眼鏡令嬢の復讐譚~ご安心ください、しっかり〝視えて〟いますので~
【1】
「リネット・フェルモア男爵令嬢、お前との婚約を破棄する!」
「はぁ……そっすか」
「はぁ、とはなんだ! もっとまともな返事はできないのか」
(ダル……)
それがわたしの本心だったが、それを口にするわけにいかないから、そう答えたのだが、でも、それもお気に召さなかったらしい。
「お前は、相変わらず、まったく感情を出さないな! そんなところがたまらなくイヤだったんだ」
王立アルセディア貴族学園、その中庭にある温室の前。
そこで婚約相手であるガレス・ドラヴェルはわたしを睨みつけていた。
昼休みの石畳の回廊は、それなりに人目がある。遠巻きにこちらを窺う生徒たちの好奇の視線を感じるが、学園中の注目を集めるような大舞台というわけではない。彼の中途半端な虚栄心が透けて見える、絶妙に面倒なシチュエーションだった。
ガレスの側には、見慣れない女生徒がぴたりと寄り添っている。
誰の目にも明らかだ。
(あいつが婚約破棄の原因か……)
その女生徒の肩に手を回しながらガレスがわたしに向かってまくしたてる。
「地味で、暗くて、愛想もない。その分厚い眼鏡の奥で何を考えているかもわからない。お前のようなつまらない女は、我がドラヴェル伯爵家を支える妻には相応しくない!」
「はぁ……なるほど」
「なるほどじゃない! 本当に可愛げのない奴だ! 少しは取り乱したり、悲しんだりしたらどうなんだ!」
そう言うガレスの顔にははっきりと〝怒り〟が浮かんでいる。
――〝視る〟までもなく。明らかに。
「あの……」
「なんだ!」
「……帰ってもよろしいですか?」
なにせ婚約破棄を申し渡したのだ、わたしに驚き、そして嘆き悲しんでほしいらしい。
……いや、そういうの、本当にダルいんで。
そもそも、彼がわたしを愛していないどころか、嫌悪感を抱いていることなど、ずっと前から『視えて』いた。
だから、この展開にいまさら驚けと言われても困る。
「見ろ、このセレナを。いつも笑顔で俺を癒してくれる。この美しい顔が笑顔になるのはまさにパッと花が咲くようだ。それに比べてお前は……、くすんだ眼鏡の奥にまたくすんだ顔がある。本当につまらない女だ」
「ガレス様、そんなに強く言っては可哀想ですわ」
セレナと呼ばれた女生徒が、甘ったるい声でガレスの腕を引いた。
プラチナブロンドの髪を揺らし、すがるように彼を見上げる仕草は、見事なまでに計算されている。聞いたところによると、古い名家、ルーヴェン家の養子らしい。
「セレナ、君は優しすぎる。この冷血な女にはこれくらい言わないとわからないんだ」
「リネット様も、きっとガレス様を愛していらしたはずですわ。急に婚約破棄だなんて、ショックで言葉も出ないのですよ」
心配そうに眉を下げているが、声の底には隠しきれない優越感が滲み出ている。
わたしをダシにして、見物人に自分の優しさと、ガレスとの仲をアピールしているだけだ。
(そういうのは、勝手にしててくださいよ)
元々親同士が決めた望まない婚約。
両家のメンツを保ちつつ、正規の手続きを経て破棄してくれるなら、わたしも大歓迎だ。
「この場、この宣言を持って、婚約解消に同意したとみなす。追って、我が家からフェルモア家へ書状を送るからな」
「そうですか」
「……お前、本当にそれしか言えないのか」
「では、お元気で」
わたしはスカートの裾をつまんで、カーテシーでお別れを伝える。
最低限の礼は尽くした。あとは帰るだけ。
