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鉄塔のアエネイス  作者: 民間人。
1901年
88/361

‐‐●1901年春の第二月第二週、エストーラ、霊峰シュッツモート‐‐

 人は春のシュッツモートを『魔境』と呼ぶ。山頂を通り抜ける激しい風が降雪を巻き上げ、快晴でさえ雪嵐が起こる。適度に温くなった風は時に雪を溶かし、雪崩を頻発させる。元より険しい岩肌を登り山頂に至る為には、殆ど垂直でいつ崩れるかも分からない氷を掴んで登頂しなければならない。機嫌の変わりやすい天候も相まって、補助用の杖は必須であり、命綱なしで登ることなど到底できそうにない。

 それ故、春のシュッツモートを登頂するような蛮行は、およそ理性のある人間がする選択肢ではなかった。この霊峰を登頂するならば夏の降雪が少ない時期に、高山植物を基礎とした特有の植生を楽しみながらでなければならない。もしそうでないなら、その人物は恐らく人ではなく、人によく似た軽快なスケッチを描くもの好きか、あるいは人間とよく似た全く別の生き物か、どちらかだろう。

 例えば、小柄で筋肉質で、全身を体毛に覆われており、身体能力もずば抜けて高いコボルトのような亜人などは、好例と言って良い。


 そんな春の魔境シュッツモートを、飛び跳ねるように駆けていくコボルトの影がある。雪埃に肉球の跡を残しながら、彼は器用に、尖った岩肌から丸い岩肌へと、テンポよく渡っていた。


 やがて山頂にたどり着くと、質素な石を積み上げただけの墓が幾つかあった。そのコボルト、フェケッテと渾名される彼は、この名もなき共同墓地に屈みこむと、安酒をくるくると容器ごと回して泡立て始める。

 強い風が彼の体毛を撫でる。ごわついた毛は触り心地も悪く、汚れの目立たない黒色である。

 彼は泡立てた安酒を積み上げた石の上に注ぐ。全員分の墓場に酒をかけると、僅かに残った酒を一気に飲み干した。


 小さなげっぷが静寂の中で響く。


「……随分派手にやったもんだよな」


 フェケッテは独り呟くと、頭を掻きむしる。険しい気候で弱ったダニが体毛からはらはらと落ちていく。

 彼はそのまま墓の前に屈みこみ、一服を始める。安い紙煙草は帝国政府からの支給品で、彼らコボルトの間ではもっぱら金銭のように取引に使われている。前線の戦士たちにとって、未来に使える金は嗜好品ほど重要ではなかった。


「お前たちが死んだのは……反政府組織の時だったっけな。今はあの時よりも、酷いことになってるらしいぜ」


 ひゅう、と激しい風が吹き抜ける。湿った鼻に副流煙が纏わりつく。石を積み上げただけの墓に覆いかぶさる雪が、風にさらわれていく。


 彼は、西の悲惨な状況について、詳細を聞くことのできる立場にいる。帝国の命運をかけた籠城作戦は、プロアニアのカペル侵攻を益々加速させていく。いわば、エストーラの命運はカペル王国という騎士に委ねられたのである。

 もっとも、この帝国には、それほどの余力は残っていなかっただろう。フェケッテは、この国がコボルトの奴隷軍人に守られてきた過去を知っているし、大国という国体を、劇場と宮廷画家で保ってきたのを知っている。これらの虚飾は、現実の力を重んじるプロアニアを、超大国に育て上げる時間を与えてしまった。

 手元がフリーになった彼は、自らの手に馴染んだ武器を調整する。これは、プロアニアが恐らく2、3世紀は前に切り捨てたような技術であろう。彼は帝国の斜陽を見たくはなかったが、その理由は自分が否応なく巻き込まれるから、というそれだけの話であった。


「……あぁ。皇帝陛下は人気者になったよ。お前らも少しは報われたかな」


 煙を吸い上げるたびに、彼の心に重苦しい感情がのしかかる。強い風に煽られて、煙草は煙を墓の方へと靡かせる。


‐‐冗談じゃない。あいつのせいで同胞が何人も死んだんだ‐‐


 より正確に言えば、あの客人皇帝を招いた国体護持に狂った貴族だとか、それを拒んだ国体護持に狂った庶民だとか、或いは外国人に偏見を持つ狂った愛国主義者だとか、目に見えないものを信じる狂信者など、少なくとも彼にとってそういったものに見えた人々のせいである。それら全ての精神を逆なでしてまで皇帝になったヘルムートという人間を守らなければならなかったせいで、彼の友人の多くが命を落としたのである。


「……今更よ。臣民の命が一番大事だってのたまうのは、狡いと思うんだよな」


 そう思うなら初めから、皇帝に即位するという話を断れば良かったのではないか?それだけの話である。


 彼は身震いがして、短くなった煙草を思い切り吸い込むと、煙ごと感情を吐き出し、先程駆け上がった道を、宙を舞うように駆け下りていく。休憩の交代時間までは、僅か十五分しかない。彼は通常なら十五分かかる険しい岩肌を、僅か一飛び、ものの数秒で飛びぬけていく。彼の脳裏は、既に後輩に居場所を聞かれた時の言い訳を考えることで頭がいっぱいだった。


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