あなたに愛してほしかった
ただ、愛されたかった少女の話
もしも間違えなければ、あの人は私を好きなってくれたかしら。
誰もいない、冷たく暗い部屋の中で。
眠りに落ちる間、聴こえた言葉に反応したのが、全ての始まり。
――知りたい?
乾いた喉を震わせたあとはもう、瞬きをする気力も残っていなかった。
遠くなってゆく意識に、このまま二度と目覚めなければいいと願うのは、いつものこと。
――間違えなければ、どうなったていたか、知りたい?
いつもと違ったのは、唐突に頭の中に響いた声。
ひどく楽しげなそれは、全く聞き覚えのないものだったのにも関わらず、外ではなく私の内側から発していた。
とうとう幻聴まで聴こえるようになってしまったと、嘆く場面だったのかもしれないけれど、これっぽっちも焦る気になれない。それどころか、どうせ幻聴なら、あの人の声が聴きたかった、とぼんやり霞がかった頭で考えれば、声はくすくすと面白がるように笑ってから、もう一度尋ねてくる。
――もしも、時間が巻き戻ったとして。間違わず正しい道を選んでいたら、どうなっていたか知りたくはない?
幻聴のくせに、いいえ、幻聴だからこそ、狙いすましたように放たれた言葉を、夢の縁に腰掛けて受け止めた私は、自虐的な笑みを浮かべた。
もしも時間が巻き戻ったら。
もしもあの時別の選択をしていたら。
もしも、もしも、もしかしたら。
そんなの、幻聴に指摘されずとも、何度も何度も、何度も何度も何度も何度も、繰り返し繰り返し考えた。考えたところでどうにもならないって分かってても、考えずにはいられなかった。もしもの未来に夢を見て、希望に満ちた夢の中で永遠に生きていたいと、どれほど願ったことか。
いくら願ったところで夢を見続けてはいられないと、知っていても。
叶わぬ夢見ることをやめられなかった。
なのに、頭の中で声は告げる。
まるで何でもないことのように、簡単に言ってのける。
――じゃあ、巻き戻してしまえばいい。
そんなことが出来る訳がないのに。
だから私はせせら笑って、嘲るように胸の中で呟いた。
――出来るものならね。
そうして声に背を向け、夢の底に飛び込んだ。一度も振り返ることはなく。
眠りに落ちる瞬間、確かに私は一八才だった。
卒業式を翌日に控えた、高等部の三年生だった。
けれど、目が覚めた時。
私の体は小さく縮んで、幼い頃の姿そのままになっていた。
まるで本当に、時間が巻き戻ったかのように。
それが、悪夢の始まり。
私とあの人が出会ったのは、五歳の誕生日。
始まりはいつも、その日から。
一番、最初。
私の誕生日とは名ばかりの、大人たちのために開かれたパーティーで。
私とあの人は大人たちの手によって引き合わされる、許婚だと紹介される。
あの人はずっと拗ねた顔をしていて、肩に置かれた大人の手が離れると、一目散に部屋の隅にかけていってしまった。
私とあの人が許婚と決められたのは、家の釣り合いが取れていたからと、私たちの一族が経営する会社にそれぞれ、益をもたらすため。
清清しいほどに、分かりやすい政略結婚への道筋。
けれど私には、何の不満も無かった。
それは物心ついた時には既に、家の役に立つようにと周りから言い含められ、駒の一つとして育てられたせいでは、けしてない。
理由は単純かつ明快。
一目会った瞬間から、私はあの人に恋をしてしまったから。
幼さゆえの思い込みだと、哂われたってかまわない。外面だけに騙される愚かしさを軽蔑されたって、少しも気持ちは揺るいだことはない。
あの日から、私の世界の全ては。
あの人一色で染め上げられた。
あの人の傍にいたくって、あの人に可愛いっていってもらいたくって、あの人に褒めてもらいたくって。
勉強もお稽古も頑張って、幼いうちから美容に目覚めて、十にならないうちから母についてエステに通った。
