I have been pushed daisies
昔は世界が鮮やかな色で満たされていたというのに、今となってはモノクロしか見えなくなった。
暗闇のような冷たさが老若男女を襲う。
俺がみんなから無邪気さを奪っていると言うが、それは間違っていると誰か聞かせてくれないだろうか。
みんな口を揃えて言うんだ、自分は誰よりも優れているって。
みんなただの臆病者なのに。
運命は自分で切り拓くもの。
己の可能性を信じる人間達が揃いも揃って言う言葉、聞こえは悪くはないだろう。
けれど、自分で見たい夢を自由に選べないように、運命なんてものは理不尽にも押し付けられるものだ。始まりはいつもそうだ、何も知らない領域から因果は始まって、いつのまにか忍び寄ったそれはある日突然牙を剥く。
運命とは、非情なもの、無慈悲すぎるものだ。僕らの意思なぞ聞かずに、全てを潰し消し去っていく。愛も憎しみも関係なく無に還してしまう。
非情な刃が首に触れた時、人に残された選択肢はあまりにも少なすぎた。泥を見るのか星を見るのかは知らないが、そこに本当の人間の価値というものはあるのかもしれない。あの龍の唄を、僕は一生忘れないだろう。
あれは、好きな人達へと贈る反対言葉の愛の唄。
…先日訪れた時は年季の入った厳かなイメージであったのだが、今そこに鎮座している屋敷の窓はあちこち割れて、壁は獣の爪痕のようなものが残り、周辺に生えた植物達は無惨にも噛みちぎられていた。太陽が場違いのようにその屋敷を照らしている、だというのに…陰鬱すぎた。
無理もなかった、あんな事件が起きてしまったのだから。
「………よく来てくれた、アルカディア」
僕を出迎えた叡智さんは、いつもと違って熱を帯びたような声色をしていた。君は、強いな。本当に。
人間は窮地に追い詰められた時が最強だと言うが、まさに今の彼女がそれなのだろう。その強さが必要なのだろう。だから、彼女は普段から強いのだろう。壁にぶち当たっても、長女として妹達を導くために。
「アヴォルフやレオパルドは無事だった?」
アヴォルフ・ウェーア。寂滅さんの思念体である。それに対してレオパルド…レオパルド・マンハルトは黒豹を象った叡智さんの思念体である。こんな時でも、他人を思いやる心を忘れないとは。君は本当に凄い人だ。
「レオパルドがアヴォルフを庇う形にはなったけど、二人に目立った怪我はなかった。レオパルドが少しおでこをやったくらい」
「そうか……強いな」
「まるで君のようだね」
「…………………」
ぐっと、叡智さんは歯を食いしばって
「何人、死んだ」
空気が乾いた、その数字を言って良いのかためらってしまうほどだった。
「見つかった死体は少なくても500。きっと、その二、三倍は……覚悟しておいた方がいいと思う」
叡智さんは頭を壁に思い切り打ち付けた、その拍子に頭から血を流したが気にも留めなかった。呼吸をすることすら忘れそうで、時間が止まっているようで。
……やめろ、その苦しみは、その痛みは、君一人だけでは到底受け止められないよ。
僕まで憂鬱になりそうだった、いや実際そうなのだが。僕には彼女を慰めるだなんて芸当は出来なかった。
「………そう、か。できる限りの捜索を頼む、礼は心配しないでくれ。資金は十分にあるから」
…ぶっちゃけ、僕はお金なんて要らないよ。そう言いたかったが場合が場合なのでやめておいた。
「……幻さんと寂滅さんは」
「………寂滅は、土砂に巻き込まれた。幸いにも自力で脱出できたんだけど、今は吉弔達のところに居る。幻は………」
僕は幻さんの部屋の窓を見た。ところどころに穴が空いている、彼女が物でも投げて壊したのだろうか。
どうやら、かなり精神が乱れているようだ。
「私の……せいだ……私が…あの場所を選ばなければ……」
その事件はつい昨夜に起きた出来事だった。
幻さんの尽力によって、かつてない規模の演奏会が開かれたのだ。僕も未だにその光景を鮮明に覚えている。
その演奏会場に、土砂崩れが直撃したのだ。
演奏会には多数の人妖が来ていた、その大半はなす術なくその土砂に飲み込まれて死んだ。そう、身体が頑丈であるはずの妖怪でさえも大怪我を負った。人間達は……言ってしまえば全滅しているだろう。
まさに、誰かが描いた人妖の関わりを否定する暗黒郷である。
あの仏頂面な兄さんでさえも、動揺を隠せず呆然としていた。誰もがみんなそうだった。誰もが信じられずにいた。
巫女は現場を前に涙を流していた。僕も直接は見ていなくともその場に居たというのに、何故か冷静だった。それもそうか。
僕らはこの運命を知っていたんだから。
ああ、僕は昔から何も変わってないや。他人事は他人事、自分には関係ないと考えてしまっているのだ。なんという薄情者だろうか。でも、今はそんなことに感謝する。鬱の海に沈んでいる場合ではないのだ。
「叡智さん、あの時何が起きたのか教えてくれないかな」
僕は状況を把握しきれていなかった、生存者はみんな支離滅裂な言葉しか発さなかったから。
