第2話 日向の宮 ― 巫女と光の人 ―
歴史はアニメでは語り尽くせない。
「失われた光」――邪馬台国最大の謎が、いま小説と音楽で甦る。
【一 霧の宮】
霧が、山を包んでいた。
薄い朝日が尾根の向こうから差し込み、金色の帯になって谷をなでていく。
谷底を流れる川が白く光り、その反射が、斜面に築かれた宮の白砂をやわらかく染めていた。
俺は縄で両手を縛られたまま、その光景をぼんやりと見上げていた。
(……どこだ、ここ)
空気は湿っていて、草の葉には露が残っている。
鼻をつくのは、土と木の匂いに混じった、かすかな煙の香り。
九州の山里と言われても信じる。でも――目の前の光景は、現代じゃありえない。
前庭には、見慣れない服装の人たちが行き交っていた。
男たちは髪を高く結い上げ、頭のてっぺんで束ねている。
額から耳のあたりには入れ墨のような文身が走り、胸元には貝や骨で作った飾り。
上半身は素肌に近く、腰には布を巻きつけ、その上から簡素な革のよろいをまとっている。
女たちは、肩からすっぽりとかぶる貫頭衣を身につけ、腰で紐を締めている。
耳元には勾玉や管玉がゆれ、髪は後ろでひとつにまとめられ、かんざしのような棒が挿し込まれていた。
(……魏志倭人伝で読んだやつだ、これ)
スマホは、さっきから圏外のまま。
発掘現場で鏡を持ち上げたところまでの記憶はある。
その次の瞬間、視界が白くはじけて――気づけばこの霧の中に立っていた。
「動くな」
背中を槍の柄で小突かれて、我に返る。
俺の周りを固めているのは、さっきから無表情の武人たちだ。
みんな同じような髪型、同じような革のよろい。
けれど、その中でもひときわ目を引く男がいた。
年の頃は俺より少し下。
鋭い目をしていて、結わえた髪からのぞく首筋には、細かい傷がいくつも走っている。
彼は俺をさっと値踏みすると、小さく鼻を鳴らした。
「こいつが……さっきの、“光に触れた異人”か」
その言葉の意味を理解する前に、宮の奥から白衣の裾が視界をよぎった。
霧の向こうから、ひとりの少女が歩いてくる。
腰まで伸びた黒髪が朝日にきらめき、額には細い勾玉が光っていた。
白い衣の裾が砂をかすかに払うたび、そこだけ空気が澄んでいくみたいだ。
周囲の兵や巫女たちは、一斉に頭を垂れた。
「日向姫……」
誰かが小さくつぶやく。
少女――日向姫は、まっすぐにこちらへ歩いてきた。
その瞳は、俺の存在を最初から知っていたかのように、迷いがない。
距離が詰まり、俺の目の前で彼女は立ち止まった。
近づいて初めて分かる。
彼女は俺と同じくらいの年齢で、でも目だけが、ずっと遠くを見てきた大人のように深い。
日向姫は、かすかに息を飲むと――驚いたように呟いた。
「あなたが……わたしの……?」
言いかけて、言葉を飲み込む。
その一瞬、彼女の瞳に、はっきりとした光が走った。
(今、なんて言おうとした?)
聞き返すより早く、背後の武人――さっきの男が一歩前へ出た。
「姫。
この異人は、鏡の儀の前に光を乱しました。
安全が確かになるまで、近づかれては――」
日向姫は、その言葉を手のひらひとつで制した。
細いのに、不思議な力のこもった仕草だった。
「佐士、心配はいりません。
この人は……“あちら側”から導かれてきた」
佐士――そう呼ばれた武人は、渋い顔のまま黙り込む。
日向姫は、改めて俺のほうを見た。
「名は?」
「……壹真」
答えると、彼女の目がふっとやわらいだ。
「壹真。
光を宿した人。
――ようこそ、日向の宮へ」
そう言って、彼女は微笑んだ。
その笑みは、どこか懐かしいものを見つけたような表情だった。
【二 逃げ出したくなる現実】
日向姫との初対面のあと、俺は宮の一角にある小さな建物に押し込まれた。
粗末な板の床と、藁を敷き詰めただけの寝床。
窓はなく、かろうじて隙間から光が漏れている。
(……夢じゃ、ないんだよな)
縄はとりあえず解かれた。
でも、出入口には武人がひとり立ったまま動かない。
疲労と緊張が一気に押し寄せて、俺はその場に座り込んだ。
体の芯まで冷えているのに、汗だけがじわじわとにじむ。
(鏡に触って。
光って。
気づいたら、ここで――)
脳みそが状況の処理を放棄しかけている。
スマホを取り出してみるが、画面の隅には無慈悲な「圏外」の文字。
そのまま壁にもたれた瞬間、急に全身が重くなった。
ここ数日の準備疲れ、発掘現場での興奮、そしてさっきの儀式前後の混乱。
全部まとめて、どっと押し寄せてくる。
(これ以上考えたら、頭が壊れる)
俺は逃げるように目を閉じ、そのまま眠りに落ちた。
どれくらい眠っただろう。
ふと目を覚ますと、体の感覚がやけにはっきりしていた。
スマホの時刻を見る。
午前五時を、少し過ぎたところだった。
(……時間、ズレてない?
