‐‐●1901年、春の第二月第一週、カペル王国、ヴィロング平原、プロアニア司令部‐‐
夜の表情はあまりにも優しかった。空には散りばめられた無数の星々が瞬き、祖国の薄く煙の立ち込める空では見えない小さな光の粒子が瞬いている。カード遊びをしながら戦友の遺品を傍らに置く兵士達が、少ない煙草を咥えながら笑っている。
ガスランプの淫靡なオレンジ色の灯りの下で、第二歩兵連隊の隊長は、故郷の新聞を広げていた。
防衛用の分厚い鉄骨を張り巡らせた簡易指令室には、国営自動車の真新しいエンブレムが輝いていた。車庫と連結した広い簡易テントの中では、暖かいスープと湯気を立てるコーヒー、一般兵達の笑い声が響いている。
軍の規律の面で言えば、隊長は彼らを怒鳴りつけて黙らせることも出来るし、戦場であれば実際にそうすべきである。しかし、規則の外にある好ましくない行為について、彼らに叱責を与えることは、軍の規則に反していた。隊長は時折横目で彼らの黄色い歯を一瞥しては、視線を故郷から届いた新聞へと戻した。
「注意されてもいいのに」
隊長は声の主人に一瞥を向ける。目前の女性は、机に両肘をつき、からかうような目つきではしゃぐ兵士達を見つめた。
「業務時間外の行動は規則外の行動でなければ自由です。我が国はそういう国ですので」
女性は目を細めて「ふぅん」と答える。彼女はますます面白そうに、膝を叩いて爆笑する男達姿を見つめた。
かつて自らが二度も拘束し、屈辱と恐怖を与えた相手である、マリー・マヌエラが、よもや自ら前線に赴いて兵士達の慰問をするなどと、誰が予想できるだろうか。ため息の一つさえカペル王国の貴族特有の優美さを持つ、この抜きんでて優美な中年女性は、プロアニアの生真面目な男たちを酷く気に入った様子で、いじらしい視線をよく向けている。それは、ちょうど、子供に親や親族が向けるような慈しみに満ちた表情である。
隊長は新聞で顔を隠す。兵士達は支給された軍服のうち、半そでやショーツを着ている。北側が寒冷な森林地帯、南側を険しい山脈地帯、中央を先の見えない黒い森に囲まれたプロアニアとは異なり、なだらかな丘陵や広い平原地帯、幾つもの河川が水路を繋ぐ温暖なカペル王国は、彼らからすれば天国のように過ごしやすい。そうした気候も手伝ってか、彼らは祖国では見せない陽気な表情を見せている。
「貴方こそ、無理をなさらずともいいのですよ。プロアニア兵には思うところもあるでしょう」
「部下は上司を選べないから、あの人らのことを憎むのはやめました」
若い青年兵士がマリーに手を振る。マリーは柔和に微笑んで手を振り返した。温い風が心地よく入り口から吹き込んでくる。
隊長は新聞を強く握る。皺になった紙が音を立てると、マリーが隊長に視線を戻した。
「私としては、あんな形でなく、貴方と出会いたかった」
‐‐そうでなければ、貴方に同情をして、祖国に疑問を抱くこともなかったろうに‐‐
彼は息を殺して、新聞の端からマリーの瞳を見つめる。顔半分を新聞紙に隠した彼女は、机に肘をついて兵士達をただ楽しそうに眺めていた。
広大で靴が不要ななだらかな床、長机を囲んでジョッキを傍らに置く兵士達。肥沃な土壌で育った色とりどりの果物はさらにきれいに盛り付けられ、兵士が気軽にその一片に手を伸ばす。テントの中には小さな台所もあり、流し台には洗われた飾り気のないコップが干されている。
彼女が持ち込んだ遊び道具に熱中する男たちの表情の豊かさと言ったら、プロアニア本国の沈んだ表情よりもずっと生き生きとした輝きに満ちていた。隊長はあれほどの笑顔を、祖国で見たことはない。老若男女問わず、彼が目にしたのは光沢のあるスーツに身を包んだ、瞳の濁った通行人たちばかりである。もし、平和で自由な交流が許されていたならば、プロアニアももしかしたら、こうした豊かな表情の色を得ていたのかもしれない。隊長にとって、それは望ましいとまでは言わないが、人間的な豊かさに満ちているように思えた。
