エピローグ はじめてのだんどり
「はい、ダーリン。口を開けて♪」
「ん……もぐもぐ」
あの事故から半月程が経った。久遠も順調に回復して背中の痛みは引いてきているが、両腕はまだ使えない。その為、食事は璃梨に食べさせて貰っているのだ。今は夜の十八時過ぎ、夕食の時間だ。
「やっぱり病院食は味気ないな……」
「これはちゃんと栄養バランスが計算されたメニューですから、食べなきゃいけないのです」
「だよなぁ……」
久遠は病人ではないので食事制限は無い。しかし、寝たきりなのでカロリーが控え目になるようメニューを病院側でコントロールされていた。このため、病院食は油分が少なく、あんまり美味しく無い。非常に不満なのだが、仕方無く食べる毎日だ。
「今日もおやつ持ってきましたから、これで我慢して下さい」
「助かるぜ……」
「はい、口開けて」
「ん……もぐもぐ」
その代わり、璃梨が毎日おやつを持ってきてくれた。今日はフルーツ寒天ゼリーだ。寒天の中にパイナップルが入っている、ローカロリーで健康的なおやつである。
璃梨は家事全般が特技であると婚活中に聞いていたが、こうして毎日看病しに来て貰っていると、それが本当で、むしろ予想以上であると深く実感した。家からは持ってきてくれおやつは美味しいし、短い時間で久遠が散らかした漫画等を整頓してくれる。しかも驚いたことに、何と裁縫まで出来るのだ。久遠の病室に長い時間いるので、その時間で久遠のパジャマに刺繍を入れている。大きなハートマークの中に璃梨本人を模したクロネコを描いた刺繍である。二週間で一着仕上がり、それが今、久遠の着ているパジャマだ。
久遠のパジャマの襟元のハートから、婚約者のクロネコが顔を覗かせている。
久遠と璃梨が婚約関係にあるというのは、早々のうちに関係者全員にバレた。璃梨が久遠をダーリンと呼ぶからだ。
『あらあら。可愛いお嫁さんねぇ。お母さん、嬉しいわぁ♪』
久遠の母はこれで済んだ。全く脳天気な母親である。
一方、それで済まないのが凜咲家の方だ。高校生と小学生の婚約などありえない、と特に璃梨の父親が激怒し、『このロリコン野郎!』とぶん殴られる……はずであった。では何故そうならないのかと言うと、それは久遠が璃梨の命の恩人だからだ。本当は気が気では無いのだが、顔つきが不良であること以外に久遠に不審な部分があるわけでも無いので強くは出られず、今日に至る。しかし一応、二人がおかしな事をしないように愛梨が監視の任に就くことになった。
夕食を食べてしばらくして、璃梨は二着目のパジャマに刺繍を入れ始めた。進捗状況はまだ始めたばかりである。久遠はやることも無いので黙ってその様子を見守る。しかし、枕元の時計を見ると、針はもうすぐ十九時を指そうとしていた。
「そろそろ姉が来る時間だぜ」
「む~。もうこんな時間ですか。まだ途中なのに……。今は夏休みですし、偶にはお泊まりしても良いのではないでしょうか?」
「ダメダメ。子供は家に帰らなきゃダメだ。それに、夏休みはまだ長いんだぜ? 一気にやろうとしなくても、ちょっとずつやればいいのさ。楽しみにしてるぜ」
「む~」
本当はこの病室に泊まって一気に完成まで進めたいのだが、久遠に帰るよう言われるので、しぶしぶ璃梨も言うことを聞く。
「では、最後にリンゴを剝いていきます! 後でお腹が空いたら食べて下さいね」
そう言って、璃梨は持ってきたリンゴと、果物ナイフを袋から取り出す。丸く皮剥きをするつもりのようだ。
「おいおい、手を切らないように気をつけろよ」
「大丈夫です。璃梨は料理が特技なのです! 行きます!」
璃梨はクルクルと上手にリンゴを回しながら、皮を剝いていく。やはり料理が特技というのは本当で、リンゴの皮は見事に一本に繋がったまま、軽快なペースで剝かれていく。
プチッ!
「あっ!?」
しかし、手先を誤ったのか、リンゴの皮が途中で切れてしまった。
「切れてしまいました。がびーん……」
璃梨は最後まで一本に繋がった皮を作って、久遠に見せたかったようだ。しかしあえなく途中で切れてしまってしょんぼりとする。
「残念だったな。ま、いいんじゃねえの? 続けて剝けばさ」
「は、はい」
久遠に促されて、璃梨は引き続きリンゴの皮を剝いていく。間もなく剥き終わって、白い肌が眩しい、綺麗な丸いリンゴが出来上がった。実に綺麗に剝き上がっている。
「今度は上手くいったな」
「いつもなら一回で剥けるのですが……」
「別に一気にやらなくたっていいんだって。一気に剝いても、ちょっとずつ剝いても、結果は変わらねーんだから。お前は何でも一気にやろうとし過ぎなんだ。段取りを踏んでいけばいいのさ。リンゴの皮剥きも、結婚もさ」
「そ、そうですよね。久遠さんの言う通り、やっぱり何事も段取りが大事です……。あはは……」
少し顔を赤らめて恥ずかしそうにする璃梨。だが、続けて何か言おうとしたところで口ごもってしまった。コクン、とその小さな喉を微かに鳴らす。
「あ、あの……」
「どうした?」
顔を上げた璃梨は、それこそリンゴのように頬を赤くしていた。
「何事も、段取りが大事ですよね? リンゴの皮剥きも、結婚も」
「……? まあな」
「な、なので、き、今日は私も、ちょっとだけ、段取りを踏んでも良いですか?」
そう言うと、璃梨は目を瞑って、そ~っと久遠に顔を近づけてくる。
(……ああ、そういうことか)
これは確かに段取りの一つだ。久遠も黙って目を閉じる。程なくして、久遠は唇にプニプニしたミカンの実のような弾力を感じ、その口には甘いリンゴのような味が広がった。
「璃梨~。迎えに……」
(……あっ!?)
タイミング悪く璃梨を迎えに病室のドアを開けた愛梨は、思いっきりその瞬間を目撃してしまう。慌ててドアを締めて走ってその場を逃げ去ったが、それから数秒後、何で自分が逃げなければいけないのかと気づく。
立ち止まって病室の方を振り返り、高鳴る胸を押さえつつ、紅潮した頬を膨らませた。
(……もう、あの二人。一気に進み過ぎなんだから!)
これにて婚活恋愛小説『はじめてのこんかつ』は完結です。
最後までお付き合い頂き、誠にありがとうございました。