と思ったのだが……。
「リネット様にも、すぐにいい出会いがありますよ」
わざわざセレナが呼び止め、わたしを慰めた。
まだ自分の善良さアピールが足りないと思ったのだろうか。
余計な会話をしたくないんだけれど。
「そんなもの、あるわけないだろう。こんな不愛想で、暗くて、陰気で、人見知りの女に」
ガレスがわざわざ追い打ちをかける。
こっちはまだわたしを悔しがらせ足りないとでも思っているのだろうか。
「そんなことありませんわ。眼鏡でわかりにくいですが、とってもチャーミングなお顔立ちをされていますわ」
「ははっ、セレナに言われたらむしろ嫌味に聞こえるぞ。こいつは眼鏡を外しても結局、地味な顔だ。なんというか、三日で飽きるタイプだな」
破棄したとはいえ、先ほどまで婚約者だった人間の顔を面前でなじるなんて……。
元々嫌味な性格だったが、人前では体面を気にして隠していたものだが、ここにきて
隠すことすらしなくなった。
「おい、リネット。外してみろ」
「……は?」
「聞こえないのか。セレナに見せてやれと言っているんだ。お前がいかに華のない女か、思い知らせてやる」
(……ダルすぎ)
心底うんざりした。
これまでは婚約者ということでできるだけ、この男の言うことは聞いてやるようにしていたのだが、それを当たり前だと思っているのか、婚約破棄したいまでも命令できると思っている……。
(悪口を言われるのわかってて、誰が外すか、バカ)
と、言いたいところだったが……。
「……わかりました」
わたしは小さく息を吐き、顔の半分を覆う分厚い眼鏡へと手を伸ばした。
別にあいつの命令に従いたかったわけではない。
少し〝視て〟みたいと思ったのだ。
あのセレナとかいう令嬢。
どうも気になる……。
わたしは眼鏡を外し、久しぶりに裸眼でこの世界を見る。
レンズによって矯正されない、ぼやけた世界。
モノははっきりと見えなくなったが、その代わりに――
色が視えるようになった。
――わたしの視界に人間の感情が極彩の色の濁流となって雪崩れ込んでくる。
視界いっぱいに絵の具をぶちまけたようなビジュアル。
(やっぱ……きっつい)
――感彩覚。
わたしの持つ、特殊な知覚。
人間の感情を色として認識し、微細な変化を読み取ることができる。
相手が怒っている、悲しんでいる、誰でも感情を読み取ることができるものが、わたしはそれを超細密に色として認識できる。
つまり、人の〝顔色〟がとんでもないレベルでよく視えるってことだ。
いまもガレスがどんな感情を抱いているのがはっきりと認識できる。
ガレスにまとわりつく、敵意の赤、優越感のオレンジ、侮蔑の黄土色、そして性欲の黒。
それらがマーブル上に混ざりながら渦を作っている。
(本当に嫌な色)
わたしはこの色を見たくないから、眼鏡をかけているのだ。
錬金術師によって作られた特殊なレンズはこの感情の色をカットしてくれる。
始終この感情の色を見せられていては、わたしの心がもたない。
幼い頃から人間の感情を見せられ続けたせいで、すっかりひねくれて、暗い、人見知りの性格になってしまった……。
――ちなみにちゃんと近眼でもあるけど。
それはともかく、わたしの目に映ったガレスの醜い感情の色。
これはすでに何度も視た色ではある。
何度視てもまったく慣れないけど。
でも、今日あえて眼鏡を外したのはこれを視るためではない。
わたしの視線は、彼にしなだれかかっているセレナの〝色〟へと向けられる。
(……どういうこと?)
