第83話「イヴ・リグレクト」
今、私の少し前をリダン様が歩いています。
リダン様はこちらを振り返ることもなく黙々と先を歩いているだけですが、先ほどからその後ろ姿を見ていると心がざわついてしまいます。
心を落ち着けるためにリダン様から視線を逸らしてみても、頭の中からはリダン様が離れてくれず、結局心はざわついたままです。
それから少しの間自分の頭の中と格闘しましたが、どうすることもできなかったので諦めて現状に身を委ねることにしました。
心がざわつくとは言っても胸が高鳴っているような感覚なので、悪いものではないと思う事にします。
思えば、ここ最近はいつもリダン様の事ばかり考えていた気がします。そして、その度に頭の中で葛藤を繰り返していました。
そしてそんな時、いつも頭の中に父の言葉がよぎりました。
『人を愛し、人から愛される人間になってほしい』
父は昔から良く私にそう言いました。
身内としての贔屓目が入っているかもしれませんが、私の父と母は領民の方々を始めとした多くの方々に慕われていると思います。そして、父と母もその方々をとても大切に思っていると思います。
幼い頃からそんな両親を見て育った私は、自然と自分自身もそんな人間になりたいと考えるようになりました。
だから私は両親のようになるにはどうしたら良いのかと父に聞きました。すると父は『人に寄り添える優しい人間になりなさい』と言いました。
私は父の教えの通り、人に優しく接するようになりました。周囲に気を配り、困っている方がいれば話を聞き、親身に寄り添い、少しでも誰かの助けになれるように心掛けました。
私がそうしていると、お屋敷で働いている方々やリグレクト領の領民の方々が『イヴは優しくて良い子』だと言ってくれるようになりました。両親も、そんな評判を受けて『イヴは自慢の娘』だと言ってくれました。
私はそれが嬉しくて、それまで以上に周囲に気を配るようになりました。
とは言っても、私は決して打算的な考えだけで人に接していたわけではありません。
初めのうちは両親のようになりたいという気持ちから人に優しく接していましたが、そうしている中で私は人の為に何かをすることに喜びを感じるようになりました。
そんな私は、15歳になる頃には昔以上に多くの方々から、良い人だ、優しい人だ、善人だといった評価を頂けるようになりました。
そして、そのような評価を受けることはやはりとても嬉しく、私にとっての誇りでもありました。
今のままの自分を貫いていけばいつかは両親のような人間になれると、そんな風に考えていました。
リダン様と初めてお会いしたのはそんな時でした。
リダン様はアスタの森で魔物に苦戦していた私達の前にさっそうと現れて、魔物をとても鮮やかに倒してしまいました。
私はリダン様のお姿を一目見た瞬間から、『悪魔の子』として噂されているリダン・ブラックヘロー様だと認識していました。『写し絵』の魔道具で取られたリダン様の写真を父に見せてもらったことがあったからです。
リダン様は魔物を倒した後はすぐに去って行こうとしていましたが、私はその背中に声をかけました。私がリダン様に声をかけたのは2つの理由がありました。
1つは領民の方々を助けたかったから。もう1つは、リダン様がどんなお方なのかを知りたかったからです。
悪魔の子の噂はどこからどこまでが本当なのか。あるいは全て嘘なのか。
もしかしたら噂のせいで窮屈で辛い思いをしているかもしれない。そうなのであれば、その気持ちに寄り添いたいと思っていました。
ですがそんな気持ちとは反対に、悪魔の子の噂が本当なのであれば警戒しなければならないと、恐れも抱いていました。
そんなちぐはぐな感情でリダン様に近づき、そしてあの出来事が起こりました。
リグレクト領にあるドミア渓谷で三つ首の魔物と遭遇し、足に怪我を負って逃げられなくなった私をリダン様が助けてくださいました。
リダン様はあんな凶暴そうな魔物が相手でも、それはもう鮮やかなお手並みで、赤子の手を捻るかの如く圧倒してしまいました。
私はそんなリダン様をみて、全身が凍り付いたように動かなくなりました。
噂など関係なく、この方、いえ、この存在は危険であると、全身が警笛を鳴らしているように感じました。
私はリダン様の存在が恐ろしくてたまらなくなりました。もし、リダン様のお力が私自身や、私の大切な方々に向けられることがあれば、抵抗する術もなく全て失われてしまうと、そう思いました。
私はリダン様から逃げて、距離を置きました。
私はその時に気が付いたんです。
今まで私が人に優しく接することができていたのは、自分自身が恵まれていて余裕があったからだったんだと。私は結局のところ、自分に余裕がなくなれば人に優しくできない偽善者でしかなく、両親のような人間にはなれないのだと。
私の心は、深く深くへと沈んでいきました。
それからしばらく経ち、少しだけ心が落ち着いたある時、ふと父の教えを改めて思い出しました。
『人に寄り添える優しい人間になりなさい』