「………ごめん、今はまだ………そっとしておいてほしい」
「………わかった、しばらくは聞かないでおく。せっかくだから幻さんの容態を見せてよ」
叡智さんは困った顔をして悩んでいたが、僕を幻さんの部屋まで案内してくれた。
僕は深呼吸を二、三回行って、窓をコツコツとつつく。
「幻さん、僕だよ」
僕は幻さんの部屋を覗く、くまのぬいぐるみを抱きしめながら、幻さんはベッドの上で蹲っていた。その様は、色を無くした生きた白黒だった。そのまま放っておけば、溶けて消えてしまうかのように霞んでいた。
「幻さん」
声をかけても反応しない。まるでオブジェだ。
危惧していたことだった。彼女は幼すぎたんだ、この事件に対して彼女は脆すぎたんだ。
「君の楽器は無事だったよ、ここに置いておくね。…大丈夫、僕と兄さんでなんとかするから………それじゃあ、また……」
「重症だね」
「あの子は自分を責めてるんだ、土砂崩れの件を」
「違う。あれはどうしようもない、君達は悪くない」
叡智さんは唇を噛み締める、血が滲む。どうして、そこまで責任を感じているのだろうか。
「…………アルカディア、唄を探して……」
「唄?」
「最後の瞬間、空気に乗せられたあの唄を………」
叡智さんはそれっきり口を開かなくなった。僕は礼を言ってその場をあとにする。
「………こっちも、重症だな」
あの兄さんが、うずくまって震えていた。
「兄さん……」
「I……l couldn't save them……must haveknown……why………I must have under stood this……」
まるで、チワワみたいだった。恐怖しているわけではなかった、それは後悔だった、懺悔だった。
僕には到底兄さんを奮い立たせる語彙力はなかった。
僕は考える、土砂崩れが起こった瞬間は演奏の真っ只中だったはずだ。演目に何かあったとでも言うのだろうか。
灰色の空の下、僕は川を見る。土砂崩れのおかげできったねぇ色になってる。河童達がどれだけ土砂を取り除いても一行に戻る気配はない。
それにしても寒い、秋っていうのはこんなにも寒いものだったか。筵の下にいくつかの死体が見えた。河童は人間を盟友と呼ぶ、妖のくせして人間を他の輩から守っているのだ。
もはや周囲は今までの景色とは違ってしまった、ありとあらゆる場所が土砂で埋もれていた。あの濁流は、僕らから全てを奪った。土に埋もれる生きた骸達が天に向かって必死に腕を伸ばす。俺はここだ、助けてくれ、引っ張り出してくれ、と訴えている。でも、僕は通り過ぎることしかできなかった。二次災害が起きては元も子もないからだ。
「みんな、精神が参ってるな。解決してくれるのは時間だけか……」
僕は事故現場となった演奏会会場を見渡した。その裏手にそびえる崖と、広がる森も。元はとても綺麗に手入れされていたはずだったのに、今じゃなんとも言えないや。せいぜい見えるのはステージの残骸くらいだ。他のみんなは全て地層にサンドイッチにされているんだろうな。
僕ら人外も事故の後始末をし、吉弔達は怪我人の手当て、巫女は火を焚いて祈願していた。なかなかにカオスな光景である。
「ディマドリード、それに土蜘蛛。どうだ、進展はあったか?」
「いいえ……さっきから土蜘蛛さんと話していますが、どうしてこんな痛ましいことが起きたのかわからないんです……」
ディマドリード、兄さんの古くからの知り合いだ。
「そもそも、ここらの地盤は天狗の協力もあってかなり強固だったはずだ。ちょっとやそっとの雨じゃ緩むわけがないよ」
「当日は雨なんて降っていませんでしたからね」
「本当に兆候はなかったの?」
「………土砂崩れが発生したのは、此処よりも標高の高い、丁度一本杉のある場所です。土砂はそこから山を下り、丁度ステージ裏あたりにある崖を下って会場に直撃したようなのですが……」
つまり、かなりの距離を土砂は降りてきたというわけだ。かなり音も大きかったろう、誰もが気づかないわけがない。誰か一人くらい気がついていたはずだ。それとも、気づかないほど熱狂していたとでも言うのだろうか。
「カナヘビ達によると、その一本杉のあたりで事故発生の時間帯に局所的なごく小規模の地震が観測されたようです。土砂崩れとの関連は不明ですが」
「地震……」
それが、原因なのか?
「とにかく、これからも連絡を取り合いましょう。ギブアンドテイクです」
「ああ」
僕は見知った姿の人を見かけた。
「寂滅さん!!」
僕は駆け寄る、振り向いた彼女の哀しい視線に思わず身体が固まってしまった。頭から右目にかけて白い包帯が巻かれ、足にはギプスが付けられていたのだ。
「まさか………病院から抜け出してきたの?」
「……アルカディア……」
僕を見た途端、寂滅さんは泣き始めた。彼女もまた、心に傷を負った被害者なのだ。
「とにかく、戻って休まないとだめだよ」
「いないんだよ………」
「え?」
「彼がいないんだよ!!」
「………………まさか」
兄さん?