――冷たい蒼。
ガレスに腕を絡め、身体を密着させているのに、好意や愛情の色は欠片も視えない。
次に飛び込んできたのは泥のような暗いネズミ色。
これは謀の色。
頭をフル回転させて、なにかを考え続けている、そういう人間の心の色だ。
そして、次に視えたのは黒みがかった黄色。
これは警戒心の色。
彼女は常に周囲を警戒している。
「やっぱり、綺麗なお顔をされてますわ」
「お世辞を言うな」
「お世辞ではありませんわ」
甘い声でガレスと話しているが、その警戒の色はまったく変化がない。
(やっぱり普通じゃない)
自分の身体を囲うように発される警戒色。
そしてその中心には冷めきった冷たい蒼。
それから……。
なにか、一瞬視えた気がしたが、すぐに消えた。
とにかく、セレナから視える色は尋常じゃない。
明らかに内心を外に出さないように訓練された人間だ。
自分の心を殺して、どんなことでも遂行してのける――。
(面倒だけど、あの人に報告しないといけないみたい)
「では、これまでありがとうございました。ごきげんよう」
わたしは眼鏡をかけ直すと、再度、カーテシーで別れを伝え、踵を返す。
「まだ話は終わってないぞ」との声を背中に受けても、振り返りもせずに。
【2】
アルセディア王国でもっとも格の高い教会である王立光冠聖教会。
本来、立ち入りが許されることのない深夜にわたしはそっと裏口の扉をノックする。
「ほう、婚約破棄を宣言されたのか、それは気の毒にな」
ここ王立光冠聖教会の司祭長であり、国王陛下の年の離れた弟でもあるルシアン殿下は懺悔室でわたしの話を聞くと、そう応えた。
「気の毒にな」と言いながら、ルシアン殿下の口調はどこか楽しげだ。
「別にわたしの話はどうでもいいんですよ。そっちじゃなくてセレナという令嬢についてです」
「で?」
「あのセレナとかいう女……十中八九、どこかの工作員です」
「リネットが言うのであれば、恐らくそうなんだろうな」
ルシアン殿下の顔から笑みが消える。
この教会の司祭であるルシアン殿下には裏の顔がある。いやこっちが表の顔と言うべきか、この国の諜報機関〝夜梟〟の長だ。
「セレナはルーヴェン子爵家の養女だったな、ルーヴェン家か……、古い家柄だが、久しぶりに名を聞いたな。随分前に家が傾いて、屋敷を売ったとか、そんな話耳にしたことがある。いずれにせよ忘れられた家だ」
さすがは王弟、貴族の家柄には非常に詳しい。
「金欲しさの養子縁組。それで貴族学校に入学してガレスに取り入った。でもどうしてあいつなんかに?」
自分が入る予定だった家に対して言うのもなんだが、ガレスのドラヴェル家はさほどの家柄ではない。
ドラヴェル台地を領地とした、豪農上がりの貴族で、乗っ取るほどの財産も、政治的な権力もない。
典型的な田舎貴族だ。
「ドラヴェルといえば綿花か……。そんなものを狙うか? なにか隠し財産でもあるのか?」
「いえ、絶対にないです」
ガレスの性格は熟知している。そんなものがあったら、わたしに即座に自慢しているはずだ。
「なるほど……。ガレスはそういうヤツか、それにしても腑に落ちんのは、工作員をどうして嫁がせる? なにか調べたいことがあるなら潜入でいいだろう?」
ルシアン殿下の推察をテコにわたしの推論も動き出す。
「嫁がせないと、知れないもの、もしくはずっと情報を仕入れ続けたいものがあるとか?」
「収穫量? どうだ? ドラヴェルは豪農、毎年の収穫量を知りたいとすれば?」
嫁ぐ予定だった身、幸か不幸か、ドラヴェル家の稼業については把握している。
中心となっているのは綿花の栽培、さらにはイモ、そして多少大豆も……。
「ドラゴンズニップ……」
わたしがその言葉を出すと、「それだ!」とルシアン殿下が即座に膝を打った。
ドラゴンズニップはいわゆるマタタビに似た低木でその実には竜を鎮静化する効果がある。
気の荒い飛竜を人間を乗せて飛べるよう訓練するには、ドラゴンズニップを混ぜた飼料で飼いならすことが必要不可欠だ。
「……なるほど。あの実の収穫量と流通の帳簿を見れば、我がアルセディア王国が現在どれだけの飛竜を稼働できるか、正確な軍事力が筒抜けになるというわけか」
「そういうことです。ガレスは数字に弱いですから、管理するのは妻の仕事になるでしょうから」
「我が国のドラゴンズニップは9割ドラヴェル台地産だ。もしセレナがそれを管理するとなれば、事実上、我が国の飛竜の運用能力が筒抜けになる」
「で、どうしますか? 泳がせて証拠をつかみますか?」
あくまでこれはわたしが感情を読み取ったうえでの推察にすぎない。
なんの証拠もない推察ではセレナを捕縛したとしても、嫌疑不十分で逃げられる可能性は高い。