一つ出来ることが増えるたび、父や母にねだってはあの人に会いに連れて行ってもらった。
あの人は私が訪ねてもけっして歓迎はしてくれなくて、いつも面倒くさそうにしていたけれど、それでも構わなかった。
もっと出来ることが増えれば、もっと大きくなって綺麗になれば。
あの人はきっと私を見てくれるに違いないって、信じていたから。
初等部からは父に頼み込んで、あの人と同じ学校に通えるようにしてもらった。休み時間の度に会いに行って、あの人に群がる女子達を威嚇して、隠すことなく積極的に許婚であることを触れ回った。
あの人はずっと冷たいままだったけれど、誰に対しても同じような態度だったから、特に気にもしていなかった。
中等部になると、あの人は男友達と一緒に居る事が多くなって、一層私を邪険にし始めたけれど、そういう年頃なのだと受け入れた。さすがにあまりに家の格が釣り合わない相手は、内々に遠ざけさせてもらったけれど、それなりであれば問題はない。将来に向けて人脈を蓄えることは、きっとあの人の力になると思ったから。
まだ、本当に結ばれてはいないけれど。
あの人は依然、私に心を向けてはいないけれど。
邪魔な虫をひとつ取り除くたび、あの人の妻として働いている気がして、幸福感に酔いしれた。
あの人は私に何一つ言ってはこなかったから、私のする事は全て、受け入れられているものと思っていた。
変わってしまったのは、高等部に上がってから。
あの子が、外部から入学してきてから。
男友達は作っても、私を含め女子にはけっして笑いかけようとはせず、自分から話しかけることもなかったあの人が、あの子には自分から会いに行って、あの子の言葉で楽しそうに声を上げて笑う。
初めて見たときは、信じられなかった。信じたくなかった。
けっして、女子は近づけないように立ち回っていた筈なのに。いつの間にか距離を詰めていたあの人とあの子の姿に、驚いて焦って慄いて、慌てて排除すべく動き出した私の手を防いだのは、他ならぬあの人だった。
私があの子を追い払おうとするたび、まるで宝物を守るようにあの子を抱きしめて、冷えた視線で私を見つめる。今まで一度だってそんな姿を見せたことはなかったのに、あの子が関すればたちまち、あの人は初めての姿を惜し気もなく曝け出す。
男友達を作りはしても、けっして頼ることをしなかったあの人が、あの子のためなら簡単に友人と呼ぶ存在に協力を仰いだ。頭を下げることすら厭わなかった。
次第にあの子の味方が増えてゆき、私の周りから人がいなくなる。名前も知らない有象無象がおこがましくも私の目を塞ぐ間に、あの人とあの子は逢瀬を重ね、繋がりを太くしてゆく。
許せなかった、悔しかった、信じたくなかった。
あの子を滅茶苦茶にして、踏み潰してやりたかった。
けれど最後にあの人と結ばれるのは私だと、思っていたから踏みとどまれた。
私達の間にある、許婚という関係は私達のものだけじゃない。私とあの人、それぞれの一族係累、会社の人間全てに関わるものだから、簡単に解消なんてできやしない。
だから、今のうち、高校の間だけ。あの人が溺れているのは、卒業すれば醒めてしまう一時の夢。
何度も自分に言い聞かせて、あと少しあと少しと、終わりの日を指折り数えて待ち焦がれた。
その望みすらも、あっさりと打ち破られてしまったけれど。
卒業式の、二週間前。
初めてのあの人からの呼び出しに、ようやく目が覚めてくれたと喜んで駆けつけた先には、あの人と、あの子と、あの人の友人が数人、待ち構えていて。
冷えた目で淡々と告げられたのは、私と関係の解消をすること。許婚でなくなるということ。
そんなの許されないと反論する前に、突きつけられたのは彼の家と私の家の意向が綴られた手紙。私達の関係を解消する代わりに、彼と私の家が新しく結んだ契約と、私を分家筋に養子に出すことが、既に決定付けられたもの。私の知らないところで、決まってしまった約束。