今のは、ほんの少し寝ただけ?
それとも――)
外は、夜のとばりが明けようとしていた。
板の隙間から差し込む光が、さっきより少しだけ強い。
胸の奥に、突き上げるような衝動が湧いた。
(ここから……逃げられないか)
じっと耳を澄ます。
扉のそばに立っていたはずの気配が、ない。
静かだ。
人の寝息も、足音も聞こえない。
代わりに、遠くで鳥の声と、まだ消えきらない太鼓の残響がかすかに響いていた。
ゆっくりと立ち上がり、扉に近づく。
慎重に板を押すと、きしむ音を立てながらも、あっさりと開いた。
(……マジか)
見張りはいない。
どうやら交代の時間なのか、あるいは儀式の準備に駆り出されているのか。
止められてもいないなら、行くしかない。
何も分からないまま、ここに座っているほうがよほど恐ろしい。
俺は息を殺し、足音を殺して外へ出た。
霧はまだ薄く残っている。
宮の建物が並ぶ間を抜け、出口らしき方角を探す。
(あの谷の向こうに降りれば……川伝いに下れば……もしかしてどこかに村が――)
そんな甘い希望を抱いた瞬間――
「どこへ行く?」
目の前に影が立った。
さっきの武人。
日向姫に「佐士」と呼ばれていた男だ。
いつの間にか、真正面に立ちはだかっていた。
「……っ」
咄嗟に身をひねってすり抜けようとするが、腕をがっちりと掴まれる。
力が違いすぎた。
鍛えられた腕にねじられ、俺の体はあっという間に地面に押し付けられる。
「放せっ……!」
「動くな」
低い声には、怒りよりも冷静な警戒心がにじんでいた。
「この場で斬り捨てられたくなければな」
「……脅しのつもりかよ」
「事実だ」
佐士は、淡々とした口調で言う。
「この宮の外へ、許しもなく出ようとする者は――
たとえ巫女さまが庇われた異人でも、“間者”と見なされる」
刃の冷たさが、首筋を撫でた気がした。
実際に刀を抜かれたわけじゃない。
でも、その気配だけで足の力が抜ける。
「この場で成敗されるか。
それとも、巫女さまのお膝元で大人しくしているか。
選べ」
有無を言わせない声音だった。
(……選べるわけ、ないだろ)
俺は、奥歯を噛みしめる。
「……分かったよ。戻る」
「最初からそうしていればいいものを」
佐士は手を離し、ふんと鼻を鳴らした。
「おまえが何者であれ、
巫女さまが“ここへ導かれた光の人”と言われた以上、
勝手には斬れん。
だが、余計な真似はするな」
余計な真似、ね。
鏡に触って飛ばされた俺としては、何が“余計か”の基準が、もう分からない。
俺は小さく息を吐き、佐士に連れられるまま、再び宮の奥へ戻っていった。
【三 禁足の神域】
宮のいちばん奥――
そこは、さっきまでいた建物とはまるで違っていた。
壁には、青と黒の顔料で描かれた神獣がうねり、
松明の光に合わせて影が生き物のように揺れ動いている。
床には、勾玉と渦巻文をつないだような幾何学模様が刻まれていた。
線刻の溝に光が入り込むたび、淡く青い光がにじむ。
そこを踏むと、足の裏からじんわりと冷たい感覚が伝わってくる。
天井からはいくつもの鈴が吊り下げられ、
わずかな空気の揺らぎで、チリ……と細い音を立てた。
中央には、巨石をそのまま据えたような磐座があり、
その周囲には青いガラス玉が渦を描くように並べられている。
一粒一粒が、自分で光っているとは思えないのに、
なぜか闇の底から星のように瞬いて見えた。
(……書物の中の“倭”が、そのまま立ち上がってるみたいだ)
魏志倭人伝で読んだ記述。
頭の片隅にあった単語や行が、一気に現実へと変わる。
ここは、完全に“あちら側”――
現代の常識なんて、何ひとつ通用しない。
「壹真」
名前を呼ばれて振り向くと、