「証拠を固めたいところだが、そうもいかん。過去の収量も知られたくない」
たしかにわたしとの婚約を破棄して、セレナがドラヴェル家に入るとなれば、おそらくすぐにそれくらいは掴むだろう。
むしろ「この年は随分と採れた」などと自分から自慢げに語るガレスの姿が目に浮かぶ。
「ガレスは婚約の誓いは教会で行うのが習わし、近いうちにここで、ガレスとセレナと婚約の儀が行われるはずだな」
「はい……」
この国では貴族同士の正式な婚約は神前で誓う形をとるために、教会で行う必要がある。
両家の家族が集まり、ふたりの愛と両家の絆が永遠であることを神に約束するのだ。
もちろんしょっちゅう破られる誓いではあるけど。
「婚約破棄された令嬢にこんなことを頼むのも申し訳ないのだが、その儀にご参列いただけないかな」
「ルシアン殿下、そう来ますか……」
つまりはわたしにその場でセレナを視させて、正体を暴くということ……。
「すべてを暴いてやる、神の目の前でな」
そう言うと、ルシアン殿下は胸元で雑に十字を切り、怪しい笑みを浮かべながら、祈りを捧げる。
この王立光冠聖教会は代々、王家の者が司祭を務めるのが習わしとなっている。
陛下のご兄弟はルシアン殿下以外はすでに妻帯されているために、独り身であるルシアン殿下が司祭となったと聞いたのですが、実際の信仰心はいかほどなのか……。
あの危ない笑顔はとてもじゃないが敬虔な司祭には見えない……。
「むろん、ガレスにもしっかりとケジメを取らせてやらんとな。オレの可愛いリネットを袖にしたんだ。相応のペナルティを払ってもらう」
ルシアン殿下はさらに怖い顔で笑う。
「あの、そういうの、いいんで」
「ダメだ。お前がどう言おうが、これはオレの気持ちだ。オレのリネットを粗末に扱ったヤツは許さん」
「いや、本当にダルいっていうか面倒なんで……」
昔からルシアン殿下はわたしのことをなぜか気に入ってくれている。
どうせ感情を読み取られてしまうのだから、一切隠し事せずに話すことができる。
それが気持ちいいのだとか……。
【3】
ルシアン殿下との付き合いはもう10年にもなる。
わたしが感彩覚の力を持っていると発覚して以来、ルシアン殿下の司祭以外の裏の顔、この国の諜報機関〝夜梟〟のトップとしてわたしの協力を必要としてきた。
あの頃はルシアン殿下が21歳、わたしはまだ8歳だったか……。
それ以来、年に1度か2度、誰かの顔色を視てほしいと依頼を受けてきた。
長い付き合いだ。
「ようこそ、王立光冠聖教会へ。ドラヴェル家、ルーヴェン家の申し出により婚約の儀を執り行う」
今日のルシアン殿下はこの教会の司祭長として、祭壇の前で聖職者らしい柔和な笑みをたたえていた。
ステンドグラスから差し込む光がルシアン殿下の白衣を色鮮やかに染めている。
「ガレス・ドラヴェル、セレナ・ルーヴェンの両名。前へ」
ルシアン殿下の合図でガレスとセレナは祭壇の前へと進み出て、片膝をついた。
「ここに立つ両名は、自らの意思と、家の了承のもと、この儀に臨むことに相違ないか」
「相違ありません」
ルシアン殿下の問いにふたりは片膝をついたまま、そう応えると列席の両家の親族から拍手が挙がる。
「では、神に代わって王立光冠聖教会司祭ルシアン・アルセディアの名において両名の婚約を――」
「――認めん!」
ルシアン殿下ははっきりとそう断言した。
「は!? 認めない?」
「その通りだ。この婚約を認めない」
「ど、どういうことですか! 書類の不備はないはずだ。しきたり通りに行えば、いかに司祭長とはいえ、拒否する権限などないはずだ!」
「いかにも。だが、この国の善男善女による婚約の誓いがあればそれを認め、祝福する。それが司祭であるオレの務めだ」
「だったら――」
「聞こえなかったか? 善男善女の誓いだ。どうも貴殿らは、そうではないようにお見受けする」
「善男善女など建前でしょう! 今までだって、脛に傷持つ貴族の婚約をいくらでも認めてきただろ!」
ガレスの顔が怒りで真っ赤に染まる。
これはガレスの言う通りだ。
聖約受理規則、第七条 『善男善女の誓い』、にそう書いてあるらしいが、一般的にはたんなる婚約の儀の決まり文句としてしか認識されていない。
「ガレス、お前、一方的に婚約破棄をしたらしいな?」
「それは……、教会とは関係ないでしょう。貴族なら、これくらいのことはしょっちゅうあるわけで」
たしかに若い貴族には奔放な恋愛をする者は多い。
といっても当事者となればたまったものではないが。
「ま、それは一理ある。認めようじゃないか。それでだ」
ルシアン殿下の視線がセレナへと向けられる。
「わ、私はなにも後ろめたいことはありません。貞淑な善女です」
