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鉄塔のアエネイス  作者: 民間人。
1901年
96/361

‐‐1901年夏の第二月第四週、カペル王国、デフィネル宮‐‐

 こうした話題に関しては、王よりも頼れる人物がいることを、リュカは良く知っている。長年国王代書人として仕えただけあって、宮廷の力関係にはいくらか自信もある。彼は王の住居に行くより早く、王妃の自室にノックをした。


「どなたですか」


 猫を被ったしおらしい声が響く。リュカはつい面白くなり、わざとらしい真面目な声で答えた。


「リュカです。貴方の恋文のマッキオですよ」


 ぎし、と椅子から立ち上がる音がする。彼は一歩後ろへ後退した。

 扉が開くと同時に、王妃の手が彼の胸倉を掴む。彼は短い悲鳴を上げ、冗談を弁面する余裕もなく、王妃の室内に引きずり込まれた。


「仮にも王妃をからかおうなんていい度胸ね。最近の代書人は宮廷道化師も兼ねているの?」


 アリエノールは乱暴に掴んだ胸倉を離す。リュカは酷く咳き込み、襟を整えながら彼女を見上げた。


 逆光で判然としないが、僅かに紅潮した彼女の顔に、彼は再びからかいたい衝動に駆られる。彼女が向かっていただろう机には、大量の国王への嘆願書が積み上げられていた。


「また仕事が増えたんじゃありませんか?」


「あの人もそれどころじゃないし、やっぱりやることがないのは性に合わないの」


 アリエノールはそっぽを向く。リュカは立ち上がると、膝についた汚れを払う。仕入れたばかりのインクに破損がないことも確かめると、梱包したままのそれを手近の花台に置いた。


「そんなところに置くと忘れるよ?」


「いやぁ、陛下じゃないんですから」


 リュカはからからと笑う。腹の底から漏れるような声は、思いのほか部屋に響いた。


 アリエノールは執務に戻るために椅子を引く。丈夫な麻の絨毯の上に、椅子を出し入れした跡が残っている。


 リュカはひとしきり笑った後、宮廷特有の花の香りを一杯に吸い込み、呼吸を整えた。王族の象徴であるアイリスの香りに混ざって、僅かな薔薇の匂いが漂ってくる。城外に植えられた花を空想で数えながら、リュカは話の切り出し方を悩む。眼前の女性は、歪曲な表現はあまり好みではなさそうである。


「王妃殿下、どうやらウネッザで何事かあったようです。物流が滞っている、と考えられます」


 王妃の手がぴたりと止まる。言葉の意味を吟味するまでもなく、彼女の本能が反射的に危機を察知した。


「リュカ。詳細を教えなさい」


 リュカは市場での出来事や、文具店での思わせぶりな助言について言及する。王妃は持ち上げたペンを一度インク壺にさし、膝に手を置いて彼の話を聞いた。


 言葉が途切れると、数秒の沈黙が訪れる。レースのカーテンが風に揺れ、風が薔薇の匂いを届ける。

 黄金の額縁で壁に掛けられた、カペルの宮廷画家に描かせたアリエノールの肖像画が向かいの壁を直視したままで微笑んでいる。その背景は、ウネッザからの富をカペル王国へ振り分けるようになった、王国の流通拠点ナルボヌの城である。彼女の背後にある窓からは、その穀倉地帯を一望できる。


「ウネッザからの流通が滞っている。ということは、エストーラからの各種支援はもはや望めない?」


「落ち着いて下さい。まだ俺の推測に過ぎないわけですし」


 王妃は顎に手を当て暫く停止する。その後、動きにくそうなドレスが音を立てるほど、無防備に足を投げ出した。


「いいえ、プロアニアからすれば合理的な選択だよ。流通の拠点を押さえてしまえば、カペル王国は袋の鼠も同然。彼らには頼みの綱のムスコール大公国が食料も金も工面してくれるだろうけど、こちらはそういうわけにはいかない。ウネッザを落とせば、戦況はカペルの不利に傾く」


