‐‐1901年春の第二月第三週、エストーラ、ノースタット‐‐
宮殿へと戻る馬車に揺られながら、陛下は銀製の杖を脇に立てかけ、外の様子をひどく気にしておられました。
エストーラの千年城壁の跡地に設けられた、広く快適な環状道路は、今は人気もなく閑散としております。陛下の仰る通りに、臣民の多くは積極的に節制をするようになりました。臣民が塵の一つまで灰にして、洗剤として使うようになり、前線の戦士の為に私財を投げ打つ。以前であれば到底考えられないことです。軍需産業の工場に求人が殺到し、人々の関心が劇場から遠ざかっていきました。
陛下は節制の為に舞台での公的行事を極力控えるようになり、自らの食事や衣服に関しては普段にもまして節制されるようになりました。年齢も相まって体の衰えがますます進行し、陛下自身も時折心労に参っておられるように感じます。
陛下は瞼を重たそうに瞬かせ、横切る光景のもの悲しさを眺めておられます。故カサンドラ妃の記念碑や、居並ぶ住宅街の低い天井などが通り過ぎるたびに、陛下の瞼はますます重くなっているようでした。煌びやかな宝飾品が飾られたままの呉服店などが、硝子越しにがらんどうの店内を晒しており、名だたる名店の数々が軒を連ねる通りでさえ、ただ「休業」の看板が立てかけられているばかりです。
「……いつかまた、賑やかなこの大通りが見たいものだ」
「今は耐え忍ぶ時です。いつかまた、共に劇場で芸術を楽しむことが出来ますよ」
私は努めて明るく応じます。馬が小さく鳴くと、寂れた商店街の建物から、人々が顔を覗かせます。陛下は穏やかな笑顔で彼らに手を振り、彼らも控えめに手を振り返しました。
「ノア。宮殿に動物園があるだろう。私はあそこを一般公開したいと思っていてね。臣民が自然に興味を持ってくれれば、この国の未来は今よりずっと明るいものになるだろう。その時まで、あの場所を守れるだろうか?」
「守りましょう。私とて、陛下と同じ思いです」
戦いに無用な枷は不要です。それは長年生きていればすぐに分かることでしょう。それでも、陛下の願いを出来る限り叶えることも、家臣である私達の役目なのです。
「もし首都に危険が生じたら、その時は、私の命で償うつもりでいる。動物たちを出来るだけ殺さないでおくれ」
「それは……」
陛下は口角を持ち上げて、静かに微笑みます。
「動物たちの肉が必要になったら、私ではなく臣民に分け与えてくれ」
おいたわしや、陛下。
私は陛下の手を取ります。ごつごつとし節くれだった細い指には、僅かに温もりが残っています。私はさらに両の手でそれを包み込み、陛下の顔の前まで持ち上げます。
「陛下、どうかそんなことを仰らないで下さい。この国には陛下が必要なのです。これは理屈ではありません。私達、家臣の総意です」
陛下は眉尻を下ろし、顔を伏せられました。
「……すまない、ノア。いつも泣き言を言ってしまう。私の悪い癖だ」
「昔話をしませんか?私と陛下が出会った頃のことです」
確か、陛下と顔合わせをしたのは、陛下が即位した直後でした。当時はまだ若かった私は、同じく若い陛下のことを、気さくな方だと思いました。
年頃も近い私は、陛下の話し相手として、長く過ごすことになりましたね。その時、私は貴方のことを、無知な方だと、本気でそう思っていました。明るく優しいが、語学も私に習わざるを得ない、そんな無知なお方だと……。
いえ、わかっています。陛下は、その頃からひたむきに、臣民の為に尽くしておられたことも。そうした優しさが、今になってこうして祝福として帰ってくるなどとは、私は到底信じておりませんでしたが。
ベルクート離宮を始めてご覧になった陛下は、目を輝かせて「皇帝のお城だ」とはしゃいでおられましたね。今にして思えば微笑ましく懐かしい思い出ですが、当時は酷く顰蹙を買っておられました。
部外者のうつけ者だと、陛下への多くの陰口がありました。ご存じでしたか?
そういえば、当時から水晶を気にしておられましたね。ならばご自身へ対する宮中の評判も、ご存じだったでしょう。とにかく、あまり芳しくはなかったのです。この国は気位の高い国ですからね。
周りの言葉を知るうちに、陛下は本当に気を配られるようになりました。それは私自身、お傍で見ておりました。そうして本当に少しずつ、宮廷の侮蔑の雰囲気が溶けていったように思うのです。3年もすれば、陛下を部外者のうつけ者などと、陰で言う人はいなくなりました。
僭越ながら申し上げます、陛下。私達家臣は、長い時間をかけて、陛下のことを見定めておりました。その真実が今この国難に一致団結する覚悟となったのです。陛下は嫌うかもしれませんが、命の価値には優劣があると、私はそう断言します。何故なら、私の心が貴方を求めているからです。誰かの心が誰かを求めているように、私が陛下を求めている。だから、どうかそのようなことは仰らないで下さい。
「ノア……。すまないね」
「ふふ。有難うと言って下されば、どれほど良かったでしょう?」
馬車は長い環状道路を左折し、中心街へと繰り出していきます。日の当たらなかった薄暗い住宅地に、陽光の眩さが降り注いでおりました。
この日当たりのよい道を、馬は気持ちよさそうにたてがみを揺らして直進していきます。宮殿までの一本道、その中央を行く馬車が、光の花道を堂々たる威勢で進んでいきました。