‐‐●1901年春の第二月第一週、カペル王国、ヴィロング要塞3‐‐
半目と鉄兜が大蛇の中に縮こまって、ずいぶんと経つ。爪先の爛れた仲間達は、弓を引くのも一苦労である。
彼らの頭上を、何度も弾丸が通過している。機関銃の音は必ず大蛇の背の上のどこかから響き、決して鳴りやまなかった。顔を出せばそれだけで脳天を貫通するほどに、弾幕の数は激しさを増していく。その間にも、次の大蛇を掘るために、爛れた足の仲間たちがスコップを手に進んでいく。中には魔法で削る者もあるが、彼らの魔法もスコップと五十歩百歩で、微々たる進歩だ。
弾道が時折奇妙な動きをして、塹壕の前後に落下することが増えている。彼らはなるべく耳をふさぎ、長弓に全体重をかけて矢を放った。
草原に落ちた矢が、人に当たる手ごたえは感じられない。弓矢は彼らの手足ではないのである。
鉄兜は、長い塹壕戦の中で、耳に特注の耳栓を作って詰めていた。彼は耐え難い爆音に晒される前に、事前に支度を出来る余力があったが、外の人々はそうではなかった。時に耳を塞ぎ、発砲と発砲の間に弓を打つ。連射回数は初めより格段に落ちていた。
「半目、耳、大丈夫か?」
「有難う。君のお陰でね」
半目はとろんとした目つきで、分けてもらった耳栓を軽く撫でる。一等感覚に優れた半目の身を案じ、鉄兜は何かと世話を焼くことが多くなった。半目は矢を放つと、すぐに次の矢に手をかける。鉄兜はその間に、弩の弦を引くためにハンドルを回した。
「弾が落ちるぞ!伏せろ!」
どこからともなく声がする。全員が一斉に塹壕に蹲った。泥濘の中に鉄兜の足が浸かり、荒れた爪先にしみる。彼は顔を歪ませ、着弾後しばらくしてから身を起こした。
「足、大丈夫?」
「深く掘りすぎて水溜りが出来たんだな……。臆病が嫌になるよ」
鉄兜が足を持ち上げる。沼のような泥が靴先に纏わり付いている。
半目は暫くそれを見ていたが、鉄兜の靴を掴んだ。
「脱いで」
「え?あぁ……」
鉄兜は靴を脱ぐ。水と泥で塗りたくられた靴は内側まで泥まみれで、足先は青白く変色している。元々は柔らかく細い鉄兜の指先は、酷く腫れてしまっていた。
半目は片膝をつき、足先についた泥土を拭う。鉄兜が苦悶の声を上げると、「我慢」とだけ答えた。半目は腰に帯びた飲用水を取り出すと、これで足を軽く洗い流す。最後にきれいに水気を取ると、白い粉末をたっぷり塗り付けた。
「っ……。それ、何?」
「砕いた石。蝋石だよ。農作業サボって泥の上で駄弁ってる奴が、これの軽いのになる時があるんだ。だからさぼる奴は蝋石を持ってる」
鉄兜は苦笑する。半目は顔を綻ばせ、鉄兜の腿を丸い石の上に乗せた。
「とりあえずそのまま、足を地面に付けないようにして待ってて」
半目は泥の付いた膝を払い、長弓を持ち直す。鉄兜は、太陽の前に立つ半目の眼差しを見上げた。
「……悪い」
半目の全身をばねにした長弓は天高く飛び、草原の中目掛けて弧を描いて落下した。
「お互い様だから。鉄兜がいないとつまらないし」
半目は歯を見せて笑う。半分開いた瞳は、強い陽光を受けて輝いていた。
半目の放った矢の周囲で、背の高い草がざらざらと揺れる。その揺れ目掛けて、矢の雨が降り注いだ。
「……ちょっと後退したな」
鉄兜が言うと、半目は小さく頷く。砲弾が彼らの頭上を通り過ぎ、ヴィロング要塞と塹壕の間に着弾した。
「一撃の精度が落ちている。あっちも疲れてるんだ」
半目は再び弓を持つ。石に乗せた鉄兜の腿と泥の間を、太った鼠が通り過ぎていく。機関銃の音が疎らになり、僅かに遠ざかっていく。先程草が靡いた真上から、氷柱の礫が降り注ぐ。
やがて、再び機関銃の発砲音が響きだした。地下では地鳴りが起こり、彼らの塹壕を揺らす。
鉄兜は空を見上げる。青く澄み渡る空の下を、白い雲が漂っている。その空を覆い隠すように、球形の影が何度も、何度も頭上を通り過ぎていった。砲弾の着弾に合わせるように、森から小鳥が飛び去っていく。彼は思わず深い溜息を吐き、目を閉じた。
(鳥は、いいな……)
彼は深く長い呼吸を繰り返す。皮膚が振動の感触を受け止める。小さな耳鳴りがする。頭の先や、爪先に、地鳴りが何度も響く。鉄兜はそのたびに、小鳥たちが森から外へ飛び去っていくのを見届けた。
その日の戦闘は、空に一番星が瞬く時よりも長く続いた。