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鉄塔のアエネイス  作者: 民間人。
1901年
98/361

‐‐1901年夏の第二月第三週、エストーラ、宮廷動物園‐‐

 ベリザリオ様の願い入れにより、複葉機の操縦者は一般からではなく、軍部から抜擢されることが決まりました。陛下は先ず、陸軍・海軍から、情報漏洩の恐れがない人物をリストに纏めます。次に、ベリザリオ様がその中から厳選した人物を招集し、その肉体的、精神的な適正を診断します。そして、その人物に適性があると判断された場合、基礎訓練の後で、『夜間に』、ウネッザへの救出作戦を行います。そして、その予行演習として、晴れた天候のよい夜間に、物資の輸送任務を不定期的に行うことが決められました。


 臣民にはもちろん、官僚の多くにも知らされないで秘密裏に進められることになったこの計画は、ウネッザ包囲の重篤度を測るためにも、第一に調査を行うことが決められました。そして、ウネッザ周辺海域における包囲のされ方について、海上からは敵艦の存在が確認できないことから、敵は海底にあるという、(俄かには信じがたい)仮説が立てられたのです。ベリザリオ様はこの仮説を基に、敵艦への攻撃を基本的に想定した装備にしないことを決定しました。その分多くの人員を救出するためです。


 こうした諸々の決定を終えて、陛下はようやく、殆ど半年ぶりの、休日を過ごすこととなりました。


 緊急事態に対処するために、私と警備員の引率の下、陛下は銀の杖で体重を支えながら、宮廷所有の動物園へと赴きました。


「ここに来るのはいつぶりだろう……。随分と来れなかったように思う」


 陛下はまず、よちよちと歩く鳥たちの姿を、檻越しに眺めます。本当であれば陛下きっての願いで、彼らも檻から出しておくべきでしたが、脱走の恐れがあるため、実現は困難でした。


 陛下は普段よりいくらか足取り軽やかに、鹿や、猪や、豚や、水牛や、順路の途中にある植物群の様子を眺めておられます。


「第二次ブリュージュ侵攻以来ですから、2年は経ちますね」


「2年か。老いぼれにはあまりにも苛酷な月日だったよ」


 陛下は皺の寄った細い指で杖を大切に包まれます。水牛たちは私達に構わずに、干し草を食み、鼻水を垂らしています。


 そして、陛下は水牛の次に分厚く硬い皮膚を持つ獣の前で立ち止まります。

 その獣は、体毛のない体をたるんだような皮膚で包んでおり、一本の角を誇らしげに鼻の頭に乗せながら、のそり、のそりと歩いています。


「我が国が誇る宮廷画家にこの子を見せたら、きっと大層驚くだろうね」


「ふふ、陛下はそればかりですね」


 短い笑いが起こります。鎧を身に纏っていない、固くて丈夫な皮膚だけの獣は、その物憂げな瞳を水場に向けながら、平たい足で大地を踏みしめます。やがて、獣が私達にお尻を向けると、陛下は嬉しそうに潤んだ瞳を細められました。


「陛下は、彼らによく似ておられますね」


「そうか。彼らに似ているのなら、私はとても嬉しい」


 陛下は、獣の物憂げな瞳を優しい瞳で見送られます。細く皺の寄った無防備な皮膚を持つ、固くなり骨ばった掌が、杖をさり気なく持ち替えました。


 やがて、陛下は一羽の鳥の前で立ち止まられます。その鳥は、丸く愛らしい輪郭を持つ、大きな瞳の鳥でした。

 そして、陛下は杖を持つ手を緩め、若い頃のように真っすぐに背筋を伸ばすと、深く長い礼をされます。陛下はこの鳥の前に立つと、いつもそうするのです。



『僕は、行ってほしくないよ』


 私の父は、いつにも増して真剣な声でそう答えた。普段は何でも困ったように笑う父が、ただこの時だけ、はっきりと、そう反対した。


 あの頃はまだ、父を親父と呼んでいた。若い頃の私は、皇帝に招かれたこと、その血に与えられた使命を果たすことに、強い覚悟を持っていたのだ。


 だからこそ、父がそう言ったことはとてもショックだった。親父には、俺に皇帝の器が無いと見られているのかと感じたからだ。


 私が招かれた通り皇帝になりたいと言ったその夜、深夜にこっそりと両親の会話を盗み聞きしたものだ。


「フランは、心配じゃないの?皇帝になるということは、相応の責任を負うことだよ。まして、外国で育ったよく知らない人間に支配されるというのは、並の抵抗感じゃない」


 父は、普段では考えられないような、強い語気で話している。私は耳を扉に当て、息を殺した。


「私も、反対よ」


「だったら、どうして!」


 私は動揺した。夫婦喧嘩というものを、殆ど知らずに育ったからだ。大抵は、父の苦笑いで終わるか、母の溜息で終わる。そういう姿しか見たことがなかったのだ。

 今にして思えば、二人は私に関しては私の知らないところで喧嘩していたのかもしれないと思う。教育に関して言えば、父は過保護で、母は厳格であったからだ。

 ともあれ、普段から沈着冷静な母の、普段通りのきっぱりとした言葉にショックを受けた。その場から逃げ出したくなるのを抑えて、明るいガスランプを映す曇りガラスに耳をぴたりとつける。


