて作っていた。」
それがここにあるのは、渡せなかったという事を意味していた。
「女性というのは気丈だ。指輪はいつか幸多が大切な人を
見つけた時プレゼントしてやってほしいと頼まれた。
だからここで、ずっと保管していた。
渡すなら今しかないだろう。……2人からの贈り物だ。」
少し震える手が伸びる。彼がそっと指輪を手にする。祈る様に閉じた瞼から一筋涙が落ちる。
時を越えて、こうして親子が繋がるのを目の当たりにして、空いた隙間を埋められるのは他でもないご両親自身なのだと気が付く。
だからこそ。だからこそ私は、全てを丸ごと愛したいのだと改めて思った。
ご両親が沢山の幸せが振り注ぐよう願った様に、私が彼に幸せを贈りたいのだと切々と思った。
彼の手がこちらに向かって差し出される。細かくも華美でない装飾の施された指輪がその掌に載っている。
「受け取ってほしい。」
「……良いんですか?私が貰って。」
大切な指輪を受け取る事、そこに込められた想いに胸が詰まる。顔を見る事もできずに、ただその掌を見つめた。上手く声が出なかった。
「君以上に大切な人なんてどこにもいないから。
君が貰ってくれなきゃ、困る。」
その言葉にどうしようもなく涙が溢れた。彼が泣く時は泣かないでいようと思っていたのに、そんな事を言われたら泣かないではいられなくて。
彼のご両親が短くとも生涯想い合った様に、彼にとっての私もそんな存在であればと心の底から願う。ここにいていいのだともう一度認めてもらえた気がして、私はその掌ごと両手で指輪を受け取った。私の手から余る彼の手を、何度も力を込めて握った。
「……すみません。」
指輪を握った手で目元を拭うと、誰にともなく謝罪する。人前でこんなに泣いたのは数少ない。
「誰かの事を想って泣ける人は美しい。」
誠さんの言葉に益々申し訳なくなる。俯く私の目の端を彼が親指で拭ってくれる。見上げた瞳が優しすぎていたたまれない。
「幸せそうで何よりだな。」
「菅野がいてくれるから。」
ストレートな物言いに誠さんも困った様な顔で笑う。未だ私の頬を撫でている彼の表情は一向に変わらない。いつになったらこんな彼に慣れるだろう。いつまで経っても慣れない気がして、少しだけ心配になった。
「あらら、仲睦まじい事ね。」
後ろから美代子さんの声がする。その声に振り返るために下ろされた手を目で追ってしまう私も、相当感化されているみたい。
「お客さんはいいの?」
「今丁度帰られたとこなのよ。……しかしあれね。
幸多くん、湖陽ちゃんを見る目がお父さんそっくり!」
「そう?」
「愛しいってのがよく分かるわ。幸せ者ね!!」
そう言って私の背中を軽く叩く。何と答えていいか分からず、とりあえずお礼を返す。
「羨ましいわぁ。あ、でもこの人もね、昔は結構キザな所も
あったのよ?こんな大きな花束抱えて来たりしてね、」
「おい。余計な事を話すな。」
美代子さんが身振りを交えて話してくれるのを誠さんが険しい顔で止める。
何事にも動じなさそうな誠さんが少し慌てる様にお盆を持って立ち上がるのを、3人で笑って見送った。
「あれで結構照れ屋なのよ。」
と楽しそうに美代子さんが言う。キッチンで何かが落ちる音がして、美代子さんが立ち上がった。からかう美代子さんと不機嫌そうに口篭る誠さんの様子が、ここからちらりと見える。
幾つになってもあんな風に互いを想い慈しむ2人でいたいと、笑う彼の横顔を見上げて思った。
食事をして帰ろうと、以前に来た海辺のレストランに入った。あれからもう1年が経とうとしている。
暮れ始めた空の色が海に映る。あの日の帰り道に見た景色より濃く深く色付いて見えた。
「あれからもうすぐ1年か。」
「私も同じ事考えてました。」
「そっか。」
後ろ頭を掻く姿に照れているのだと分かった。彼は不思議なところで照れるな、といつもながらに考えた。
姿勢を正した彼が少し俯き、様子を伺う様に上目遣いで私を見る。
「……こうやってまたここに2人で来られるって、あの時、
少しも思ってなかった。勿論強く願ってはいたけど。
君の優しさに付け込んでる様な気も、したりして。」
「付け込む?」
「いや、そんなつもりはなかったけど!
あんな話をされて気にしないのは難しいと思うし。
心のどこかで同情作戦でもしようとしてたんじゃないか
って後から自分で考えたりしたんだよ。」
そんなつもりはなかったと言っているのに申し訳なさそうに眉を下げるのが可笑しい。真っ直ぐな人だから同情させて心を掴もうなんて、そんな事できる人じゃないって分かっているのに。
どこまでも素直な人だと、笑ってしまう。
「……笑うなよ。」
少し口を尖らせる子供の様な彼に、だって、と返す。
「だって、きっとあの話をされなくても、私は貴方を好きに
なったから。」
「え?」
「あの時にはきっともう始まってた。
あの日、貴方の隣にいたいと強く願った私の気持ちは、
一時の感情に流されたものじゃなくて、心の底から素直に
溢れ出たものだから。
もうここに沢山詰まっていた筈です。」
胸元に運んだ指に、ネックレスのチェーンに通した指輪が触れた。握ってその感触を確かめる。
例え同情を誘う様な話をされたとしても、そこに想いがなければ。彼じゃなければ、ここにいる事を望んだりはしなかった。今ならそれが簡単に分かる。
「私は、貴方が好きなんです。」
彼が私を純粋に想ってくれたみたいに、私の想いもそういうものなんだと。彼が不安に思うのなら何度だって伝えよう。彼が何度もそうしてくれた様に。
「……適わないな、本当に。」
私がこんなに貴方を好きなのは、貴方がありったけの想いをくれたから。
再び、ここから。私達は未来へと歩き出す。
やっと幸多×湖陽のメインカップルのお話が始まりました。
どうか長い目で、長ーい目で見てやって下さい。彼等も、私も笑