私は自分自身に問いかけました。私は今、リダン様に寄り添えているでしょうか。優しい人間になれているでしょうか。
答えは考えるまでもなく明らかでした。私は一方的にリダン・ブラックヘロー様というお方を否定しました。
私はそんな自分が許せなくて、情けなくて、リダン様に寄り添う覚悟を決めました。
冷静になってみると、リダン様が恐ろしい存在ではないと思える部分がいくつも思い浮かびました。
アスタの森で私達を助けてくださったこと。私の失礼で不躾な頼みを聞いてくださったこと。怪我をした私を見捨てず、魔物を撃退してリグレクトのお屋敷の近くまで帰してくださったこと。
そして覚悟を決めた私は、お礼と謝罪をするためにリダン様の下へと向かいました。
リダン様と面と向かってお話をし、きちんとお礼と謝罪をして、リダン様への恐怖心に決着を付けに行きました。
ですが、それでもリダン様への恐怖心は完全には消えてはくれませんでした。
それからはリダン様にお伝えした通り、リダン様への恐怖心を認めたくなくて、無かったことにしたくて、入学してからは自分自身のエゴと実際に感じてしまう感情の間で葛藤をしながらずっとリダン様の事を見ていました。
リダン様が恐ろしい人間ではないと私がそう思いたいがために、リダン様の事をずっと気に掛けていました。
学園に入学してからのリダン様は、優しい一面をたくさん見せてくださいました。たまに恐ろしい一面が顔を覗かせることもありましたが、それでも私にとってのリダン様への印象は確実に良い物へと変わっていきました。
そして今日。私は1つの覚悟を決めていました。それは、リダン様にもう一歩だけ踏み込んでみること。
やはり、リダン様の事をもっと知りたいのなら心の奥深くまで踏み込まなければいけません。だから、そのためにまずは私のリダン様への思いを伝えることに決めました。
ですが結局、山頂で魔物が現れて私があの女性の方に連れていかれたことによって、私の覚悟は無駄になりました。
リダン様から引き離され、ゲートの向こう側で拘束された私は、あの女性から色々な質問をされました。
私自身の名前やリダン様との関係など、質問は様々で全てを詳細には覚えていませんが、リダン様と私の事を中心に聞かれたことは覚えています。
私は質問に対してはずっと無言を貫きました。すると、あの女性は手に持っていた剣で何度も私を斬りつけてきました。
しばらく軽い拷問のような状況が続き、私の精神は蝕まれていきました。
次第に体に走る痛みが強くなっていき、私の心が完全に折れかけたその時、リダン様は現れました。
リダン様の腕の中に抱き上げられた時、最初に感じたのは強い安堵感でした。その瞬間、私は心の奥底でリダン様が助けに来てくださることを期待していたことに気が付きました。
そして同時に、私は私自身が思っていた以上にリダン・ブラックヘロー様というお方を信頼していたことに気が付きました。
私がその時の事を思い出し、改めてリダン様の後ろ姿を眺めると、体についたたくさんの傷跡が目に留まり、私の思考がそちらに移りました。
あの恐ろしい女性から私を逃がすために負った傷。
リダン様は危険を顧みずに助けに来てくださっただけでなく、身を挺して私を守ってくださいました。
どうしてそんな方を怖いと思うことができるでしょうか。
具体的にどのタイミングかは覚えていませんが、いつの間にか私の抱いていたリダン様への恐怖心は完全になくなっていました。
初めてお会いした日から、私はリダン様にご迷惑をおかけしてばかりな気がします。それとは逆に、リダン様からは与えてらもらってばかりです。
だから私はリダン様にお返ししたいと思います。
私は、リダン様は悪魔の子の噂のせいでずっと苦しんでこられたんだと思っています。時折見せる恐ろしい一面も、きっと噂によって受けた心の傷が原因なのでしょう。
もしかしたらこれもまた、私がそう思いたいだけなのかもしれません。けれど、それでもいいと思います。
きっと私は両親のような人間にはなれません。リダン様と出会って、色々な経験をして、そう思うようになりました。
ですが、もうそれは構いません。
それよりも、悪魔の子の噂のせいで今まで苦しんできたかもしれないリダン様を、誰よりも傍で見守り、支えられる人間になりたい。今はそう思います。
私はもう一度リダン様を真っすぐに見つめました。
先ほどからずっと収まらないこの心のざわつき。何故こんなにも胸が高鳴るのか、私自身もはっきりとは分かっていません。
ですが、今思考を巡らせていく中で1つだけ思い当たるものがありました。
これはもしかしたら、ずっと昔から両親が教えてくれていたものなのかもしれません。
第4章はこれで完結となります。
次回更新は1ヵ月から2ヵ月後の予定です。
これからもこの作品を読んで少しでも楽しんで頂けますと非情に嬉しいです。
もし面白いと思って頂けたなら、『ブックマークに追加』という黄色いボタンからブックマークをしてもらえると、とても励みになります。良ければよろしくお願いします。