「いつもの時間に行ったのに!来てなかったんだよ……まさか、土砂崩れに巻き込まれたんじゃ……」
バカな、兄さんがそんなのに巻き込まれるわけがない。そうだとしても死ぬはずがない。
「大丈夫だ、兄さんはきっとみんなと一緒に避難したんだよ」
「本当に……?」
「ああ、きっと。あまりネガティブシンキングするのは良くないよ。いつも君言ってるじゃない、ポジティブシンキングが大事なんだって」
寂滅さんの頭をそっと撫でる。少しだけ、安心したようだった。
「………!」
刹那、何かが飛んでくる音がした。僕は寂滅さんを抱きしめる。
「いっづ!!!」
背中にほとばしる激痛、僕の背中に赤い札が食い込んでいた。
「なんだよこれ…紙の皮を被ったナイフかよ……」
「やめろ、イージス!!」
殺戮の波動の向こうからやってきたのは、魔法使いのアビスである。アビスはそのまま殺意の衝動に駆られたイージスを羽交締めした。
「イージス!それ以上はダメだ!!」
「離しなさい!!!」
僕は寂滅さんを背後に隠して問う。
「なんのつもりだ、巫女」
その瞳はさながら理性を失った野獣のよう。
「この異変を解決しにきた、さっさとその騒霊を渡せ」
「異変だと? 君の頭からネジが数本ぶっ飛んでしまったみたいだね。これは事故だ、誰がどう見てもな」
「事故だと!!?人がたくさん死んだというのにこれのどこが異変じゃないと言える!!」
「寂滅さんを殺したって何も変わらないさ」
「そいつを殺せば異変は終わる!!今思えばそうだ、昔からそいつは人間を殺してきた!!」
「君の仕事は妖怪に八つ当たりすることか?見ろ、この痛ましい現実を!君の復讐心を満たしたところで死んだ人間が生き返るわけじゃないぞ!!」
その僕の言葉に怯んだイージス、アビスは咄嗟にお祓い棒をはたき落とした。
「そうだぞ、今更仲違いしたって意味がないだろ!!一体誰が得するっていうんだ!!」
「なら、一体どうしろという!!こんなにも…人が死んだというのに…!!私は…巫女なのに!!!」
巫女といえど人間、この重圧に耐えられるわけがない。
「君がみんなを勇気づけるんだ、不安になっているみんなをな」
とは言ってみたけど、そんな簡単にできるわけないよ。
「寂滅さん、怪我はない?」
僕は振り返る、そこに寂滅さんは居なかった。
「……まさか、兄さんを探しに行ったの?」
既に日は傾き始めていた。今はただこの日の短さが憎い。叡智は夜が来ることを恐れていた、部屋で一人でいればあの出来事を思い出してしまうから。恐ろしい土砂の波が凄まじい音を鳴らしながら襲ってきたあの瞬間、未だに頭の中に居座ってちっとも離れやしない。あの時聞こえたあの唄も、それが途切れる瞬間も。
午後になってからは、曇天の空が少しずつ明るさを取り戻していった。叡智は幻の世話をする時間だと思った。いや、正直に言えば一人で居るのが辛いのだ。
彼女の大好物の梨を剥いて、精神を安定させる薬と水を持って、幻の部屋へと向かう。
相変わらずノックをしても返事はなかった。叡智は幻の部屋へと入った。
幻はその部屋には居なかった。
見慣れた妹の部屋で幻だけが居なくなっていた。その様子に叡智はひどく動揺した。あの状況で一体どこへ行ったというのだろうか。家中を探しても幻は見つからなかった。
ふと、思い出した。アルカディアが探し出してくれた楽器が消えていた。彼女が大事にしていたあのぬいぐるみも。叡智は知っていた、幻の精神の幼さを。毎回ステージに上がるたびにプレッシャーに足を震わせていることも。そして、それを支えていたのは他でもないエルドラドであることも。
もしかしたら、エルドラドに会いにいったのではないか。
そう考えた叡智はすぐに支度をして家を飛び出した。
ぐずぐずしていたら日が沈んでしまう、叡智は早足で幻の姿を探した。
風はとても埃っぽく感じた。
人里はあまりにも静かだった、不気味だった。いつもの活気じみた人里とは思えないほどに異常だった。
みんな怯えているのだ、今回の事件はみんなを恐怖の底に突き落としたのだ。
「教えてよ!!別に減るもんじゃないだろ!!!」
遠くから聞き覚えのある声がした。
「だっ、だから知らないって言ってるじゃないか」
「このケチんぼ!!」
「知らないものは知らないんだよ!!仕方ないだろ!!?」
寂滅であった。彼女は青年に掴みかかるほどの勢いで問いつめていた。
