はじめてのけつい
「ひ、ひぃぃぃぃ……」
余りの凄惨な事態に愛梨は腰を抜かしてその場にへたり込んだ。
(……はっ、り、璃梨は!?)
自分でさえこの衝撃なのだから、璃梨当人は如何ほどか想像も付かない。璃梨の様子を見てみると、ぐったりとして意識を失っていた。
「りっ、璃梨ーーーーッ!?」
璃梨はそれから救急車で病院に運ばれ、三日三晩眠り続けた。
「う……」
「璃梨ッ! 起きたのね、良かった……」
「お姉ちゃん。ここは……」
「病院よ。もう大丈夫。何も心配いらないわ」
愛梨も三日三晩、休むこと無く看病を続けてその体力も限界であったが、璃梨が目覚めたことでそのような疲れもすっかり消え去っていた。
しかし、あのような事件の後だ。璃梨の精神状態がどうなっているかが恐ろしくて次の一歩を踏み出せない。
(……璃梨は強い子だから、げ、現実を受け止められるはず。でも、私は……)
一体何から話せば良いのだろう。
(……叔父さんと叔母さんの葬式はもう済んでいること? 璃梨が養子として私の妹になるってこと? それとも記憶の確認? ど、どうしたらいいの?)
むしろ愛梨の方が恐れを平静を保てない状態にあった。
「お父さんと、お母さんに会ったのです……」
そこへ、璃梨がポツリと口を開く。
「ど、どこで?」
「とっても暗い所でした。私が一人で泣いていると、お父さんとお母さんが迎えに来てくれて、近く連れてきて貰ったのです」
(……え、ゆ、夢? え?)
「私は一緒に帰ろうと言ったのですが、お父さんはそれは出来ないと言いました。お父さんとお母さんは、璃梨とは違う所に行くそうです。璃梨も着いて行くと言ったのですが、それはダメだと言われて、仕方無く一人で帰ってきたのです。お父さんとお母さんの言いつけです。仕方ありません。でも、本当は……」
璃梨の瞳から一筋の涙が流れ落ちる。
「璃梨も、お父さんとお母さんと一緒に、行きたかったなぁ……」
「璃梨……」
愛梨はそんな璃梨を力一杯に抱きしめた。
「これからは、私がお姉さんになるのよ。従姉妹のお姉さんじゃないの。本当のお姉さんよ」
「ご迷惑になるのではありませんか?」
「そんなこと無いわ。私も、お父さんも、お母さんも、みんな賛成。これからは私たちは一緒の、四人家族……」
とそこまで言いかけた所で、病室の外から怒鳴り声が聞こえてくる。
『璃梨を養子にするだって? 馬鹿を言うんじゃないッ!!』
(……え、な、何?)
今の声は、近くに住んでいる親戚の叔父さんだ。璃梨と愛梨、共に面識がある。そんな人が外で怒鳴り声を上げており、思わず二人とも身をすくめた。
『馬鹿も何も、兄である僕が預からなくて、誰が璃梨の面倒を見るんです? もう妻も愛梨も納得済みですよ』
どうやら応対しているのは父のようだ。
『あんな事件起こした男の娘を養子になんてしたら、凜咲家はどうなるんだ!?』
『黙っていれば分かりませんよ』
『そんなのどこからバレるか分からんわ! 璃梨を恨んでいる人は日本中に一万人以上いるんだぞッ!! またあんな殺人鬼が現れたらどうするッ!?』
『璃梨には防犯用の非常ベルを持たせます。スマートフォンに位置情報を追跡するアプリも入れて、防犯には万全を期します』
『万全を期すったって、いきなり襲われたらどうにもならんわ! 璃梨が殺されるだけならまだいい。家に放火されて一家皆殺し……。いや、世間は凜咲の娘としか知らんから、璃梨と間違われて愛梨ちゃんが狙われるかもしれんのだぞ? 愛梨ちゃんが両目をくり抜かれて、両手両足を切り落とされて、ダルマみたいに殺されても構わん言うのかッ!?』
(……ひぃっ!?)