私の高慢な態度が、ずっと嫌だったと、あの人は言った。家柄を鼻にかけて、多くの生徒をあの人の周りから排除する姿が、おぞましくて大嫌いだったと、あの人は言った。
だって何も言わなかったからと、告げればあの人は、言っても私は聞き入れなかっただろうと冷たく突き放し、私に気づかれないように私が排除した生徒を掬い上げていたことを告白する。彼の傍にいる友人の一人は、一度私が排除した人間なのだと言って、私が全く気づいていなかったことを糾弾し、所詮家の名前しか見ていないだろうと軽蔑の眼差しを向ける。
そして崩れ落ちる私を、一度も振り返らないまま。
あの人はあの子の肩を抱き、行ってしまった。
何度も何度もその背中に向けて、名前を呼んだけれど。
あの人は、歩調を緩めることすら、してはくれないまま。
二度目の私は、一度目と同じように、再びあの人と出会った。
私の五歳の誕生日を祝うパーティーで、許婚だと互いを紹介されて。
未だこれが夢か現実かの判断がついておらず、ぼうっと周りに流されるままだったけれど。
記憶の中そのままの、幼いあの人の拗ねた顔を見て、私は決意する。
これが夢でも構わない。
今度こそ、あの人に愛してもらうのだと。
幼い私に出来ることは少なかったけれど、会いに行くのは控えるようにして一層勉強と稽古事に励むようにした。
初等部に上がっても、直接話をしにゆくのは多くても週に一度まで。
あの人に群がる女を今すぐに引き剥がしたくても、我慢する。
あの人がおぞましいといった私には、けっしてならないように、細心の注意を払う。
気安くあの人に触れる誰かの腕を、何度引き裂いてやりたいと思ったか分からない。
けれどそれをけして、表に出すことはしなかった。
なぜなら、素っ気無さは変わらなかったけれど、それでも一度目の時より、あの人の態度は柔らかくなった気がしたから。他の女は冷たくあしらっても、私とは会話してくれることが多かったから。
このままゆけばきっと、あの人は私を好きになってくれるはず。
いいえ、もう既に、少しは好きになってくれているはずだと、中等部を終える頃には確定事項として捉えていたせいで、油断していた。
高等部に上がればまた、あの人はあの子といつの間にか親しくなっていて、歯を食いしばってあの子に手を出すのを堪え、二人を見つめていたら。
一度目と同じように、関係の解消を言い出される。一度目より余程早い、二年の終わりに差し掛かる頃に。
一度目とは違って私を悪し様に言うことはなく、あの人はひどく真摯に頭を下げて謝罪してくれたけれど、結果は変わらない。
あの人は私を愛してはくれなかった。
あの子見つめるような瞳で、私を見てくれたことは一度たりとも無かった。
――あーあ、残念。失敗しちゃったね。もう一回、やる?
その日の夜。
一度目と同じように、眠りの縁、頭の中に響いた声に、私は今度こそはっきりと頷いて、目を瞑った。
三度目も、二度目と基本的には同じ。
違うのは、積極的に友と呼べる存在づくりに精を出したこと。
一度目のあの人の姿を参考にしたのだ。私という脅威に、友人と協力して立ち向かったあの人の姿を。
一度目も二度目も、あの人しか見えていなかったから、友と呼べるような存在は私にはいなかった。三度目でようやく作ってはみたけれど、あの人以上に優先するものとは思えない。あの人以外は、大切だとは思えない。
けれど、便利な存在だとは思った。私が頬を染めてあの人への想いを打ち明けると、積極的に立ち回って、あの人と二人きりになれるよう取り計らってくれる。あの人の友人に協力を取り付けて、私への態度を諌めてくれる。歩み寄るようにと、諭してくれる。
おかげで一度目より二度目より、私達の関係は良好なものに育ちつつあった。