土砂に飲まれて入院していたはずだが、どうやら抜け出してきたらしい。頭に巻かれた包帯とギプスが痛々しい。その見た目に反して元気いっぱいに青年に食ってかかっている。
「貴方人里に詳しいんでしょ!!!教えてよ!!!」
「や、やめろ!!体毛は引っ張るなし!!!」
とうとう本気で襲い始めたので叡智は慌てて制止に入った。
「寂滅、落ち着くんだ。すまなかった、妹が迷惑したな」
力ずくでひっぺがすと、青年は大きく後ろに下がった。
「姉さん……!!!」
寂滅は叡智を見ると泣き出してしまった。
「どうした、何があったんだ」
「いないんだよ!!彼が見当たらないんだよ!!!」
「彼? もしかして、エルドラドのことか?」
最近寂滅はエルドラドに草笛を教えてやっているらしい。エルドラドが土砂に巻き込まれたんじゃないかと心配しているようだ。
「冷静になれ寂滅、彼が土砂崩れに巻き込まれるわけがない。仮にそうだとしても死ぬはずがない。きっと、無事だから」
「本当に……??」
「ああ、きっと。それより、幻を見なかったか。ここに来てると思ったんだが」
エルドラドに会いにきたと踏んだのだが、そもそも彼がどこに居るのか叡智は検討もついていなかったのだ。
「そこの青年、私達の妹を見なかったか。背は私より頭一つ小さいんだが」
「し、知らないよ。あー、痛かった……」
「なら、金色のドラゴンは?」
「そんなドラゴン見たことないよ」
「使えない奴だな!!!」
また寂滅が激昂し始めたので叡智は寂滅を羽交締めした。
「知らないものは知らないんだよ………」
そうとならば探すしかない。
「アルカディアを見つけるしかない。寂滅、アルカディアはどこに居るんだ?」
「少し前に山で会ったよ」
「山……か…」
もう一度、あの事故現場に赴かなければならないのか。いや、行くしかないのだろう。
「蒼冬!」
「げっ!!」
人里に来ると蒼冬と会った。彼は僕を見ると眉をひそめた。
「…? ちょうど良かった、寂滅さんを見かけなかった?ふわふわとした髪の毛で身長はこのくらいで………」
「ああ…知ってるよ」
「………なんで怒ってるのさ?」
「……あの山に行くってさ。お姉さんと一緒に貴殿を探していたらしいぞ」
「僕を?」
しまった、入れ違いになってしまったのか。
「早く行った方が良いんじゃないのか、妹さんが居なくなったんだろう」
「幻さんが?」
あの色の抜けた幻さんが何処かに行ってしまったのか。彼女を見つけるために叡智さんもまた僕を探していたのか。そうとなれば早く山に行かなければ。
「それじゃ、私は行くところがあるから」
そうやって去ろうとする蒼冬の腕を掴む。
「な、なんだよ」
「蒼冬、その右足…どうしたんだい?」
蒼冬の右足には包帯が巻かれていた。
「怪我したんだよ…その……昨日にな」
「演奏会に行ったのか」
「そうだ」
「よく無事だったね」
「私は運良く土砂崩れのコースから外れていたんだ、まぁ逃げる途中で飛んできた岩の断片にぶつかってしまったが。後ろの席だったし、すぐに正気に戻れて良かったよ……」
…………待て、彼は今なんて言った?
「…蒼冬、正気とは何だ?演奏会に何かあったのか?」
僕は震える声を押さえて聞く、蒼冬はしまったというような顔をして
「別に、私は彼女達を恨んでいるわけではない。土砂崩れは彼女達の責任ではないんだ。あれは、ある意味不可抗力だったんだ、誰も悪くないんだよ…………」
「だから何なんだよ!!」
僕は思わず蒼冬の胸ぐらを掴む。
「土砂崩れが起きた際の演目は………三人一緒のアンサンブルだったんだ。盛り上がりの中の盛り上がりだったんだ。みんな理性を失って、本気でライブを楽しんでたんだ………」
そうか……だからなのか……なんてことだ……
「それが、あの被害規模の理由だったのか……」
ライブを楽しむことだけに、意識を向けすぎた末路だったのか………だから、あの三人は異常なまでに責任を感じてたのか………
「私は本当に運が良かった、土砂崩れが起きる寸前、どこからか唄が聞こえたんだ。それが雑音となって私は理性を取り戻すことが出来たんだよ」
「唄?」
「ステージの裏手の方から……誰かがあそこに居たんだ」
それが、叡智さんの言っていた最後の唄の正体か。
僕は翼脚を広げて飛んでいた。茜色が僕の翼に反射している。
まだ残っている、あの唄が途切れるその瞬間が。
きっと、事故の直前にまで唄っていたんだ。
幻さん、まさか君は既に気づいていたのか。あの影の正体を……!!!