「あがり!あがり!」
兵士が叫ぶ。マリーの拍手が響き、兵士達は互いに握手や抱擁をする。あがった兵士が上手そうにビールを仰ぐ。のどぼとけが嬉しそうに上下する。彼は一杯を飲み干すと、気持ちのいい歓声を漏らした。
「カペル王国には、ブリュージュのような楽園があるのでしょうか?」
兵士は音程の外れた歌を、肩に手を回して歌い始めた。隊長はごく冷静な口調で、壁に掛けられたガスランプの灯りを眺めている。
「カペルは豊かな土地ですよ。歌も遊びもファッションも、ブリュージュとは違っています」
優雅で女性的な細い指が動く。両の手でつかんだコップの中には、満杯の紅茶が入っており、アクセントに柑橘が添えられている。
隊長は故郷の低い空を思い出す。路地裏の貧民街に屯する汚れた労働者たち、皮のズボンの膝は擦り切れ、当て布で修復されている。
淀んだ水路にはゴミと工場廃液が浮かんでおり、油が浮かんで虹色のマーブル模様を作っている。その川に囲まれた霧雨館公会堂には、一面の芝と、多くの異なる様式をした建物群が並んでいる。
街路に一歩踏み出せば、バラックの工場群と高い煙突があり、ここから吹きあがる蒸気の熱気が顔を掠めていく。爆走する馬車は時には大根の根を拾う子供を轢きながら直進し、これが今では四輪自動車に取って代わった。統一されたエンブレムが、家畜のにおいをかき消す排気ガスのにおいをまき散らす。白熱電球で照らされた街路の下を、物憂い表情で労働者が歩いていく。
家畜の声に視線を向ければ、家の中には挽肉をソースの中で泳がせたハンバーグステーキが盛り付けられている。家族の団欒の間には、茶色の皿がずらりと並んでいる。
妻の太くあかぎれのある手が、行儀よくハンバーグを切り分ける。業務推進用の資料を片手に、民族衣装の男が片肘をついている。
‐‐この世の楽園とは、西の彼方にあるのだろうか‐‐
彼の脳裏に、抑圧されてきた欲望が続々と流れてくる。
欲しい。カペル王国のすべてが、豊かさのすべてが欲しい。自分たちよりもずっと恵まれた、薄汚れた空気のない、澄み渡る空で満天の星を見てみたい。女性の魅惑的な甘い溜息と、あのうまそうな柑橘付きの飲み物が飲みたい。町を歌いまわる吟遊詩人と、踊り狂う曲芸師に会ってみたい。地下の淫靡な雰囲気の中で、あの遊び道具で賭け事をしたい。与えたり、施したりする優越感を抱いてみたい。
だがしかし、規律、規律、規律。規律を守らなければ秩序が壊れてしまう。秩序が壊れれば世界は混沌として、守られることも出来ないし、奪う事ばかりが正しくなる。王がなければ何がそれを維持してくれるだろう?絶対の権威がなければ、自分が明日生きているかもわからない。
隊長は無表情を決め込んだまま、脳に流れ込んでくるあらゆる欲望に対して、論理で非難して押し込んでいく。細長い白い指が、白く光沢のある陶磁をそっと机に戻した。
「私の夫よりも、貴方達の方が、ずっとカペル王国の資源に相応しいと思います。だって彼らは、自分の守るべきものを放棄して、こんな風に差し出したのだもの」
マリーは両手を広げて微笑む。目は鋭く細いままで、その瞳には暗い光だけが映っていた。
「ご婦人。私が本当に欲しいのは、心の豊かさなのです。その為には、私達には体の豊かさがあまりにも足りない。あの国から、何かを分け与えて貰えるように、戦地に赴くのは果たして正しいでしょうか?」
マリーは目を細めて笑う。
「強者が支配を独占する。それが、カペル王国のしきたりです。同じ舞台に立たなければ、演者は対等にはなりえないでしょう?」
欲しい。あの息の詰まるような都市を逃れて、張りつめた心を癒す楽園が欲しい。隊長は口を引き結び、目を泳がせた。くしゃりと掴まれた新聞の端が、手汗でべっとりと濡れている。
「明日こそは奪い取ってみせよう。あのヴィロングの要塞と、この豊かな草原地帯を……」
温い風が通り過ぎていく。野営地の灯りが一つずつ消えていく。乾ききった隊長の唇に、熱いコーヒーが流し込まれた。