それなのに。
あの人が、あの子に出会ってしまえば、歯車が狂う。
いくら私とあの人の仲が良くなっても、あの子が現れてしまえば簡単に負けてしまう。
どれほど周りがあの人を引きとめようと、私という許婚がいるのにと非難の視線を投げつけようと。
あの人はあの子の手を離さない。
あの子に愛を囁いて、あの子を愛おしそうに見つめて、あの子を優しく抱き寄せる。
私なんて、全く見えていないかのように。
だから四度目は、あの人とあの子を遠ざけることにした。
あの人との関係は良好に保ったまま、あの人とあの子がけして会わないように、友人にも協力を仰いで立ち回る。
夏までは、うまくいっていた。何度か失敗して、あの人とあの子が廊下ですれ違うことはあったけれど、私が恐れていたように、会った瞬間恋に落ちるなんてことは無かった。
なのに、夏期休暇が終わってみれば、同じことの繰り返し。
私の知らない所で、出会って、仲を深めて、親しくなったらしい二人は、そのまま二度と離れてはくれない。
五度目は、あの子に別の生徒を近づけた。
何度か繰り返すうち、あの人以外にもあの子に視線を注ぐ生徒が幾人かいる事に気づいたから。
選んだのは、あの人の男友達の一人。もしもあの子があの人以外を選んでしまえば、しかもそれがあの人の友人だったら、きっとあの人はあの子を諦めてくれると、思ったから。
思惑は、怖いくらいにうまく行った。
あの人より先に出会ったあの子とあの人の友人は、ゆっくりと仲を深めていって、やがてお付き合いを始めたと噂で囁かれるようになる。あの人が過剰に、あの子に近づくこともない。
これで、これでようやく。
仲良く寄り添うあの子とあの人ではない誰かの姿に、私は歓喜に打ち震えた。
これでもう、あの人と私を引き裂くものはない。あとはこの良好な関係を、より良いものに導いてゆくだけ。
それだけ、だったはずなのに。
伏兵は、思わぬところから現れた。
何の前触れもなく、突然あの人が紹介したのは、あの子ではない別の存在。あの子ではないのに、愛しいと全身で叫んでいるかのように、大切に触れる、私の知らない女。
あとは、あの子の時と同じ。
それを愛しているからと、私とは結婚出来ないと頭を下げて、私達の関係を終わらせる。
キャストが少し違うだけで、あとは何もかも、変わってはくれない。
六度目、七度目、八度目、九度目、十度目。
あの子にも、現れた伏兵にも別の男を宛がった。
それでもあの人は、知らない女を連れてくる。知らない女を、愛してると言う。
けっして私を、愛してはくれない。
十一度目。
潰しても潰しても湧いてくる伏兵に辟易した私は、やり方を変えることにした。
何もしなければ、あなたが必ず好きになってしまう、あの子のように。
明るくて優しくて人に好かれて、正義感が強くて少し向こう見ずで危なっかしい、そんな人間に。
私自身を変えてしまうことにした。
下品な物言いを覚えて、突拍子もない行動を取るように心がけて。
親族には嫌な顔をされたけれど、全く気にはならなかった。大事なのは、あの人の反応だけ。
それでもあの人は、あの子を選ぶ。
私を、愛してはくれない。
十二、十三、十四、十五。
一度ではあの子のようになりきれなかったせいだと、諦めずに自分を変え続けた。
指先の動きひとつ、あの子を再現できるように。
あの子の癖まで、私のものに出来るように。
夜、自室の鏡の前で練習に励む私は、姿形は私のままだったけれど、振舞いはまるであの子のまま。
けれどあの人は。
まだ私を、愛してはくれない。
四十八、四十九、五十。
あの子だけでなく、伏兵達にもなりきったけれど、あの人は愛してくれなかった。
あの子たちの美点だけを摘みあげてつぎはぎしてみても、だめだった。
あの人は、私を、愛してくれない。
――まだ、続けるの?