「幻さん!!!」
崖上、事故の傷跡が刻まれたこの地。幻さんは大きな岩の前で蹲っていた。その両手の爪は剥がれ、指先の皮膚は破れ、流れ出した血で赤く染まっている。手で土を掻き分けたのだろう。岩の前には大きな穴が出来ている。まるで墓穴のように。
僕は息を飲んだ。
「アルカディア………」
幻さんの無機質な声が響く、彼女は振り返らなかった。じっと何かを見つめている、何かを手にしている。
気が狂いそうなほどの静寂の下、僕は覚悟を決めて彼女に近づく。彼女の手は誰かの手を握っていた。その先は大地だった。腕は地面から伸びていたのだ、土と汚水と血と肉と脳漿が混じり合った地面の中から。
「………!!!」
僕は正体を理解した、思わず目を閉じて口に力を込めた。
一見しただけじゃ、これが元々龍の身体を保っていただなんて誰も信じてはくれないだろう。砕けた白い骨と赤紫色の肉片が土と混ざり合い、気味の悪い色をした土塊となっている。血で湿り気を帯びたそれは鼻の曲がるような悪臭を放ち、暮れなずむ空から差し込む赤光で紅く紅く彩られていた。
絶望の色をした墓穴の中で、金色の石が奇跡のように輝いている。
「アルカディア!!それに幻も…!!!」
「姉さん…達…」
お姉さん二人が僕達のところにやってくる。
「ダメだ!!こっちに来てはいけない!!!」
だけど、その僕の必死の行動を嘲笑うかのように、幻さんは振り返って
「ごめんなさい……姉さん達……」
「え? 誰かが……死んでるの?」
最初、二人は幻さんのただならぬ様子に驚いていたが、幻さんの手を握る金色の手の近くにあった萎びた緑葉、そして赤紫の土塊で汚れた硝子細工の明星達が、鈍い光を放っている。
「あ…………」
気づいてしまったのだろう。寂滅さんは両手で顔を押さえて狼のように哀しい雄叫びをあげた。叡智さんは目を見開いて顔を蒼白にし泣いていた。
駆け寄ろうとしたのか寂滅さんは転んだ、泥まみれになりながらまた叫んだ。
「なんで……なんで彼がここに居るんだよッ!!!???」
「寂滅………」
「姉さんの嘘つき!!!彼は土砂崩れなんかに巻き込まれるわけがないって言ったじゃんか!!!死ぬはずないって言ったじゃんか!!!!」
「寂滅……寂滅……」
叡智さんは泣き叫ぶ寂滅さんをぎゅっと抱きしめて宥めた。
「なんで!!なんで幻はそんな平気な顔をしていられるの!!?」
「寂滅…やめるんだ……」
「なんで!!あんなに幻に好意を示してたのに!!貴方も彼が好きだったんでしょ!!?なのに……なんでなんだよーーーッ!!!!」
寂滅さんの言葉に、幻さんは答えた。
「……さぁ、それが私にもわからないんだよ」
悲しい顔で、ただ笑っていた。
「っ……」
僕は見ていられなかった、辛すぎて、憐れすぎて………
「姉さん、私おかしくなっちゃったのかな。エルドラドが死んだっていうのに、少しも涙が出ないんだ」
狂ってしまったのか、楽しそうにその唇を動かした。
「それとも……元から私はおかしな子だったのかな?」
笑いながら、幻さんはぬいぐるみを置いてどこかに行ってしまった。
「な……何があったのですかみなさん………」
そこに居たのはディマドリードだった。寂滅さんは泣きじゃくって、叡智さんは術なしに座り込んでいた。動揺するのも無理はなかった。
「ディマドリード、もうすぐ日が沈む。撤収にかかって」
「ああ……わかり、ました……」
僕達は寂滅さんを仮設テントまで運んだ。元々怪我をしていたことも相まってか、寂滅さんをベッドに寝かせるとすぐに眠ってしまった。冷静さを装っていた叡智さんはやがて僕に話し始めた。
「幻は、弱い子だった。あの子の支えになっていたのはエルドラドだったんだ。唯一、幻に寄り添ってくれた人だったから。きっと、エルドラドが聞いてくれていると信じて思い切り身体の底から演奏していたんだと思う」
それは兄さんも知っていたはずだ、口ではああ言っていたけど、誰よりも幻さんのことを心配していたんだ。
「エルドラドが草笛を演奏していなかったら、きっともっと被害が………くそ、私がもっとしゃんと周りに気を配れていれば……」
「…………」
「幻と寂滅が前喧嘩してたのは覚えているでしょう? あれは幻が独りではないと語りかけるためのものなんだ」
「そうだったの」
「…アルカディア、寂滅をお願い」
「叡智さんは?」
「幻を一人にしておくわけにはいかない、姉である私が迎えに行く」
それは強い意志だった。やはり、彼女は強かった。当時の警備は会場周辺だけだったらしい。それをどうにか知った兄さんは会場を見下ろせるあの場所から、三人を覗いていたんだ。
「まったく、馬鹿な兄貴だ………」
あの兄さんが死んだとわかった時、まるで幻想を見ているような気分だった。兄さんが草笛を吹いていた理由、おそらくあの土砂崩れから出来る限り多くの人間達を救うためだ。あの人間嫌いの兄さんがだ。それは、きっと凄いことなんだろう。でも、僕は一方でこう思う
君だけでも、逃げてくれればよかったのに。
「兄さん、僕は兄さんの考えていることがわからないよ」
「……………」
「寂滅さん!起きたの?」
僕の言葉に耳も貸さず、寂滅さんはくまのぬいぐるみを眺めていた。
「………ん」
寂滅さんは痛そうにその身体を起こして、ぬいぐるみを抱えて歩いて行った。
「たくさん……死んだんだね。彼が唄っていなかったら、もっとたくさんの人たちが死んでしまっていた。私も聞こえてた、あの唄が途切れるその瞬間。自分のことなんてお構いなしに、他人を助けるために。英雄だよ、彼は」
「そうかな」
「え?」
僕は彼女に兄さんのチョーカーを渡してこう言った。
「僕の知ってる兄さんは、ただの協調性のない仏頂面した黄金郷だよ。英雄でもなんでもない、ただのドラゴンなんだ。君達のことが、好きなだけのドラゴンなんだ。兄さんはきっと………」
その時聞こえてきた、誰かがこちらに走ってくる音が。
「蒼冬ちゃん!」
虎の姿になっていた蒼冬が言う。
「二人共……大変だ……里のみんなが……」
鋭い霊気が僕の胸を刺す。
「………何が」
「連れ去られた…みんなあの音に誘われて……」
「あの音?」
「黄泉 幻の奏でるあの音色だよ!!」
「幻が!?」
その直後、聞こえてきたんだ。刺すように激しく、ぐるぐると音調を変えていくその音の声を。それは、まるで呪文のように、訴えるかのように。
「みんな、彼女の音色を聞いた途端に操られたかのようについていったんだ!!」
…そういえば、聞いたことがある。ある笛吹きが鼠を追い払った報酬をくれなかった腹いせに町中の子供達をその音色で連れ去ってしまった童話を…!!
