はじめてのみるく
「ま、まあ、お前が落ち着いてくれると俺も助かるぜ」
「す、すいません。私って緊張するとあたふたしちゃう癖があって」
「い、いや。世の中、冷め切ったような人間が殆どだからな。お前みたいなヤツがいてもいいと思うぜ」
「あ、ありがとうございます!」
どうやら先ほどまでの狂乱ぶりは、緊張してテンパっていただけのようだ。少し落ち着いてから話せば、璃梨は実に利発で礼儀正しい子供だった。
「それにしてもお前、そんなに早く結婚したいのか?」
「はい! 結婚は早ければ早い程良いのです! ちなみに、法的手続きではには十六歳からでないと結婚出来ませんが、事実婚という裏技があります。内縁の妻ってヤツですね」
「どこでそんなことを覚えたんだよ……」
どうも璃梨の結婚に賭ける執念には想像を絶するものがあるようだが、その辺りがどうも久遠には理解出来なかった。
「しかし、結婚ってそんなにしたいもんかねぇ。今の世の中、昔と違って別に結婚しなくても苦労しないからな。まあ、歳取ったら苦労するのかもしれねーけど、そんな先の事まで知らないしな。晩婚化って言って、みんなあんまり結婚したがらないんだよ」
「そ、それは知っていますけど……」
「俺も結婚したら徹夜でゲームとか出来ないんだろうなぁ。お前だって、結婚してお嫁に行ったらお父さんともお母さんとも離れ離れだぞ? 食事も掃除も洗濯も全部自分でやらなきゃいけないんだぜ? まあ、結婚すりゃ旦那も手伝ってくれるだろうけど、何だかんだで大変なことばっかりだろ。何でそんなに結婚したいんだ? ……?」
「…………」
急にボーッと上の空になってしまって、話が聞こえていない。
(……さっきもこんなのあったな。何なんだ?)
「おい、璃梨?」
「えっ!? あ、はい、はい」
呼びかければ、またすぐにハッとして正気を取り戻した。
「私が結婚したい理由ですよね。お母さんが早く結婚して良いお嫁さんになってねって言うのです!」
「ああ、なるほどな」
話していて思うには、璃梨は間違い無く優等生タイプだ。おそらく、親の言いつけは全部忠実にしっかり守る主義なのだろう。
「それで、お姉ちゃんが見合いを嫌がってキャンセルしようとしてたのを、なら便乗して自分がって所か」
「あ、あの、それ……」
璃梨は何だか申し訳なさそうに目を逸らして口を曇らせた。
「じ、実は、嘘なのです……」
「う、嘘!?」
璃梨の話した説明はこうだ。
久遠の元には璃梨の姉が見合い相手であるという資料が届いているが、あれは璃梨が捏造した資料なのだ。あの婚活業者については、璃梨は前々から電車の中吊り広告等で知っていて注目していたのだが、最近になって入会金無料キャンペーンを始めた。入会金が無いならば、後は書類審査さえ通過すれば入会出来る。チャンスと悟った璃梨は、姉の写真やらプロフィールやらを流用して資料を捏造して入会した。その後の見合いのセッティング等の調整も全部璃梨が行っており、当日は姉の代理と称して自分が見合いする。そういう作戦だったわけだ。姉は久遠との見合いが嫌で来なかったのではなく、そもそも見合いの事など全然知らないのである。
「ど、どこの工作員だよ……」
「ごめんなさいです……」
「ま、まあ、いいさ。最初の見合い相手が俺で良かったな。いいか、璃梨。俺はまあ、正直言えば母さんに無理矢理見合いさせられてるだけで、自分の意思で見合いしているわけじゃない。でも、他の人はみんな、ちゃんとした大人で真面目に将来を考えて婚活やってるんだ。そういう人の所に嘘の資料が届いたらマズいだろ?」
「は、はい……」
「今日の所は俺も口裏合わせてやるからさ、帰ったら電話して、問題にならないうちに退会手続きしろよな」
「はい……」
素直な返事ではあったが、やはり璃梨は婚活に心残りがあるようで、シュンとなってすっかり落ち込んでしまった。
(……やれやれ、しょうがねえな。よし!)
「なぁ、璃梨。世の中、そんなに急ぐことは無いんだぜ?」
「え?」
久遠は少し大きめの声で、しかし優しく、元気づけるように璃梨に話しかけた。
「世の中はな、何をやるにしても段取りってのが大事なんだ。一気に頑張ろうとすると大変だし、逆にサボリ過ぎても後で大変になる。ちょっとずつ、ちょっとずつ、無理の無いペースで段取りを重ねていくのが、一番楽な人生なんだ。お前は一気に頑張り過ぎなんだよ」
「そ、そうでしょうか……」
「例えば、さっきお前が飲めなかったそのエスプレッソ。これだが」
そう言って、久遠はカップに手を伸ばし、ゴクゴクと半分まで飲んだ。
「ウゲェ!? これは俺でも苦いッ!」
「だ、大丈夫ですか!?」
「あ、ああ。こ、これは本当に大人の飲み物だな。俺たちにはキツ過ぎる。でも、だ」
久遠は店員を呼び止め、ミルクと砂糖を多めに持ってきて貰った。そして、半分無くなったカップにドボドボとミルクを元の量になるまで注ぎ込み、砂糖も大量投入してスプーンで混ぜる。
「うん、これでいい。ほら、飲んでみろ」
一口味見をした後、カップを璃梨に渡して飲ませた。
「あ、美味しい……」
暖かく甘い味と、香ばしい香りが口いっぱいに広がった。
「だろ? ミルクは子供の飲み物。コーヒーは大人の飲み物ってな。子供と大人の中間な俺たちには半分半分が丁度良いけど、これから少しずつ、ミルクを減らしてコーヒーを増やしていくんだ。そのうちに今は飲めないブラックのエスプレッソも飲めるようになる。分かったか? お前の歳なら、別に結婚みたいな大人のやる事が出来なくてもいいんだよ。ちょっとずつ、段取りを踏んで、大人になって、それから結婚すればいいのさ。分かったか?」
「は、はい!」
随分と偉そうな話をしたものだ、と我ながらに思ったが、璃梨は素直に話を理解してくれたようだ。そして、ニコッと元気よく無邪気で明るい笑みを浮かべる璃梨を見て、久遠は思った。
ああ、やっぱりコイツ、可愛いヤツだな、と。