セレナは少し戸惑いつつも即答する。
「あなたに関しては、そこじゃないんだな。セレナさん、あなた、〝この国の〟善男善女ですかね?」
「……!」
一瞬ではあるが、セレナは驚きの表情を浮かべた。
しかし、相手はおそらく訓練された工作員。
すぐにその驚きを〝心外なことを言われてびっくりしている〟人間のふるまいへと変換する。
図星の反応ではなく、変なことを言われてびっくり、といったところ。
「さて、ここで、この儀式にゲストをお招きしている。紹介させてもらうよ」
ルシアン殿下はそう言うと、わたしに目で合図した。
「リネット!」
わたしが祭壇の奥から姿を現すと、ガレスは驚きで目を見開いた。
セレナと違って一切感情を隠していない。
「どういうことだ、ドラヴェル家、ルーヴェン家に恥をかかすつもりか!」
「そんなつもりはないよ。いや、結果的にはそうなるかもしれないが、そんなことよりも重要な要件がってね」
ルシアン殿下はわたしにゆっくりと歩み寄ると、そっと肩に手を触れる。
「このリネット嬢には少し特殊な力があってね、オレは必要なときにその力を借りているんだ。そして、今日もリネット嬢に協力願おうと思ってね」
ガレスがなんのことか理解できず唖然としている。もちろんガレスにはわたしの力のことを一度も伝えてないので、そうやって口を開けてぽかんとするしかないだろう。
しかし、いまはこの男にかかずらわっている暇はない。
「視させてもらいますね」
わたしはまっすぐにセレナを見据えると、眼鏡を外す。
まず飛び込んできたのは黒混じりの黄色。
警戒心の色。
あまり気が進まないが、とりあえず話しかけて〝顔色を視る〟しかない。
「どうも、ご無沙汰してます。ガレスの元婚約者のリネットと申します」
まったく変化なし。相変わらず警戒の色だけ。
わたしの声はぼそぼそとした小声だったが、聞こえていないわけではないだろう。
感情を押し殺している。いや、それほど興味のない話題なのか?
「今年のドラゴンズニップの生育具合は、いかが?」
――かすかに色が混ざった!
深い紫。動揺の色が警戒の黄色の上にポツンと落ちる。
「やはり、狙いはドラゴンズニップの収穫量か」
私が小さく頷くと、ルシアン殿下がセレナを睨む。
「間違いないかと」
「と、言っても、本人はそうだとは認めんだろうな」
ルシアン殿下に睨みつけられてもセレナの顔色に変化はない。
いや、かすかに安堵の色が混じった。
つまりは、こっちが証拠不十分だということを確信した色。そしてそれなら、乗り切れるという確信。拷問してもシラを切り通す自信。
しかし、ルシアン殿下もわたしもこっちの仕事ははじめてではない。
「じゃあ、はじめるか」
「面倒なんですよね、この作業」
「文句を言うな。じゃ、いくぞ……ナーグ王国」
ルシアン殿下が近隣諸国の国の名前をひとつ言う。
手間ではあるが、総当たりで国の名前ごとの顔色の変化を視ていく。
「ギブセン公国、アルル王国……ヴァルツェン帝国」
「ヴァルツェン帝国です」
「おー、やはりそうか」
「灰色が混ざりました。絶対に反応しないぞという決意の色です」
「ふふ、どうだリネットはすごいだろう? と言っても答えんだろうが」
もちろん、セレナはその問いにもなにも答えない。
「さて、ここからだ。ヴァルツェン帝国の中の誰に仕えている? 誰に命じられた?」
ルシアン殿下はセレナの顔を覗き込むと、ヴァルツェン帝国の要人の名をゆっくりと列挙していく。
「宰相ディートリヒ・クラウゼン、外務卿ベルンハルト・アイゼン、軍務卿オットー・グランツ……」
さすがは王弟殿下、他国の要人の名も淀みなく出てくる。
「諜報監エーリヒ・ザルツァ……皇太弟アウグスト・ヴァルツェン……」
「アウグスト・ヴァルツェン殿下です」
「ほう、大物だ」
セレナから動揺の色がはっきりと視てとれる。
黙秘を続けているが、完全に当てられていることは自覚しているはずだ。
「別にシラを切り続けても、こっちは構わないぞ。直接アウグストに抗議するからな。お前が自白したということにして」
「…………」
黄色、紫、蒼、いろんな色が混ざってマーブル状に渦巻いている。
このビジュアルが示す通り、まさしく混乱の色。
セレナはどうするべきかわからなくなっている。
――あとひと押しすれば……。
しかし、次に言葉を発したのはガレスだった。
「待て! これは罠だ! 俺たちの婚約を滅茶苦茶にしたくて、ウソをついてる! そうだろ!」
血走った眼でわたしを睨みつけている。
ガレスにまとわりつくのは憤怒の赤、焦りの青、動揺の紫、助けを求める緑、……そして性欲の黒。
こいつ……、なんでこんなパニックになりながら、性欲があるんだ?