「アルカディア、彼女は狂気に満ちていた。目を紅く染めてまるで悪魔のようだった…」
「幻………」
彼女は逃げているんだ、兄さんが死んでしまったというその現実から。これはもう異変だ、彼女は人間を連れ去って一体何をするつもりなんだ!!?
「寂滅さん、早く行こう。幻さんを止められるのは君達お姉さんだけなんだ」
「…………」
「救えるのは君達だけなんだ!!」
「……うん、このままじゃ幻は巫女に退治されちゃう。そんなの嫌だよ。エルドラドの死も無駄にしたくない」
寂滅さんは砕けかけたチョーカーを強く握って
「エルドラド、貴方の力も貸して」
「行くぞ!」
「うん!」
月の下、有象無象がざわめく森の上を飛ぶ。近づくにつれて凶悪な音色が強まるのがわかる。
「見えた!!」
ステージの残骸の上で狂った速さで楽器に手を滑らす幻さんがいた。口からは泡を吐き目は紅に染まっている。
ステージの下では人間達が彼女と同じように踊り狂っていた。まるで彼女の掌で踊らされる絡繰人形のように。
「まさか……これほどとは」
人間達が地団駄を踏む衝撃はまさに地震だった。このまま放っておけば二次災害が起きる確率が非常に高い。
「あの出来事を再現するつもりなのか!!?」
君は兄さんの後を追うつもりなのか、人間達を道連れにして!!
これじゃあsuiside paradeじゃないか!!
「これ以上は近づけないよ、どうしよう」
その時だ、もう一つの音、幽玄の音色が聞こえた。叡智さんだった。
叡智さんは地面に降り立つと、ちちちっ、と舌を鳴らした。その後に現れた黒豹…レオパルド。
「私が幻の気をひく、レオパルドは幻を気絶させてくれ」
「了解した」
叡智さんは幻さんの音色に己の音色をぶつけた、その隙にレオパルドはこの宵闇の中に身体を隠す。乱れる音調とは相反して、一定のリズムを保つその音色のおかげなのか、人間達の動きが鈍った気がした。
「姉さんの援護をしなくちゃ…アヴォルフ、居る!?」
「ここに」
アヴォルフが寂滅さんの背後から現れた。
「今だ!!!」
叡智さんの声を合図にレオパルドがその闇の中から姿を現した。決まった、完全な死角から突いたのだ。
そのはずだった。
「………………」
幻さんは不気味な笑みを浮かべた、彼女に穢れなんぞ似合わないというのに。すると、レオパルドは吹き飛んだ。完全な死角から突いたはずだというのに、幻さんの作り上げた音の障壁に阻まれ吹き飛ばされたのだ。
「レオパルド!」
レオパルドはそのまま木に激突して気絶してしまった。
「くそ!」
アヴォルフも続く、しかしある程度突進したところで身体が動かなくなった。まるで金縛りにあったかのように。
「………みんな消えちゃえ」
幻さんがそう言った時には、既にアヴォルフは摩擦するボールのように地面に転がっていた。その次の瞬間叡智さんと寂滅さんが左右から攻撃を仕掛けるがそれも虚しく不発に終わる。
「ぐわっ!!」
「いぎっ!!」
激しく幻さんに互いの頭をぶつけられ、そのまま遠くに吹き飛ばされる。
「ああ……来てしまったか…」
後ろからやってきたのはイージスだった。そのまた背後にはアビスが居る。
「そこを退け、白龍」
「悪いけど、人間の言うことは聞きたくない性分なんでね」
「もう人が死ぬのはたくさんなのよ、あの騒霊は退治する。邪魔をするならアンタもね」
「……君も同じ意見なのか、君は親友である幻さんを手にかけることに抵抗はないのか」
「こればかりは……仕方がないさ」
「そうか……二対一だな……」
僕如きに時間をかけたくないのか、イージスはその身体を淡い赤色に光らせた。その光はやがて各々へと分離して一つの弾幕となる。
「はっ……最初っから奥義をぶちかましてくるってわけかよ……」
あれをまともに喰らったら骨も残らないと言う噂である。さらに、彼女は本気だ。いくら僕でも致命傷で済まないかもしれないな。アビスも、その八卦炉に魔力を込めている。
「仕方がない、僕も本気を出すしかなさそうだ」
「アンタ如きが本気?笑わせるわね」
「その言葉、これでも言えるかな?」
僕は身体を変形させた、否…本来の姿へと戻した。身体にフィットしていた翼脚はさらに大きくなり、白銀の宝石が出現する。胴体は骸骨を模したブラスターのような形になる。
「な…それは…」
「これが本当の僕の姿だ」
そう、今までのは仮初の姿。本来の姿はあまり好きではなかったからね。イージスは危険を察知したのかその巨大な光の塊を次々と僕に向かって放った。だが、今の僕にはそんなもの避けるまでもない。翼脚の宝石から思いっきり白色光を放ち、全てを薙ぎ払ってやった。
「どうした、その程度なのか巫女っていう種族は」
アビスも続いて僕に攻撃を仕掛ける。その八卦炉にこもった魔力は大きな魔砲となって僕に飛んできた。だが僕は胴体から蒼白いレーザーを放ち、相殺してやった。
「これほどだったのか、お前の本気は」