毎回毎回、巻き戻る直前、飽きもせず確認をしてくる声は。
五十を境に、聞こえなくなった。
六十、六十一、六十二。
押してだめなら引いてみるとの格言に従ったこともあるけれど、これも上手くはいかなかった。
追ってきてくれるどころか、許婚という繋がりがあるだけの、赤の他人に成り下がってしまう。
途中までは親しい間柄でいて、急に背を向けてもだめ。あの人は私を、引き止めてくれない。親切な無関心で、綺麗に突き放してしまう。
けして私を、愛してはくれない。
百、百一、百二。
あの子が入学してこないように手を回したこともあった。伏兵たちとの出会いのパターンもある程度掴めたから、けして出会わないように、四六時中監視して妨害して回ったこともあった。
それでもあの人は、誰かを見つけてしまう。
私以外の誰かを、選んでしまう。
あの人は、あの人は、私を愛してはくれない。
百五十、二百、三百。
組み合わせを変えて、パターンを変えて、最良の選択を試行錯誤して。
駄目だったものから、良かった部分だけを抜き出して使い回した。
既に知っている他人の秘密も、世界に流れる金の動きも、最大限利用することに何の躊躇いもなかった。
幾つもの会社を潰して、何万人も路頭に迷わせても、それで誰かが死んだとしたって、全く心は痛まない。
ただ、ただ。
あの人に、あの人に、愛してほしい。
四百、五百、六百。
あの人を孤立させて、物理的に閉じ込めて、けして女と会わせないようにした時もあった。なのにあの人は、私がいるにも関わらず、食事を運んでいた使用人の男に、愛を囁いてしまう。
だから男も全て排除して、私が全て彼の身の回りのことをするようになれば、あの人はけして私を愛さないまま、自ら命を絶ってしまった。
あの人の亡骸を見たのは、何度も繰り返すうち、たった一度、その時だけ。
他の誰が消えても、苦しんでも、死んでしまっても心は動かない。
けれど、冷たくなったあの人に、もう一度対面する悪夢は、二度と見たくなかい。
はやく、はやく。
あの人に、愛されたい。
七百、八百、九百。
あまりにも違う人間を演じすぎて、もう一番最初の私が、何だったのかすら思い出せない。何が好きで、何が嫌いで、どんな言葉遣いで、どんなことで感情が揺れたのか、忘れてしまった。
飛び級で大学に進学したこともあった。アイドルになったこともあった。家出をしてバイトをしたこともあった。モデルになったことも、娼婦の真似事をしたことも、政治家とコネを作ったことも、ハッキングをしたことも、警察に捕まったことも、作家としてデビューしたことも。
繰り返すたび、出来ることが増えてゆく。知っている未来を活用して、選べる選択肢が増えてゆく。
けれど、どれだけ出来る事が増えたって。
どんなに遠回りに見えたって、それはあの人に愛されるための手段でしかないのに。
あの人に愛される未来だけは、まだ一度も勝ち取ることは出来ていない。
私はただ、あの人に愛されたいだけなのに。
千度目。
繰り返して繰り返して、辿りついた果て。
私個人が経営する会社を立ち上げて、積み重ねた経験を存分に活用して、駆け足気味に宇宙船の開発を進めてゆく。あの人が、興味があるといったから。いつか月に行ってみたいと言ったから。今までに何十回と繰り返したプロセスを最初から結論として利用して。
今度こそ間に合うかもしれない。そうしたら、あの人は、私を愛してくれるかもしれない。
思っていた私の前に、あの人が連れてきたのは。
あの子でも数多の伏兵とも違う、ひどく懐かしい雰囲気のする、一人の女。
高飛車に私を見下ろして、あの人に近づこうとする全てを威嚇して、べったりとあの人にくっついて離れないそれは、まるで、一番初めの。
ソレの、愚かしいところが愛しいのだと、あの人は照れたように言う。
どうしようもなく我侭で偏ってて、考えが足らなくって、人を人とも思っていなくって、傲慢なお嬢様。
だからこそ、愛しているのだと、あの人は言う。
私にはあの人はいらないと勝手に決め付けて、ソレを守りたいと、あの人は言う。
私にはけっして向けることの無かった、愛しげな視線を、ソレに向けて。
愛していると、あの人は言った。
私のことは、愛してはくれなかったのに。
ぱちり、と。
何かのピースの嵌る音がして。
私は、ようやく理解する。
あの人は、私を愛してはくれない。
導き出した結論に、何も考えたくないと思考が閉じる。
急速に、意識が遠のいてゆく。
