‐‐●1901年、夏の第二月第二週、エストーラ領ウネッザ‐‐
遥かに続く水平線の上を、幾つもの櫂を突き出した平らなガレー船が漂っている。本土の浜辺には、先日の嵐で打ち上げられた木材や積み荷の残骸が打ち上げられている。凪いだ海を得たガレー船は、大量の積み荷と乗組員を連れて、故郷の近海をジグザグに航行していた。
今朝から空は機嫌がよく、到着間近でお預けをされた船員たちの漕ぐ櫂には一層の力が入る。海鳥の群れが彼らを出迎えるようにウネッザ本島から飛んでくる。流れる雲の動きも穏やかで、船員たちの帰郷を待ちわびる天文教会が硝子張りの展望室から望遠レンズを光らせていた。
水平線の中にぽつりと浮かぶ潟の群島に、彼方の本土までを望める聖マッキオの天文教会、ピンクの旧元首官邸が彼らを暖かく迎え入れる。
気を緩められない長旅も終わり、諸手を挙げて喜ぶ船員たちの表情は晴れやかだ。汗まみれの男たちは、ますます覇気のある声を張り上げて、旅のゴールへ向けて進んでいく。
やがて水深は浅くなり、海底をぼんやりと覗くことが出来るようになる。船は杭と杭の間を迷いなく選びながら、ウネッザを別つ大運河へ向けて全速力で進んでいく。賑やかな広場から、大道芸人を囲む歓声が響く。故郷は目前に迫り、船員たちは、下船後のエールと野菜炒め、塩辛くない柔らかい肉が躍る机の上を想像する。彼らはよだれを飲み込み、最後の大仕事に差し掛かろうとした。
その時、水と水をかき分ける不気味な音が響きだす。背後から凄まじい速度で迫りくるそれに気づいた船乗りが一人、身を乗り出して水面を見おろす。彼らの後方に僅かだが、水泡が一直線に浮かんでいた。彼は振り返り叫んだ。
「巨大な魚が襲ってきてるんだ!」
「クラーケンか?それともいつかの人造人形?御伽噺じゃあるまいし!」
乾いた笑いが船上で起こる。水面を見た船員も頭を掻き、不満げに席に戻っていく。
彼が席に着きなおしたその直後、水面を進む水泡が、そのまま船の真下を潜った。
直後、ガレー船は中央から真っ二つに割れ、海水が数メートルの高さまで盛り上がる。船員と積荷が、諸共木片と混ざって吹き飛ばされ、弾け飛んだ船の残骸は海上に散乱した。その真上から水面に、船員たちが叩きつけられる。彼らは暫く呆然と水面に浮かび、何事が起ったのか分からない様子だった。
「お前たち!木片に捕まるか、泳いで本島まで進め!無事な奴は負傷者も庇ってやるんだ!」
どすの利いた船長の声に、船員一同が声を張り上げる。木片に捕まる者、泳いで町を目指す者、近くの船に助けを求める者、海老のように身を丸めて浮かんでいるだけの者……。彼らはなんとか自分が魚に食われないように、必死に海水を掻き分け進む。
続けて彼らの遥か南東側で、キャラベル船が同様に飛びあがる海水に船体を真っ二つに割られる。一縷の望みに縋って南東へ泳いでいた船員が悲鳴を上げた。水上には大量の木片が浮かび、巨万の富の象徴である香辛料がぷかぷかと漂っている。それらをかき集める者もないまま、生き延びた人々は必死に故郷へ向かって泳いでいく。
やがて何とか船着き場にたどり着いた船員たちは、息も絶え絶えになりながら広場の市民に両手を伸ばす。彼らの両腕を引っ張り上げた市民たちは、彼らにバスタオルを被せると、身を屈めて尋ねた。
「おい、一体何が起きたんだ!今の爆音は?」
「分からん!一直線に泡が迫ってきたんだ!まさか魚じゃあないだろう!」
「魚……泡……?」
市民は息を呑み、水面を見つめる。そこには普段よりずっと穏やかな、凪いだ海があるだけである。彼らの脳裏に、本土人が始めた戦争が脳裏をよぎった。
「一般市民を……?いや……まさか……、そんな馬鹿な。プロアニアか?」
女性の悲鳴が上がる。水面を揺蕩う積荷に混ざって、どす黒い血の色が広がっている。その正体を目で追いかけた人々は思わずえづくような声を上げた。
「見るな、見るな!子供たちに見せるな!すぐに積荷を引き上げろ!少しでも泳いできた人を助けろ!」
今度は本土側からの帆船がひとりでに吹き飛ぶ。船首と船尾が真っ二つに倒壊し、そのまま海底へと沈んでいく。人々の悲鳴が広場から広場へと伝播する。橋の上にいた人々が次々に地表に駆け込んでいく。茣蓙の上のコインを踏みつけられた両替商が叫ぶ。彼らも空いた橋の上で、硬貨と荷物を纏めると、足早に水の上から避難する。
色とりどりの建物が群れる、街角に追い詰められるように、人々は身を寄せ合って震えた。やがて何とか泳いできた人々を引き上げると、聖マッキオ広場に集まった市民たちも、船着き場から避難する。
海は赤黒く染まり、赤潮が点在するかのようである。積荷に向かっていく泡が、木箱ごと水を空へと弾き飛ばし、海鳥を巻き込んでいく。巨大な瓦礫が漂う海面を、人々は不安げに見つめていた。