日向姫が白衣に装束を重ねた姿で立っていた。
さっきよりも重ね着が増え、帯は深い朱に変わっている。
首元には青い勾玉が連なり、髪には金の簪が三本、
太陽の光を象徴するかのように放射状に差し込まれていた。
「これから、“巫覡選定の儀”を行います。
倭国の行く末を照らす巫女を定める神事。
今日、わたしは――その巫女として、神に問われる」
日向姫の声は、静かだった。
でも、その奥に潜む緊張の色は、俺にもはっきり分かる。
「……俺も、見ていていいのか?」
「ええ。
最初に言ったでしょう?
あなたは“光の人”。
あなたの目が見たものは、きっと意味を持ちます」
そう言って、日向姫は微笑んだ。
【四 光の巫覡選定の儀】
太鼓が、地中から響くような低音で鳴り始めた。
どん……どん……。
その振動が床の文様を震わせ、青い光が脈動する。
白衣をまとった巫女たちが、静かに現れる。
首には勾玉、髪には金の簪。
その歩みは速すぎず遅すぎず、
霧の中から現れる水鳥の群れのように、凛として美しい。
巫女たちは円を描き、太鼓のリズムに合わせて回り始めた。
それは、ただの舞ではない。
翼を持たぬ鳥が、
“籠”に閉じ込められた魂を解き放ち、
神が降りる道筋を清める――そんな祈りの動きだ。
鈴の音が太鼓に重なる。
チリ……チリリ……。
その細い音が空気の膜を震わせ、
神域全体がひとつの生き物のように息づき始めた。
その中心に――日向姫が立った。
白い衣は光の粒を受けて淡く輝き、
霧の名残の中でただひとり、昇る朝日を身にまとうように見える。
(……すごい)
俺は、言葉を失っていた。
これは、ただの再現イベントじゃない。
本物の、三世紀の、倭の儀式だ。
日向姫は胸に手を当て、ゆっくりと息を吸い込む。
瞳が開かれた瞬間、床の文様は青から金へと色を変えた。
俺には、それが“光”の変質として見えた。
日向姫の背後に据えられた鏡が、かすかに揺れる。
水面の波紋のように光が広がり、
その中心から、細い線のような光が何本も伸びている。
普通の目には、おそらく見えない。
けれど、俺の目にははっきりと見えた。
(――鏡だ)
日向姫は鏡に手を伸ばし、
巫女たちの舞と太鼓の拍に合わせて静かに詠い始めた。
「神よ……
常世と現世の境をひらきたまえ……
倭の光を、この地にふたたび……」
太鼓が高鳴る。
鈴が嵐のように揺れる。
巫女の白衣が舞い、影が渦を巻く。
日向姫の身体が、ふっと揺れた。
その瞳に、一瞬だけ金の火が灯る。
神降ろし――本物のトランスの気配。
背筋が総毛立った。
肌がぴりぴりと痺れる。
(やばい……本物の“神憑り”だ)
そのとき、俺の視界に、ありえないものが映った。
鏡の奥から伸びる細い光の糸が、
日向姫の胸の奥へと吸い込まれている。
光の糸は、俺のほうにも伸びてきていた。
まるで、鏡と日向姫と俺――三つを結ぶ線のように。
日向姫が、わずかに振り返る。
その瞳には、はっきりと俺の姿が映っていた。
「壹真……
わたしの光の人……
どうか、見届けてください……」
彼女は微笑んだ。
少女のあどけなさと、巫覡の覚悟を同時にたたえた表情で。
太鼓が止む。
鈴の音が静かに消えていく。
鏡の光が収束し、神域に深い静寂が降りた。
世界が息を潜める。
日向姫の澄んだ声だけが、そこに響いた。
「――神は、私を選ばれた」
巫女たちは一斉に頭を垂れ、
老臣たちは涙を浮かべて膝を折る。
倭国の未来を照らす“光の依代”。
それが今、ここで誕生したのだ。
俺は胸を押しつぶされそうになりながら、
ただ、その光景を見つめ続けていた。
(……これが、卑弥呼の始まりなんだ)
鏡はわずかに余光を残し、