前から思ってたけど……ちょっとおかしいんじゃないの?
「少し黙っていてもらえるかな。いま、重要な話をしているんだ」
ルシアン殿下に制止されてもガレスは構うことなくわたしをなじり続ける。
「列席のみなさん、騙されないでください! リネットは俺に婚約を破棄された恨みでこんなことを言ってるんです、ルシアン殿下も……その……なんかグルなんだ!」
ぐちゃぐちゃの感情。
ぐちゃぐちゃの言葉。
もはや、自分でもなにを言っているのか、わかってないだろう。
「さあ、みなさん、婚約の儀を進めましょう。司祭がいなくっても、儀式なんでできるはずだ」
ガレスはセレナの腕を掴むと、強引に祭壇の前へと戻そうとする……。
(もうこれ以上、視ていられない)
わたしはセレナの腕を掴んでいたガレスの手を引きはがす。
(もうたくさん……)
「セレナさん、あなた、恋人がいますね?」
「……!」
婚約破棄を宣言された中庭でセレナを視たとき、一瞬、恋心のピンクが視えた。
はじめはガレスに対しての好意かと思ったが、すぐに思い直した。
どう考えてもアイツへ気持ちではない。
だとしたら……。
「任務とはいえ、この男と一生添い遂げるつもりですか?」
「それは……」
ついにセレナは誰にでもわかるはっきり読み取れる形で感情を表に出した。
震える唇、瞳を潤ませる涙。
――それは悲しみの感情だった。
「私はシェイラ・ヴァルツァ、ヴァルツェン帝国の工作員だ」
一度大きく嘆息すると、セレナ、いやシェイラはすべてを認めた。
「な……っ!?」
一番大きな声を上げたのは、言うまでもなくガレスだった。
彼を覆っていた赤や緑のぐちゃぐちゃの感情が一瞬にして吹き飛び、真っ白な『空白』の色が広がる。自分の理解の範疇を超えた事態に、完全に思考が停止している。
「……賢明な判断だ。これ以上シラを切って、国に残してきた恋人の情報まで暴かれるのは御免だろうからな」
(それやるとなると、すげー大変なんですけど……)
わたしが読めるのは感情だけ。名前の文字をひとつひとつ指して、反応を調べることになる。実際やったら膨大な時間とわたしの精神力を必要とするだろう。
しかし、わたしの能力の詳細を知らない彼女はすべて悟られてしまったと思ってくれたようだ。
ルシアン殿下が指を鳴らすと、祭壇の奥から、教会の神官服ではなく、王国の正規騎士の鎧を纏った者たちが数人現れ、シェイラを静かに包囲した。
「あとは騎士団の尋問官に話してもらう。丁重にお連れしろ。約束する。恋人のことはこれ以上詮索しない」
「……はい」
シェイラは抵抗する様子もなく、うなだれたまま騎士たちに連行されていく。
(……これで終わり)
わたしは一度深く息を吐きだすと、手元の分厚い眼鏡をかけ直した。
視界を覆っていた極彩色の感情が遮断され、いつもの薄暗く平和な世界が戻ってくる。
(色を視すぎた……。少し吐き気がする……)
人間のストレートな感情に直接触れ続けると、体調が悪くなる。
すぐにここを立ち去って、横になりたい。
そう思っていたのに……。
「……あ、そうだ、リネット!」
ガレスが突然、わたしに手を伸ばしてきた。
「俺が悪かった! セレナ……いや、あの女に騙されて、お前の本当の価値を見失っていたんだ! 婚約破棄はなしだ! やり直そう!」
「……はぁ?」
私は今日一番の、特大のため息をついた。
「オマエにあんな力があるとは知らなかった、知っていたら、もっと丁寧に扱ったはずだ。どうだ、やり直そう?」
