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匂いは記憶を司る

「おっはよー!」


 朝。学校までの道を歩く俺の後ろから麗奈の溌剌とした声が届く。


「おはよう、麗奈」

「って顔、どしたの?」


 振り返った俺の顔を見て驚く麗奈。

 それも無理はないだろう。

 俺の目の下には今、これまで見たことがないほどの隈ができてしまっているのだから。


「昨日の夜、ちょっと深く考え事をしてしまってな。あまり寝れていないんだ」


 俺はやややつれてしまった頬を擦りながら、言葉を返す。


「蓮がそんなになるなんて、一体何があったの?」

「いや、大したことじゃないんだ。ただ、これからの生き方をどうすべきかを考えていたというか、なんというか」

「いや、重い! 高校生なんだからもっと気楽に生きようよ」


 バンバンと麗奈は俺の背中を叩く。


「はは。すまないな。どうにも無駄に深く考えてしまう年齢になってしまったみたいだ」

「なんだそりゃ」


 言って、俺は麗奈に嘘をつかざるを得ないことに申し訳なさを覚える。

 いや、厳密に言えば嘘は言っていない。

 嘘は言っていないけど、原因が俺の中のエロスと転校生の関係だなんて言えるはずもない。

 俺は麗奈の純粋さの塊のような笑顔を見て、心が痛む。

 だが、一晩考えて方向性も見えてきたことも事実。

 正直、一日八時間は寝ないと心身ともにきついが、そうも言っていられなかった。  

 このままでは皆の目の前で爆散してしまう。

 最悪の事態だけは避けなければいけない。

 その一心で睡眠時間を削って考えたのだ。

 爆散しなくてもいい方策を。

 きっと大丈夫だ。

 そんな自信を胸に秘めつつ、学校へと向かった。

 下駄箱に入ると、早速件の転校生と遭遇する。


「あ、蓮君、麗奈ちゃん、おはよう」


 俺たちを視界にいれた美里はすぐにこちらに手を振ってきた。

 転校二日目ということもあり、どこか不安な色を浮かべていた美里。

 微かにその顔に明るさが灯る。


「おはよ、美里ちゃん」


 麗奈は転校生が再びの不安にならないよう、最大限の好意を笑顔に乗せて挨拶を返す。

 そんな麗奈の思いやりに美里は敏感に反応し、自然と笑顔になる。


「おはよう、美里」


 そして、俺も続いて挨拶をする。


「お、おはよ?」


 美里は俺の顔を不思議そうにまじまじと見つめる。


「ん? 俺の顔に何かついてるか?」

「ううん、でもなんだか……」


 すっと、美里の顔が近づいてくる。

 すると、そこに割って入るように、麗奈が声を発する。


「あー、ごめん。蓮さ、昨日いかがわしいこと考えて徹夜気味らしいんだよね。昨日と違って顔が酷いことは気にしないであげて」

「あ、そういうことだったんだね。男の子、だもんね?」


 麗奈の話を聞いて、美里は頷きつつ俺から距離を取る。


「人が真剣に悩んだ末の顔を酷いとは」

「あはは。ごめんごめん」 


 麗奈はカラカラと笑い、美里も遠慮がちに笑う。

 そんな二人のやり取りを見て、俺は心の中でガッツポーズする。

 完璧だ。

 肌着は一枚たりとも、繊維の一本も裂けていない。

 そう、俺が一晩かけて編み出した作戦は『美里と視線を合わせない』ということだった。

 さらに正確に言えば、視線を合わせはするが、自身の瞳のピントをズらし、彼女の存在とその後ろに見えるエロスを意図的に視界に入れないようにするという方策であった。

 これで俺も服が散らないし、美里を蔑ろにしなくて済む。

 俺はこれからの自身、そして転校生の未来の安寧を確信し、大きく安堵する。


 

 授業が始まると同時に、俺はふわっと漂ってくる匂いに懐かしさを覚えた。

 これまでこの教室内では嗅いだことのない匂い。

 いや、より正確に言えば、昨日嗅いだ新しい匂い。

 一瞬、麗奈がシャンプーを変えたのかと考えたが、麗奈が特定のブランドにこだわっていることを思い出す。

 ふっと、匂いの先を辿るように、俺は隣に視線を向ける。

 そこには美里がいた。

 昨日と同じように、軽やかに光を弾く、ゆるふわ愛されカーブな栗色の髪の毛が、窓から差し込む日差しを柔らかく弾いている。

 この匂い、美里のか。

 俺の脳内は寝不足の影響で、いつものように機敏に回ってはくれない。

 視界にぼんやりと存在する美里。

 その美里から発せられる懐かしい匂い。

 その懐かしさに引っ張られるように、俺は大きく深呼吸をする。

 しかし、それが間違いだったと気づくのに、そう時間はかからなかった。

 匂いが肺深くに入り込み、そして、その匂いの持つ情報が脳に辿り着いた瞬間、七瀬先生の顔とあのボディラインが一気に押し寄せてきたのである。

 

―――匂いは記憶を司る

 

 視覚にばかり気を取られていたが、匂いも記憶を引き起こすトリガーとなり得る。

 もちろん、俺がそのことを知らなかったわけではない。

 しかし、徹夜して対策を考えた俺の脳は、その見えない脅威にまで注意を払うことを怠ってしまったのである。

 視覚的な、昨日の彼女のファーストインプレッションが強烈だったこともその要因として挙げられた。

 このシャンプーの香り、七瀬先生と一緒だ! 

 なぜ昨日の時点で気づかなかった!

 咄嗟に鼻を覆うが、時すでに遅し。

 着込みに着込んだ肌着が全て散ってしまっていた。

 あまりの恐怖に全身から噴き出す汗。

 不幸中の幸いだったのは、念には念を入れて肌着を通常の倍、十枚着込んでいたことだろう。

 もしこれが五枚であったなら、おそらくブラウス、そしてその上に鎮座するブレザーにまでも爆散の歯牙が届いていたかもしれない。

 俺はじっとりと滲む汗を手の甲で拭う。

 とりあえずは助かったが、ここからは口呼吸でしのぐしかないか。

 ただ、慣れない口呼吸。

 徐々に呼吸は浅くなり、酸素不足により、俺の思考はさらに散漫になる。

 それでも、何とか持ちこたえた放課後。

 帰り支度を済ませ、廊下をゆっくりと歩く。

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