その微細な揺らぎを――俺だけに見える形で、静かに放っていた。
【五 光の名を持つ者】
太鼓が止み、鈴の余韻が空気の中でかすかに震えながら消えていった。
日向姫は、細い肩を一度だけ上下させると、静かに息を吐いた。
その瞬間、張りつめていた神域の緊張がふっと緩み、
巫女たちの白衣が波のように揺れて地面に沈んでいく。
日向姫は、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。
さっきまで神の器だったとは信じられないほど、表情は人間らしい。
でも、その瞳の奥には、もう後戻りできない覚悟の色が宿っていた。
「壹真」
名前を呼ばれただけで、胸の奥がかすかに震える。
「さっきの……
あれは、なんだったんだ?」
俺は、言葉を選びながら尋ねた。
「鏡が光って、床の文様まで……まるで、生きてるみたいで」
日向姫は、少しだけ微笑んだ。
儀式のときの神々しさとは違う、ひとりの少女の微笑みだ。
「怖かったでしょう?」
「……まあ、正直、怖かった。
でも、それ以上に――すごかった。
あんなの、現代には存在しない」
「現代……」
日向姫は小さくその言葉をなぞる。
「あなたのいる世界では、
神が“降りる”場は、もう残っていないのね」
「儀式や祭りはあるけどさ。
さっきみたいに、本当に“何か”が来てるって感じることは……まず、ない」
日向姫は、そっと視線を落とした。
「さっき、あなたにも見えていたでしょう?
鏡から伸びる光の糸が」
心臓が跳ねた。
「……見えてた。
あれは……なんなんだ?」
「わたしにも、全部は分からない。
けれど――」
日向姫は小さく息を吸い、目を上げる。
「わたしには、あなたの周りに細い光の糸がいくつも見えた。
あなたが動くたび、それは“先”のほうへ引かれていく。
まるで、まだ来ぬ時の彼方に結び目があるみたいに」
(……未来)
口には出さなかったが、頭の中でその言葉が浮かんだ。
「だから、わたしは安心したの」
「安心……?」
「ええ。
わたしは今日、巫女として選ばれた。
これから、倭国を照らす“光の依代”として生きなければならない。
でも、光はひとりでは持てないの」
日向姫の瞳が、まっすぐ俺を射抜いた。
「あなたがいるなら、
わたしは闇に呑まれずにすむと思った」
喉が詰まる。
うまい返事なんて、すぐには出てこない。
代わりに、日向姫はそっと手を伸ばした。
儀式を終えたばかりの指先は、まだほんのりと熱を帯びている。
「壹真……
どうか、わたしのそばにいてください。
神としてではなく――ひとりの人として」
俺は、その手を見つめ、
そして、ゆっくりと握り返した。
「……ああ。
俺はどこにも行かない。
日向姫――君の光が消えないように、ずっと見てる」
日向姫の瞳に、かすかな涙がにじんだ。
けれどそれは、悲しみの涙じゃない。
未来に向けて、ほんの少しだけ開いた扉の隙間からこぼれる光のような涙だった。
神の儀式を終えたばかりの少女と、
異なる時代から迷い込んだ高校生。
この瞬間、俺たちの距離は、
ほんの一歩だけ、確かに近づいた。
倭国の運命は、静かに変わり始めている。
そして、俺と日向姫の物語も――
この日を境に、もう切り離せなくなっていくのだと、胸のどこかで分かっていた。
つづく。
「失われた光」は、Web小説と主題歌「Lost Light」が同時に紡ぐクロスメディア体験。
アニメではなく、“読む冒険”がここから始まる。
主題歌を聴く ➡ https://linkco.re/1SGztvQR
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