「世界を揺るがした桃源郷の力はまだまだだぞ。まぁ……僕は主役ではないからこれでやめるけどね」
僕はその闇の中から、一筋の光が降り立つのが見えた。
幻は完全に狂ってしまっていた。その凄まじい霊力は彼女の純粋さでさらに増幅されていた。澄んでいる分、強力なのだ。もはや、自他の判別なんぞ不可能になっていて、実の姉であるはずの叡智と寂滅に牙を剥く。
今は音を相殺することだけで精一杯だった。さらには今の幻の脳内には『容赦』という言葉は破り捨てられてしまっている。姉二人は疲労を覚えていた。
「姉さん……」
「くそ、アヴォルフとレオパルドが私達の中に戻ってくれれば…!」
「だめだよ!それじゃあ二人の身体が…!」
「わかってる、わかってるが…」
時間と比例するにつれて、幻の音色は邪に染まる。凶悪になっていく。全てを否定する音色に思わず尻込みをしかける。
「幻……正気に戻れ…!!エルドラドはもう……!!」
この状況、妹を殺すという選択肢すら頭によぎった。でも、そんなことはしたくなかった。彼女達三姉妹は誰も欠けてはいけないからだ。
「……ない……死ぬわけない……エルドラドは死んでない……」
「幻!!いい加減に認めろ!!エルドラドは…!!」
幻が大きくその楽器を叩きつけるその瞬間、どこからか音色が聞こえてきた。誰かに語りかける音色だった。
「……………………?」
その音色は幻の動きを止めた、徐々にその音は大きくなっていく。こちらに、誰かが来る。
「Dear……」
聞こえた、誰かの声が。何を言っているのかわからなかった、アルカディアと幻を除いて。
「Dear………I'm already dead………Understanding what you are doing………Please……stop crying……」
現れた一人の龍、その金色の身体は赤茶色に錆びてしまっていた。
「………エルドラド!!?」
「馬鹿な!!?貴方はあの土砂崩れに飲まれたんじゃないのか!!?」
兄さんは二人の言葉を無視して、幻さんのもとへと。
「幻……もうやめてくれ……そんなお前なんて死に際に見たくないよ………」
「……………」
すると、さっきまで乱れまくっていた霊力の流れがケロッと安定していった。
「……わざわざ生き返ってまた私に嫌味でも言いにきたわけ?」
「それは……」
「なんでだよ……どうしちゃったんだよエルドラド!!どうして………一緒に居てくれないの……昔はいつも一緒だったのに……突然居なくなって……また突然姿を見せたと思ったら…ものすごく冷たくて……エルドラドがわかんないよ!!!」
「ごめんな…幻……全部、俺のせいなんだよ……」
幻さんは兄さんを見た。兄さんの身体はボロボロで朽ちていた、まるで乾いた土塊人形のように。いや………
「エルドラド……説明してくれないか……貴方が今ここに居るならあの死体は一体誰なんだ!?」
叡智さんの問いに、兄さんはゆっくり答えた。
「姉ちゃん、逆だぜ。あの死体はエルドラドだ、俺が誰なのかを聞くべきだ。まぁ、重要なところを話してしまえば……この土砂崩れの事件の黒幕は俺だ」
兄さんのその言葉に、みんな驚愕した。当たり前だ。
「エルドラドが……犯人なの?」
「あぁ、これは嘘じゃないぜ。マジだ」
「エルドラド…そんな…」
「本当だぜ」
「エルドラド!!貴方馬鹿なの!!?今回の件で一体どれほどの人達が亡くなったか知ってるの!!?」
「俺の時よりは少ないだろ?」
「………え?」
「待て、貴方は……」
「俺はあの土砂崩れで死んだエルドラドだ。土砂崩れを起こしたのは過去の俺だ。この意味、頭の良い幻ならわかるな?」
「………未来から、やってきたの?」
「ご名答だ」
兄さんは朗らかに笑う。
「俺さ、人間が憎くて憎くて仕方がなかったんだ。人間は平気で俺たちを虐げているくせに、当の本人たちは幸せそうに暮らしている。不公平だとは思わないか?どうして俺たちだけが苦しまなきゃならないんだって。他の何かが生きるためには他の何かを粉々にしなくちゃならない。だから決めた、人間達に畏怖の傷跡を刻んでやろうと」
兄さんの語りに誰も割り込まなかった。みんな静かに聞いていた。
「そこで出会ったのがお前達だった。お前達は演奏家だ、多くの観客達がお前達のライブを見にきていることを知った時、俺は思ったんだ。それを利用して人間達を殺せないかなって」
「え………」
幻さんは兄さんのその言葉を信じられなかった。
「じゃあ……今まで私と仲良くしていたのは……人間達を…殺すためだったの?」
「結果論としちゃあそうなるな」
「………よ、ひどいよエルドラドっ……」
幻さんが泣き始めた。
「人間を殺すために私と友達になっただなんて……ひどいよっ………」
それを見た兄さんは少し哀しい顔をして続けた。