明らかに璃梨に対して敵意悪意を持った言動だ。
ガタガタガタガタガタガタ……。
同じくこの話を聞いた璃梨も愛梨の胸の中で激しく体を震わせて、念仏のように同じ言葉を繰り返し唱えていた。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
「だ、大丈夫よ、璃梨。お姉ちゃんは剣道強いんだから! そ、そんな悪い人が来たって返り討ちにしてやるんだから!」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
しかし、そんな励ましも効果が無く、璃梨は震えて同じ言葉を繰り返すのみだ。
『だったらどうするんです? 叔父さんの言い分であれば、璃梨はどこに預けても危険でしょう? 璃梨はどこに行けばいいんです?』
『あの世とまでは言わんが……』
『言葉を慎んで下さい!』
(……や、やめさせないと!)
しかし、震える璃梨を置いて出て行くわけにも行かず、愛梨は動きが取れない。
『あの世とまでは言わないまでも、遠い田舎とか、孤児院とか、そういう所ではダメか?』
『赤の他人に任せるつもりはありません』
『いいか? むしろお前が預かることが一番マズい。兄貴の前が引き取ったんでは名字が変わらんだろう? 元々の名前が凜咲 璃梨。養子に入っても凜咲 璃梨では、追跡される。今の時代、インターネットでどれだけ追跡されるか分かったもんじゃない。せめて、名字が違う人間の養子には出来んのか?』
『何と言われようと、璃梨を養子とすることは弟との約束にして、家族の総意。変更はありません』
『それじゃあ、璃梨が将来、どこぞに嫁に行って家を出るまで、ずっとお前ら家族は危険に晒されるってことになるんだぞッ!?』
『叔父さん。心配して頂けるのはありがたいですが、それも少々過剰なのではありませんか? あんな殺人鬼は二人とは現れません。あの男は死刑か、無期懲役。当面は大丈夫です。仮に出所出来たとしても、その頃には璃梨も大人になり、結婚して別の性になって幸せな家族を作っているでしょう。弟の罪は璃梨には関係の無いことなのです。僕は弟との約束を守り、璃梨には将来、お嫁に行かせて幸せな……』
「それです」
「え?」
愛梨の胸に顔を埋めて震えていた璃梨だったが、急に体の震えが止まって顔を上げた。
「それしかありません」
(……え、な、何が?)
顔を上げた璃梨は、まるで何かに取り憑かれたかのように目の色が変わっていた。天を仰ぎ見るように目を見開き、目の前が見えてない。
「私がお嫁に行けばいいんです。それも、今すぐ。結婚すれば、名字が変わってあの人が追ってくることは出来ません。お姉ちゃん達が私の巻き添えになることもありません。叔父様とお父さんとの約束も破ることにはなりません。何より、私はお父さんから結婚するよう言いつけられているのです。私がお嫁に行けば、全てが解決します」
「お、お嫁って、あなた子供でしょッ!?」
「約束だけなら出来ます。それで、家さえ出れば……。そう、家さえ出てしまえばいいんです。私と結婚してくれる人を探して、その人の家に行けば……」
確かに、書類上の結婚には年齢制限があるが、結婚の約束だけなら年齢は関係無い。将来の結婚を約束に早くから相手の家に住まわせて貰うなど、昔の貧しい田舎では生活の為に実際に行われていたと聞く。また、戸籍上の名前は変わらなくても、名乗りを変えるだけなら実は法律上問題は無いのだ。特にイジメ問題に敏感な学校関係では融通が利き易く、外国名の子供が日本名で学校に通っていることも珍しく無い。高校までなら婚約相手の名字を通り名として名乗ることで乗り切る事が可能だろう。そして、高校を卒業する頃には結婚可能な年齢になっている。
璃梨の計算がどこまで届いているのかは分からないが、しかし、確かにカラクリとしては成立しているのだ。
(……で、でも、そんなこと出来るわけが……)
しかし、璃梨の異常な思考に愛梨は着いていくことが出来ず、ただ呆然と佇む以外に出来ることは無かった。
「相手は誰でも構いません。私は……璃梨は……、結婚します。それが……、私のお父さんの、最後の言いつけなのだから……」




