‐‐1900年冬の第一月第一週、ムスコール大公国、サンクト・ムスコールブルク2‐‐
レフの朝のルーティーンは、いつしかアーニャと共にコーヒーハウスで新聞の一面を確認することに変わっていた。
早朝の人が疎らな時間に、彼らは互いの座る席を見つけて紙面を漁り、現状の世論を細かく分析した。
「プロアニア……手強いね」
アーニャは背もたれにもたれ掛かる。レフはコーヒーを飲み込むと、諦観のこもった笑みを返した。
「アンナ、これはどうしようもないぞ」
新聞紙の一面を飾るのは、新型兵器の活用についての提言である。宰相が物憂い表情で登壇する姿をとらえた写真と共に、「問われる世界平和への貢献 宰相閣下は『完全無視』の構え」との見出しが躍っていた。
オレンジの電灯が照らす店内を、コボルト奴隷達が持ち寄った陽気な歌が漂う。皿を拭く店主はすまし顔のままで、背後に並んだコップもオレンジ色の光を映している。
町はまだ昨日から続くぼた雪に降られて閑散としている。夜明けも間近だというのに、夜のような暗さのどす黒い雲が空一面を漂っていた。
レフは鋭い視線を受けて、頭を掻いて笑う。アーニャは鼻を鳴らすと、コーヒーに砂糖を加えて混ぜ始めた。
「起こってしまったものは仕方ないけれど、ここで何とかしないと、また政治責任がどうのと騒がれるよ」
「ああもう、困ったハイエナだ。プロアニアを止めるためにも、我が国が参戦の意向を示すのが得策だというのに」
「この国にいる以上、人命以上の尊ぶべきものはないわ。せめて何かきっかけがないと……」
二人はそこで唸り声をあげる。僅かに赤みがかった東の空に、雲の白い筋が混ざっている。太陽が市壁の向こう側を、赤黒いグロテスクな色に変えているようだった。
「プロアニアの不祥事は見えない。戦争にも正当な理由を付けてくる……。こうなると情に訴えるしかないが、虚構や冤罪を作ってしまう方が楽だよな……」
「ちょっと、ちょっと!それはダメでしょう」
アーニャがじっとりとした目つきで諫める。レフは顎を摩っていた手を彼女に向け、激しく振ってみせた。
「勿論しないけれど!だが、本当に恐ろしいのは、カペル王国が消滅でもした時だ。そこを突くのが現実的な問題だろう……」
レフが視線を逸らす。アーニャは眉間に皺を寄せ、首を横に振った。
「プロアニアなら融通してくれるって、本気で信じているに違いない」
「そう、そこがみそなんだよ!俺たちがどれだけ一か国に権力が集中することの危険性を訴えても、大衆の心は全てを話し合いが解決すると信じている……!現に今でも、あいつらはカペル王国とプロアニアが、仲裁すれば和平交渉できると信じているんだ」
彼方から、ざっ、ざっ、と雪を踏み込む音がする。夜が去り、黒い雲の裏側に白い明かりが灯り出す。足音に二人が視線を向けると、プラカードを持った人々が、狼の毛皮に身を包みながら城へ向かって歩き出した。
「パンと仕事を」
そう書かれたプラカードが、赤ら顔の男達によって運ばれる。彼らは物憂い表情で、瞳ばかりを潤ませながら、無言で城へと歩いていく。
「……また」
アーニャが言いかけるのを、レフが制止した。
「違う。見ない顔だよ」
家の灯りが灯りだし、朝の家事を始めた人々や、身支度を整える人々が彼らを覗き込む。フードを深くかぶった彼らの、訴えるような瞳に向けて、呆れた顔や、嘲笑の笑みが送られた。
先頭の男は下を向き、白い息を零しながら、消え入りそうな声を零す。
「仕事を下さい……。私達健康的な人々には、頼るべき人も居りません……。どうか助けて、凍え死んでしまう」
いかにもインテリの眼鏡の男が、それに続いて声を出す。まだ若く、張りのある声だ。
「ぼた雪が続いていますね……。僕は先日、集合住宅を追い出されました。住む家が無いと仕事には就けないと、職業安定所の人が言いました。僕には家がありません。帰るべき家が、ないのです」
細く白い息が、天へと登っていく。彼らは静かに、沈痛な面持ちで、列をなして歩いていく。そうすれば助けてくれる人がいると、誰かが示してくれた足跡を踏み固めるように。分厚いブーツの足跡が、列をなして、大通りを進んでいく。
彼方此方から、「がんばれ」という声援が起こる。それらはどこか他人行儀で、しかも僅かに笑い声が混ざっていた。
空に虹の雷はかからない。声援を送る人々は、ただ地上の群れを見つめている。
「嗚呼、この国はどうなってしまうんだ」
レフが頭を抱える。アーニャは静かに行進を見送る。ぼた雪の上にできた大きな靴跡の群れは、オレンジ色の街灯に浮き出されて数秒で、降雪の中へと溶けていった。