‐‐1901年夏の第二月第三週、エストーラ、ベルクート宮‐‐
それはまさしく青天の霹靂でございました。エストーラ領ウネッザが、影も形も見えない敵に攻撃を受けているというのです。家臣一同はすぐさまベルクート宮の宮殿に集い、中でも慌てた様子で、ベリザリオ様は現れました。
彼の心配事は内心では、国家の危機ではなくウネッザにある商家の稼ぎの方であろうというのは、家臣一同のもっぱらの評価です。中でも直近で衝突したジェロニモ様などは、剥き出しの敵愾心を隠そうともしておりませんでした。
夏のベルクート宮は日差しがあまり差さない涼しい場所に建っておりましたが、この時ばかりは家臣一同汗まみれで到着し、すぐに水分を補給するという有様で御座いました。
家族の樹が描かれた壮大な壁画の末端に、年老いた陛下の肖像が未完成のままで書き残されています。私は陛下を労わりながら、その手を取り、家臣たちに少し遅れて到着します。陛下は家臣たちに普段通りの謝意を述べると、簡易の折り畳み椅子に、一度腰を下ろしました。
机も椅子もない、広い空間の中に、軍神オリエタスの武勲を讃える壁画が所狭しと刻まれています。陛下が静かに腰を下ろした背後には、首塚の前で剣を掲げるオリエタスのお馴染みの姿が描かれています。家臣たちが呼吸を整えるか、水分を補給して暫くすると、陛下は銀の杖に体の重心を預け、持ち手に覆いかぶさるようにして、塞ぎ込んでしまいます。
「先だっての報告の通り、プロアニアは我が国の交易の要衝の一つである、ウネッザに攻撃をしているようだ。……民間人が、多く犠牲となってしまった」
陛下は殆ど泣きそうな、弱弱しい声で仰いました。家臣のうち、最も血の気の多いジェロニモ様は、陛下に訴えるために、前のめりになり上奏されます。
「陛下、最早平和的な解決は困難です。我々もあのトンネルを解き、プロアニア本国に侵攻し、報復をするべきです」
「ジェロニモ君……。しかし、その為に血が流れるのは……」
「いい加減に話が通じない相手との対話はこりごりなのです!陛下、陸軍の一同も、いい加減フラストレーションが溜まっております!今なら存分に攻勢に出ることが出来る。彼らの意表を突き、敵の守りを分散させるべきなのです!」
ジェロニモ様は畳みかけるように続けます。陛下は弱弱しく、いえ、実際に弱り切った様子で顔を持ち上げ、殆ど毎日の労苦で充血したままの潤んだ瞳を、ジェロニモ様に向けました。
憔悴した陛下のお姿に、流石のジェロニモ様もそれ以上、強く訴えることが出来ません。彼は髪の毛まで持ち上げた腕を、そこから太腿の先まで振り下ろし、自らのやり場のない感情を訴えます。
常勝不敗のオリエタスの物語が、壁面全体に広がっていること、それがどれほどこの場にそぐわず、また陛下の御心を苛むのでしょうか。ジェロニモ様は丁度、荒野の戦場に佇んで、剣を天へ向ける軍神の姿を背景に背負っておられました。
「落ち着きなさい、ジェロニモ様。危機的な状況で最も危険なのは、軽率な判断と無鉄砲な行動です」
アインファクス様は腕を腹の前で組み、異様なほど冷静な瞳でジェロニモ様を見つめます。普段から落ち着き払った彼ですら、首筋には脂汗が滲んでおられる。私はこのただならぬ事態に、身震いすら覚えました。
「陛下。ジェロニモ様はああ仰いますが、コボルト騎兵と竜騎兵では、プロアニアの機械化軍団になす術がありません。私達に向くのはむしろ、地の利を生かした籠城と、経験に裏打ちされたゲリラ的な奇襲でしょう」
「アインファクス君、君はこれまで通りの戦闘を続けるのが得策だと考えているのだね?」
アインファクス様は思索に耽り、回答に至ったのか、姿勢を少し崩して答えました。
「籠城は相手を打ち負かすには不向きな戦術です。もし陛下に、戦う意思があるのであれば、また違った上奏をすることも出来るでしょう」
陛下は静かにアインファクス様を見上げます。何か良い案を求めるために、しおらしい瞳が彼を捕らえています。アインファクス様は小さく唸りました。
「私は、ジェロニモ様の意見は一つ考えられる案だと思っております。もし陛下に、臣民の犠牲を強いてでも、戦う意思がおありならば、先ずはジェロニモ様の言う通りに報復をし、その後すぐに籠城に戻るという手も十分に考えられます」
アインファクス様は、城壁の前に立つオリエタスの絵画を背負い、奏上されました。すかさず隣に立つフッサレル様が悲鳴のような高い声を上げました。
「いいえ、考えられません!いいですか、地の利とは言いますが、スエーツ山脈の大トンネルは、もともとプロアニアがダイナマイトを用いて開拓したもの、その点で言えば詳細な地図を持っているのは、間違いなくプロアニアの方なのです!どこに伏兵が紛れているとも知らないような場所で、護国の戦士たちを危険にさらすわけにはいきません!」
「感情的になられるな、フッサレル様。貴方の言うように、戦いをトンネルで行うならば、地の利はあちらにあるでしょう。ですが、こちらには霊峰を駆け下りる屈強な騎兵がいるのも事実です」
「いいやあまりにも危険ですね!今から命令を出し、奇襲攻撃を仕掛けたとしても、あちらはトンネルの守りがおろそかになることを直ぐに察知して報復をするでしょうからね!」
城壁の絵画を背負う二人が、互いに険しい表情で睨みあっております。あまりに危急のことゆえに、両者ともが純粋な私見で以て、激しい議論を繰り広げているのです。