「えーと、本気で言ってます?」
「あ……、いや」
ガレスを見下ろすわたしの視線が冷え切っていることが、眼鏡越しにも伝わったらしい。
「いま、体調悪いんで、話しかけないでもらえますか、もっと調子崩すんで」
わたしはそれだけ言うと、ガレスから視線を外す。
「ガレス、少しオレと話そうか」
「あ、あの……ルシアン殿下……」
「お前は、敵国の工作員に唆され、我が国の重要機密であるドラゴンズニップの生産量を漏洩しかけた。国家反逆未遂、少なくとも重大な背任行為だな」
「違います。俺は騙されていただけで……!」
「騙されていた? お前自身の虚栄心と性欲に付け込まれた結果だろうが。ドラヴェル家が管理する台地は、一時的に王家の直轄とする。ドラヴェル家のみなさん、よろしいな」
ルシアン殿下は婚約の儀のために集まっていたガレスの家族を見渡すと、高らかにそう宣言した。
「お、おい! 待ってくれ!」
その、背後で喚くガレスの声は、やがて騎士たちによって押さえ込まれ、遠ざかっていった。
「これにて、此度のセレモニーは終了とする。みなさん、神のご加護があらんことを」
ルシアン殿下がいかにも司祭らしい優しげな笑みを浮かべ、そう宣言すると、ことの成り行きを呆然と見守っていたドラヴェル、ルーヴェンの両家の者たちが、とぼとぼと聖堂を後にする。
これで聖堂に残っているのはわたしとルシアン殿下だけ。
「また世話になったな。おかげで機密情報が守られた」
ルシアン殿下はわたしが疲れていることを察して、冷たい水の入ったカップを差し出してくれた。レモンの果汁を絞ってあるようで、一口飲むと、ほんのりとした酸味と爽やかな香りが、わたしの胸のつかえを柔らかくしてくれる。
「どうだ、正式に夜梟一員にならないか? 俺の直属として、存分に力を振るえる環境を用意するぞ」
「嫌です」
「即答か。理由を聞こう」
「しんどいので」
私は眼鏡の位置を直しつつ、ため息交じりに言う。
「他人のドロドロした感情の色を見続けるのは、本当に疲れるんです。これ以上見続けたら、私の心が死にます。今でも十分、暗くて人見知りなのに、もっとひねくれた人間になっちゃいますよ」
わたしの言葉にルシアン殿下は肩をすくめ、小さく息を吐いた。
「じゃあ別の婚約者でも作るか? それなりの家柄の男を紹介できるぞ」
「それも結構です」
たしかにルシアン殿下の紹介なら間違いはないだろう。
でも、正直言ってもう婚約はコリゴリだ。
婚約どころか、いまは人と心を通わすこと自体が疲れる。
「殿下こそ、そろそろ相方でも探したらどうですか? いつまでも一人で裏仕事ばかりしていると、性格が歪みますよ」
「いや、俺は独りがいい。だから、こうして表向きは敬虔な司祭長をやっているんだ」
「そういう理由だったんですね」
「王族の結婚は基本的に政治だ。あんな疲れるものはまっぴらごめんだ。独りがいい」
ルシアン殿下は自らもレモン水をあおって喉を潤した。
「ふふ、我々は少し似ているのかもしれませんね」
「まさしく、そうだな。ならどうだ? 似た者同士もう少し仲良くやってみるか?」
そう言うと、ルシアン殿下は声に出して笑った。
(また、そんなお戯れを……)
ルシアン殿下が冗談で言ってるのか、それともある程度本気なのか……。
もう一度眼鏡をとって、確かめてみようかな。
少しだけ、そんな気持ちになったのだった。