ぼやける視界の中。
崩れ落ちた私に、慌てて駆け寄ろうとするあの人は、それでもソレの手を離そうとはしなかった。
「ようやく、届いたみたいだね」
気づけば、知らない場所にいた。
目の前には、知らない顔の、一人の男。
ただ、声には覚えがあった。
何度も私に囁きかけた声。
この悪夢の始まりとなった、幻聴と同じ声。
いつしか聴こえなくなったのと、そっくりなもの。
「悪魔、でいいのかしら」
「まあ、そんなもんだけど。残念だなあ、すっかりと可愛げがなくなってしまって。少しは動揺したらどう?」
「無駄だもの。それで用件は?」
詰るでもなく喚くでもなく、淡々と告げた私に、悪魔は拍子抜けしたように肩を竦め、お疲れ様と何の気持ちもこもってない労いの言葉をかけた後、はああ、と大げさなため息をついた。
「途中から、いくら呼びかけても届かなくなっちゃって。焦ったよ、君、なっかなか諦めないんだもん。せいぜい百回がいいところだと思ってたのに」
「それで?」
悪魔は拗ねたように唇を尖らせてじとりと睨み付けてきたけれど、応えることなく先を促す。
あの人と関係ない悪魔の都合に、付き合うつもりなんてない。
しばらく悪魔は物言いたげに私を見ていたけれど、やがて諦めたようにふっと息を吐くと、ぴん、と人差し指を立てて私に突きつけた。
「この世界にはね、定められた決まりごとがいくつかあるんだ」
始まった話は、既に結論の見えたものだった。
きっと、私が考えたものと、同じ。
「たとえば、太陽が東から昇るように、地球が丸いように、人が呼吸をするように」
けれど、遮ることはしない。
自分以外の口から、はっきりと告げられたかった。
「豪徳寺貴臣は、白鳥菖蒲を、けして愛さない」
ほうら、やっぱり。
私は、笑う。
面白くもなんともないけれど。
ただ。
絶望して、絶望して、絶望して。
うまく悲しむことが出来なかっただけ。
私とは対照的に、それがこの世界の、ルールなんだと、告げた悪魔はひどく悲しそうだった。
「……それは、決して変えられない、決まりごと?」
「うん。だってもし、地球の自転を止めちゃったら、人間は滅びちゃうでしょ。それとおんなじ。宇宙からみたら許容範囲だけど、君達の世界は間違いなく、粉々に壊れてしまう。もしも壊れなくても、大きくねじれてしまう。彼という存在はなくなって、違うものに変質する」
「なら、仕方ないわね」
あの人以外、全て壊れてしまっても問題はないけれど、あの人があの人でいられなくのは嫌だ。
何度やり直したって、誰を好きになったって、いつもあの人はあの人のままだったから、私は何度でもあの人に恋をした。
あの人が私を愛してくれないことが、定められた世界だとしても。
あの人が、壊れてしまうなら。あの人が、あの人でなくなってしまうなら。あの人が消えてしまうなら。冷たくなったあの人を、もう一度見ることになるくらいなら。
私が、居なくなってしまったほうが、いい。
「……夢を見るのは、もう終わり。対価は、魂でいいかしら?」
「うーん、実はね、対価はとっくに貰い終えてるんだ。君の数多の絶望は、千度の繰り返しに必要な量を差し引いても尚、有り余るほどに大きくて、濃い。それで魂まで貰っちゃうと、貰いすぎになっちゃう」
「私は気にしない」
「ボクは、気にする」
「悪魔のくせに」
「悪魔だから、契約から大きく逸脱した対価は貰えないんだ」
「その契約の裏を掻くのが悪魔なんじゃないの?」
「そうやつもいるけど、さ。ボクは比較的、良心的な悪魔だから」
そうと決まればもう、私が存在している理由も無くなったに等しいのに、悪魔はなかなか、私を終わらせようとはしてくれなかった。私が黙り込んでも、ぶつぶつと何かを話し続けたまま。
「早くしてくれない」
「……分かったよ」
うんざりして話を遮り、急かすと悪魔はようやくよく動く口を止め、ゆっくりと私に近づいてくる。
距離が縮まるにつれ、思考が霞がかってゆき、とうとうこれで、死ぬのだなとぼんやりと思う。
彼に、愛されたかった。
それはついに、叶わなかったけれど。
一番最初、眠る前。
二度と目覚めなければいいのに、と。
願ったことは、ようやく叶いそうだと、思ったと同時に、意識は闇に落ちた。
――おやすみ。次の世界ではきっと、幸せになれますように。
悪魔が呟いた、悪魔らしからぬ言葉には、気づくことのないまま。
或いは。
物語において、決してヒーローとは結ばれることが無いと決まっていた、当て馬の話。