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鉄塔のアエネイス  作者: 民間人。
1901年
83/361

‐‐●1901年春の第二月第一週、カペル王国、ヴィロング要塞4‐‐

 一番星が空の中で目立たなくなる頃、互いの戦士は一旦相手への攻撃をやめた。塹壕には半分の兵士が残り、半分が新たな兵士と交代した。


 鉄兜は半目に肩を借りながら、野戦病院へと赴く。月光降り注ぐ中から、『軽傷』の文字が浮かび上がる場所で、鉄兜は城壁に寄りかかった。


 戦場のけたたましさと比べれば、野戦病院は静かなものである。濃厚な血と消毒液のにおいに、鉄兜は思わず顔を顰める。


 普段は農業を生業とする、歴戦の戦士たちが、鉄兜のよりかかる城壁の外周を埋め尽くしている。周囲には腕や脚に裂傷を負ったものや、鉄兜同様に塹壕足に罹ったものが多い。この場所における軽症とは、「死ぬほどではない」という程度のものでしかない。濃縮された血のにおいが、静寂のあまりにかえって強調される始末である。

 鉄兜は足を摩る。

 爪先から太腿にかけてが、ジョッキをひっくり返した時のように湿っている。足元に感じる強烈な痒みと疼くような痛みは、足がまだつながっているという証であった。


「俺たちはこのまま、足を腐らせて死ぬのかな……」


 氷輪は冷たく周囲を照らす。赤い灯の揺らぎに従って、被さる患者たちの影が揺らいでいる。


「この戦場じゃ、腕が一本吹き飛んだ奴の方が幸せだってさ。死ぬより安いからな」


 隣の男が答える。鉄兜が声に振り向くと、男は左の前腕が欠損していた。


「あぁ……」


 鉄兜は突如、激しい耳鳴りに見舞われる。彼は耳を覆い項垂れた。続けて、首が上下するほど、苛烈な着弾音が彼の鼓膜を揺すった。


「俺は明日、故郷に戻るんだ。名誉の負傷って触れ込みでな。どうだ、羨ましいか?」


 男の顔は真っ赤に腫れていた。なめし革の帽子の下には痛ましい瘤があり、青く腫れたそれが瞼を覆っている。耳の中で響く高射砲の轟音に、鉄兜は顔を上下に振るう。男は鉄兜から顔を逸らし、自嘲気味な笑みを零した。


「戦友が、家族が、支えになる。今の俺はそれが憎いよ」


 鉄兜の脳裏に、半目の暢気な表情が浮かび上がる。時折見せる鋭い視線や、栗鼠に餌を与える時の間抜けな表情。目ヤニを付けたまま塹壕にしゃがみ込む気だるげな姿が、彼の思考を埋め尽くした。


(じゃあ、また明日)


 半目は垂れた瞼を益々細めて、別れ際にそう言い放つ。深まる闇の向こう側で、誰かの呻き声が小さく聞こえる。これにつられて、耳の奥底から彼の鼓膜を挟み込む方に、炸裂した爆弾の音が響いた。


「ああ……ああ……」


 鉄兜は膝の中に顔を埋める。益々耳元で大きく響く着弾音が、男の痛ましい表情や姿から、徐々に色を奪っていく。暗く色彩を奪われた世界で、鉄兜は金切り声を挙げる。

 言葉にならない叫びは城壁を伝い、夜の湿った空気を震わせ、天高く輝く無表情の月に向けて響いた。


「また精神異常か。今日で何人目だ」


 白衣の男が駆け寄ってくる。修道士が鉄兜の腕を掴み、泣き喚く彼を二人がかりで担ぎ上げた。


 野戦病院には、狼の遠吠えがよく反響する。森の彼方まで響く呻き声や泣き声が、彼方此方で響いて濃縮されるのである。


 鉄兜が首を上下に振りながらなおも暴れまわるので、軍医は桶を持ち出して顔に水を浴びせる。

 途端に鉄兜は黙り、目を見開いて小刻みに震え出した。もはや表情の見えない瞳の奥では、光を失った青いレンズが揺らいでいる。


 彼は小刻みに震えていたが、暫くそのまま声を上げないので、軍医は修道士に対して、テントへの移送を指示する。修道士は放心状態の立派な装備の男を引き摺るようにしながら、緊急処置用のテントへと彼を運んでいった。


「あいつは故郷に戻れるのか?」


 片腕を失った兵士は、テントの方を見つめている。修道士に担がれた鉄兜は、足を延ばしたまま地面に引きずっている。それが草をかき分けるシャベルのように、けもの道を作った。


「さぁね。前の戦争ではこんな患者は出なかったから」


「戦えなくなったら送り返した方がいいぞ。俺みたいにな」


 男は左手を持ち上げて笑う。軍医は彼を一瞥すると、ハーブと蝦蟇の油で作った薬瓶を取り出した。男が眉間に皺を寄せ、手を引っ込める。軍医は薬瓶をしまうと、同じ懐からパイプと煙草の葉を取り出した。

 一仕事終えた軍医は一服を始める。夜の静けさをかき消すように、足元の草がざらりと音を立てた。


「こうも激務じゃあ、やってられないよ。まったく」


 彼はふかしたパイプを片手に、ゆったりとした動きで身を翻す。もくもくと煙を立てるパイプが風に揺蕩いながら、テントの方へと去っていった。


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