「何より、ウネッザ人は商売人で、軍人のように不合理ではない。商いが上手ければ、損切りも上手い」


 アリエノールは顔を持ち上げる。椅子をゆっくりを尻で引き、勇ましいがに股で立ち上がった。


「リュカ、有難う。ちょっと席を外すね」


「えぇー。一人にされたら困りますよ」


 アリエノールは早歩きで部屋を後にする。その素早さに、リュカは殆ど走って彼女の後を追いかけた。

 追いかけようとしてすぐに、アリエノールが足を止める。リュカは慌てて止まり、何とかぶつからずに王妃の背中に追いついた。


 リュカは肩で息をする。アリエノールはしたり顔で振り返った。


「ほら、やっぱり忘れた」


 アリエノールは再び早歩きを始める。リュカは暫く呆然としていたが、慌てて王妃の部屋に駆け戻った。



 赤や白の薔薇が咲き乱れる明るい庭先で、アンリはレノー・ディ・ウァローと長年続く言い争いを続けていた。

 黄色い花と眩いばかりの太陽が照り付ける中、二人の顔はすっかり赤くなり、終に世継ぎが生まれる素振りもない、アリエノールには見切りをつけるべきだと、詰め寄る。自分の娘か、或いは初孫を娶ってもいいのだと、彼は何度もアンリに詰め寄った。彼もいい加減に堪忍袋の緒が切れていた。

 話の雲行きが怪しくなっていくと、アンリは話題を変えようとする。紅茶に手を伸ばしてみたり、庭師に小暑の時期に咲く花を尋ねたりする。心地よい風が二人の間を通り抜けるように、彼はレノーに進言の余地を与えないようにとおりかかる人に声をかけ続けた。


 彼の言葉が途切れたのは、その視界に異様に速い早歩きの女性が通りかかったためである。


「レノー閣下、妻の前でその話題は控えて頂こうか」


 アンリの表情に影が射す。その彫りの深さも手伝って、レノーは思わず身を竦ませた。彼は一歩ずつ後ずさると、踵を返して逃げるように立ち去っていった。


 レノーの後ろ姿が見えなくなるまで、アンリは彼を暗い表情で見つめる。深い彫に加えて眉間に寄った皺は、彼の巨体も相まって、振り返ったレノーの足を速めた。


 彼が庭から消えて数分後、彼の妻が彼を見つけ、息も絶え絶えの代書人を引き連れて迫ってきた。


「やぁ、アリエル!今日は天気がいいね!」


 彼は両手を広げ、陽気に声をかける。アリエノールは少し速度を落とし、アンリと向かい合った。


 庭園に咲く真っ赤な薔薇の花が、国王の陽気な笑みを一層輝かせた。

 呼吸のたびに強い花の香りを吸い込むため、リュカは荒い息遣いの合間に時折咳き込む。アリエノールは真剣なまなざしで、手を腰の前で組む。彼女の本性を隠すためのスカートの裾が、草についた露で塗れ、僅かに汚れていた。


「貴方、ウネッザがプロアニアに攻撃を受けているかもしれない」


 途端に、アンリの表情が曇った。アリエノールは黙って頷く。ようやく到着したリュカは、手を膝につけて項垂れている。


「アリエル、本当なのか?」


「詳しいことまでは分からない。でも、私の見立てでは、そう考えるのが妥当だと思う。とにかく、ヘルムート陛下に確認を取るか、直接調査をするかするべきだと思う」


「有難う、アリエル!ほら、リュカ、仕事だ。急ごう」


「へぇっ!?」


 リュカは短い悲鳴を上げる。髪の毛が逆立つほどに、彼は嫌な予感を感じ取った。アンリは彼が手に持った荷物を確かめると、満面の笑みを浮かべ、力強く肩を叩く。


「さすがはプロだな。もう準備しているのか。よし、待たせてはいけないな」


 アンリはリュカの手を半ば強引に引っ張る。彼は王妃に横暴を止めるように懇願の視線を送ったが、王妃はレノーが消えていった庭の方に、既に注目を逸らしていた。


「もう嫌だぁぁぁ……!!」


 リュカは悲鳴を上げながら、国王の腕力に任せるままに引きずられ、執務室へと連れ去られていった。


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