そうした強烈な対立は、特に陛下の苦手とすることでした。私が一瞥すると、殆ど泣きそうだった陛下は、最早小刻みに手を震わせており、皺の寄っている青筋が目立つ角ばったその掌を合わせて、祈るようなしぐさを取っておられました。
中道を、平等を行くという難しい道を、陛下は常に目指しておられる。それだけに、偏った優しさを持つ陛下が苦しむのは、致し方のないところではありました。
「大体、ベリザリオ様の故郷でしょう!?貴方こそ何かご意見を述べるべきではないですか!」
フッサレル様に意見を催促されてもなお、ベリザリオ様は何か空を指ではじきながら、ぶつぶつと皮算用をしておられます。その様子に我慢ならないのは、やはりジェロニモ様でした。
「おい、海軍の将だろう!?少しは国益のために頭を使ってはどうか!」
ベリザリオ様は殆ど言葉を無視しながら、この、空中で計算盤を弾く行為を、言葉とも鳴き声とも取れる独り言を呟きながら続けます。ジェロニモ様はついに激昂し、侍従たちがこさえてきたばかりの椅子を蹴飛ばしました。
思わず私が「あっ」と声を上げるのにさえ、彼は犬歯を剝きだして睨みつけるのです。私は侍従に怪我がないかを問い、急いでジェロニモ様の蹴った椅子を、彼のところに戻します。ベリザリオ様を除いて、ほかの家臣が腰かけるのに遅れて、ジェロニモ様は乱暴に椅子に腰を下ろされました。
「……まぁ、とにかくとして、大蔵卿としての私見を述べさせていただきますと、我が国の財政を人々の生命保全のために使うならば、継戦は困難です。人を思うならば国家を解体する覚悟で、降伏をする方がよほど無難でしょう。徹底抗戦をするというならば、文字通り総力戦で対峙しなければなりません。勝敗はおよそ見当がついていますが、あとはカペル王国に託して、ということになるでしょうね。プロアニアとはそういう脅威なのです」
リウードルフ様は投げやりな様子で答えます。彼の言葉には、民間人にまで攻撃をするとなれば、最早戦いは避けられないという、悲観的なニュアンスが込められていました。
「もし仮に、降伏をしたとすれば、ヴィルヘルム君は臣民を尊重してくれるだろうか?」
家臣一同が、思わず陛下を制止します。こう言ってはあまりにも不敬でしょうが、陛下のこの願いが非現実的であることくらいは、単なる侍従長である私でさえも、容易に予想がつくところです。
「陛下、滅多なことは仰らないように!我々家臣一同、護国の為に尽くしているのですよ!」
ジェロニモの言葉に、ベリザリオ様を除く全員が頷く。私にとっては、陛下の気苦労のために、陛下を非難することはさすがに憚られました。
「すまない。決断が遅い君主など、指導者の風上にも置けないだろう。私は小鹿だ、立つのも覚束ない」
陛下は杖に全体重を預けて項垂れました。その心中を察すると、我々一同まで暗く、悲しい気持ちに支配されてしまいます。
居心地の悪い沈黙が場を支配します。誰もが答えも思考もまるでばらばらで、足並みが揃わないもどかしさに焦り、また苛立ちを抱いておりました。
そんな居心地の悪い沈黙を破ったのは、ずっと空中を指で弾いていたベリザリオ様でした。
「半年。……半年あれば、ウネッザの市民を全員、本土に避難させられるかもしれません」
「ベリザリオ君……?それは本当か?」
ベリザリオ様は非常に悩んだ末に、「あくまで可能性としてですが」と続けます。
「陛下、これまでのプロアニア海軍の動向について考えると、彼らは海底から、商船を狙って攻撃を仕掛けています。ウネッザの市民は冬の嵐の時期までに食料を貯えられなければ、飢えて全滅してしまう。つまりプロアニアはカペル・エストーラ間の交易路を破壊して、ウネッザを壊滅させ、占領することで内海の制海権を狙っているのです。そうすれば、彼らはエストーラも極貧に陥れることが出来ると考えるでしょうから」
フッサレル様が険しい剣幕を彼に向けました。観光大臣として物流の何たるかを知り尽くした彼にとって、ウネッザとブリュージュの喪失は、帝国の破滅と殆ど同義に思われたのでしょう。しかし、ベリザリオ様ははっきりと、フッサレル様を意識して、陛下に断言されました。
「やはり私が二重の蓋をしていたことが、大いに役に立ったということです。搭乗人数の限界は非常に少ないですから、殆ど試運転をしないでウネッザへ処女航行となるでしょうが」
陛下は目を見開き、わなわなと唇を震わせます。ベリザリオ様はあくまで冷徹に、陛下に鋭い視線を向けました。
「陛下、覚悟はよろしいですか?航行が失敗すれば海の藻屑すら残らないかもしれません。私が求めるのは勇敢なモルモットだ。どうやって集められますか?」
家臣一同、ベリザリオの言葉を信じるしかありませんでした。既存の技術では、プロアニアの陰湿な攻勢に太刀打ちが出来ない。帝国文化の威信を守るためには、国体を護持するより道はない。
何より陛下が求めるのは、オリエタスの勝利の絵画を、人々が暴力や略奪に怯えずに、国籍さえも越えて楽しめるような幸福です。陛下の願いを叶え、陛下を輔弼することが、家臣にとっての最上の願いでした。
「私が勇気ある臣民に対するすべての責任を負う。ベリザリオ、どうかウネッザの人々を救ってくれないだろうか?」
縋るような陛下の瞳に対して、ベリザリオ様は静かに、しかし情熱的な眼差しを向けて、大きく頷かれました。