「それでな、お前達が演奏会をする日……まさしく今回の件だ。俺はその日のために準備をしていたんだ。聞いただろ、ディマドリードから。この上の一本杉辺りで小規模な地震が起きたと」
「ああ」
「そこに俺は爆弾を仕掛けてたんだ、お前達がクライマックスパートを演奏する時間に合わせてな。そして、俺はそのままずらかって土砂崩れが起きるのを待つつもりだったんだ……」
「………『だった』?」
兄さんは頭を抱えた。
「思い出してしまったんだ……幻と……お前達と過ごしたあの日常を……いつも嬉しそうに話しかけてくる幻を思い出してわかったんだ…俺はお前が好きだったんだってことを」
ぐっと、幻さんの瞳を見て
「途端に俺は罪悪感に陥ったんだ、人間達を殺すためにお前らごと…その幸せごと土砂崩れに飲み込ませようとした自分を責めた。お前を裏切りたくないと思った。俺は土砂崩れを止めようと爆弾の回収に向かった。でも、遅かった……すでに爆弾は爆発してしまっていた!! 俺はすぐさまそれを伝えようとした、でもお前らはライブに夢中でちっとも聞く耳を持ってくれなかった……さらに土砂崩れは俺の想定以上の脅威だった………その結果……俺もお前らもライブに参加していた輩全員も………みんな、土砂崩れに飲まれて死んだ」
兄さんは眉をひそめて自分を蔑む。
「俺はなんて馬鹿だったんだ。俺は後悔の念を強く持ったまま土の中で眠った。その後、嵐が来た。ざあざあと豪雨を降らし、一つの雷を墓石に落とした。不思議なこともあるものだ、俺は生き返っていた。時間制限つきで。俺は思い出した、確か過去に戻れる懐中時計があったはずだと。俺はそれを使ってここの時間軸まで戻ってきた……というわけだ」
しばらくの間、静寂が続いた。刹那、その静寂を破ったのはイージスだった。
「…アンタほどの人なら土砂崩れを止められたんじゃないの?」
「無理言うなよ…いくら俺でもあれは対処のしようがねぇ。それに、過去は一気に変えられない、未来に支障をきたしてしまうから。地道に…少しずつ改善するしか方法はない。でも、おかげで少しずつ被害にあって死んだ人間は減ってきている。本当だ」
「…………エルドラド」
「ごめんな…幻…本当にごめんな……お前に冷たくしてたわけじゃないんだ……お前を心配したかった……でも、この口は誰かを思いやる言葉を忘れちまって……どう頑張ってもお前を慰められない……」
兄さんの身体が崩れ始める。
「エルドラド!!」
「ああくそ……時間みたいだ……」
「……消えちゃうの?死んじゃうの?」
「……落ちた雷の電力が著しく低下した挙句、体内の水分もカラカラになって電気分解できなくなってしまったんだ。おかげでこの身体を保つための水素も行動するための酸素も確保できない。おまけに身体の血肉も腐って使い物にならない。俺はもうすぐ砂のように散っていくだろうよ……」
「いやだ……やだよ……消えないで……」
「さっきも言っただろう、俺は既に死んでいるんだ。死んだ奴は生きてちゃいけないんだ。わかるだろ、そんなルールくらい」
「わかんないよ……」
「いつまでも子供なやつだ。いい加減現実を見ろ」
ボロリ、と勢いよく兄さんの身体が砕ける。残ったのは首から上だけになった。幻さんはその首を抱いた。
「消えるのは別に怖くねぇんだ、死んでるしな。ただ、一つ心残りがあるとするなら……」
兄さんは目を閉じ、乾いた声で言う。
「お前を褒められなかったことくらいだな。だから、今言うよ。お前は偉いな、努力家で、優しくて、一生懸命で、音楽を心の底から愛していて……」
「……えへへ、偉いでしょ」
幻さんが苦しそうにそう答えた。
「こんな俺でも、愛してくれる奴は居るのかな?」
「………………好きだよ。大好き」
「杞憂だったみたいだな…………じゃあな……家族とうまくやるんだぞ……」
その言葉の後、微風が兄さんの身体の粒子を攫っていった。粉微塵に、兄さんは消えてしまった。
「それじゃあ……僕は帰りますかね」
「……アルカディア」
「…幻さん、寂滅さん、叡智さん。それに、他の人も。僕の役目はこれで終わりなんだ。この役目はこの世界の兄さんと僕が引き継いでくれるから、心配しないで」
最後に、僕は彼女達の方を見て
「………前の世界で最後にしてあげられなくてごめんね。でも、これをずっと繰り返せば…いつか、いつになるのかはわからないけど……土砂崩れの悲劇は喜劇に変わるよ。いつの日か」
そう言い残して、僕は僕のいるべき場所に帰った。
僕はあの唄を忘れはしない。不器用な龍が騒霊に贈る、反対言葉の愛の唄。
人生以上に価値のあるものはあるのだろうか。
今日死んでも構わない、いつだってそう思ってた。
君の壺から溢れた水が、俺の乾いた土に植えられた苗木を生長させたんだ。
君と生きたいと思ったんだ、今思えばそれが悪夢の始まりだったんだろうな。
言葉を使わなければ痛みは伝わらない。
俺は死んだ事実を隠すためにこの夜を永遠に過ごそう。