 朧げな二人の影が、ランプのオレンジ色の下で向かい合っていた。


「分かるでしょう。あの子は、私達の持ち物じゃないの。ピアルの選択を否定して拒絶する権利は、私達にはないわ」


「それは……。だけど、命にかかわることだからさぁ……!」


 父の声は殆ど泣きかけていた。硝子越しに深い息を吐く。「権力を持つこと」の意味を知るほど、当時の私は年を取っていなかった。今度は大丈夫だと叫びたくなるのを堪えて、唇を引き結ぶ。


「仮に貴方の不安が的中するとしても、私はあの子の選択を尊重する。心を、奪うわけにはいかないでしょう?」


「命あってこその心だよ。仮にピアルが皇帝として生きていけたとしても、その先に自由はないよ。それはフランだってわかっているはずだ」


 宮殿での暮らしについて、最も近くで経験したことのある父だからこその、実感の籠った言葉ではあった。

 しかし、父は体の自由と心の自由を混ぜて考えているのではないかと思う。実際には、体の不自由があっても、心は自由であり、各々の選択に自由があるのだ。

 勿論母も父も、自由と幸福を混同するような浅慮な人ではなかった。その点で、恐らく私は愚かだったのだ。

 母は押し黙り、腕を組んだまま俯く。強く握った拳を机に乗せる父は、その勇ましい前屈みに反してしきりに鼻を啜った。


「そうね。あの子自身が自由を作り上げるしかないわ。私は信じて、送り出すだけよ」


 私は唇を噛んだ。フローリングに涙が零れないように、必死に上を向いた。


 皇帝になったら、両親や、同居人に会うことも出来なくなるだろう。宮廷に入ればしきたりに従って暮らし、見ず知らずの女性と結婚することになるだろう。

 冷静になった頭が途端にその先にある未来を読み取って、恐怖に駆られた。


『信じて』


 それでも母は、そう言って送り出すのだ。私という人間のことを思い、霊峰シュッツモートの山頂も霞む、はるかに高い覚悟で。


「分かった。僕は、ピアルが幸せでいられるように祈るよ」


 父は、消え入りそうな声で答えた。元より不安性の父だ、そう決めるには相当葛藤しただろう。


『幸せでいられるように』


 それでも父は、そう言って送り出すのだ。私という人間のことを思い、ウネッザの人々を守り養い続けた、海よりも深い優しさで。


 私は居てもたっても居られなくなり、二人の間に飛び込んだ。真っ赤に充血した目を見開いて、父は私を見る。その向かいで、静かに瞳を閉じた母が俯いている。


 こういう時に強いのは決まって父だった。父は涙を一杯に貯めて、目を細めて笑う。一筋の涙が頬を伝った。


「そういう事だから、反対してごめんね。怖くなったり、嫌になったり……。もし帰りたくなったら、帰ってくるんだよ」


「親父、ありがとう」


「胸を張って生きなさい。私に言えるのはそれだけよ」


「母さん、行ってきます」


 今の私がこうして皇帝としてやっていけるのは、年老いた顔も知らない二人のお陰だと思う。



 陛下は長い最敬礼をやめて顔を持ち上げます。私は首を傾げる梟を見上げる陛下のお傍に佇みます。


「おそらく、私は父に似たのだと思う」


 長い沈黙の後、陛下はぽつりと呟かれました。私は陛下の視線の先を追って、梟を見上げます。梟は音も立てずに、丸い体から羽を広げます。一本一本の羽根が、立体的な模様をし、寄り集まった翼は深い焦げ茶色に様々な光を受け止めています。


「そうかも知れませんね」


 聡明な丸い瞳は、ぐるりと首を半回転させたかと思うと、素早い動きで首を傾げました。


「ノア、付き合わせてすまないね。戻ろう」


 私は思わず、肩を揺らして吹き出してしまいます。


「そう畏まらずに。私と陛下の仲ではありませんか」


 陛下はよろめきながら銀の杖を軸にして踵を返します。私はその体を労わりながら、長い動物園の順路を戻っていきました。


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― 新着の感想 ―
[一言] 懐かしい彼らに出会えて涙が出そうになりました。 あれから二人の歴史が少しずつ紡がれていったのだと思うと…。 二人の愛の示し方がとてもそれぞれらしくて、微笑ましいです。 皇帝の優しすぎる性格…
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