‐‐1900年冬の第一月第一週、ムスコール大公国、サンクト・ムスコールブルク‐‐
古い時代から受け継がれてきたエキゾチックで古風な大学の前に、最新の録音機器を手に持った報道者の一群が群れを成す。厳冬の豪雪をものともせずに、巨大な毛皮の群れは今か今かと主役の登場を待ちわびていた。
ひゅう、と音を立てる凍てつく風が、木枯らしに葉を奪われた黒い大樹の枝を揺する。降り注ぐぼた雪に窓を濡らされて、研究所長ベルナール・コロリョフは深い溜息を吐いた。
「今回の戦争について、新兵器の導入はあり得るのか?」
連日のインタビューに対し、「政府の決定によります」と一言答えるのは、彼に言いようのないストレスを与え続けた。
そもそも、彼の一存では決められないことである。
しかし、彼は公表した研究結果に対する正しい報告を政府にしかしていないため、安易に使用の論争が行われることはある程度致し方ないところではあった。彼はそれを良心からすり替えたのだが、空回りした良心は空回りした善意に誤解を与えてしまった。
ベルナールは眉間を押さえ、広げたレジュメの束の上に項垂れた。
研究所への移動のたびに行われる待ち伏せ行為は、何も彼だけの問題ではない。今まさに研究室を出ようとする教授達も、講義のために登校した様々な学部の学生達も、誰かれ構わずに彼らの洗礼を受ける。ベルナールの報道者嫌いは、ますます根深いものとなっていた。
「先生、そろそろお時間では……?」
予鈴の音が響き、隣室から同僚の声がする。ベルナールは暫くぼた雪に濡れた窓を見つめていたが、大きなため息を吐き、ついに重い腰を上げた。
彼が動くと同時に、写真機を片手に窓を睨んでいた男が声を上げる。玄関は大騒ぎとなり、各社の報道陣がここを囲い込むように群がった。一瞬の沈黙が起こった後、柱の外側で群れなす一群が、ついに開かれる扉に注目して手帳を構えた。
ところが、扉が開かれると、そこに立っていたのはプロアニア人風のスーツとシルクハットを身に着けた男だけであった。彼は用務員用の鞄を抱えて、仕事の終わりか休憩のために軽やかな足取りで階段から降りていく。激しいフラッシュが瞬く間に収まり、驚いた用務員はきょとんとした表情を浮かべる。
報道陣は明らかな落胆を示すと、親切そうな用務員のためにそぞろに道を開けた。閉ざされた海が割れるがごとく、隙間のない完全な包囲には風穴が開けられた。
その穴の中を、手を挙げて礼を示す用務員が通り抜ける。再び包囲が閉ざされると、若い白衣の男が現れて報道陣が群がった。
用務員の男はそれを一瞥すると、ぼた雪に傘をさして研究所への道を進む。彼は手帳の群れを背にしながら、「勝率は4割といったところか……」と独り呟いた。
ムスコールブルク大学は、歴史はあるが敷地が非常に狭く、研究所を別棟として建てることに特別な非難は浴びせられなかった。
それは幸運なことのようにも思われたが、ベルナールはこの国の、「研究者擁護の文系官僚社会」には、愛想つかされると感じていた。
数字の読み書きと文字の読み取りに特化した官僚たちは、科学研究のことをコストの大きい賭け事と考えている節がある。彼らが必要な研究に難色を示すのも、それが「必要なステップ」だというのを無視して、「研究成果はつくのか」という結論から入ることが大きい。彼はそうした研究成果至上主義の品定めが嫌いだった。就任演説の際のレトリックも、その主題は必要性で、我ながらうんざりする。
ベルナールはお気に入りのソファに腰かけると、用務員用の鞄から厳重な鍵をかけたアタッシュケースを取り出す。アタッシュケースの鍵を手際よく開くと、中から研究資材と共に、大量の解説書が現れた。彼は解説書の類を先ずは脇に寄せ、研究用の資材を支度する。これは簡単なもので、魔法によって作動させることを意図とした発熱球と一般的な電飾の二つである。これら二つの研究資材によって、彼は実際に光速度の不変を前提に、時間・質量の可変を説明する努力を続けている。しかし、これは、大衆にとって難儀な説明であり、既存の価値観からは到底理解しえないのである。『時間は一定』で『速度エネルギー』が『質量』に代わることなど到底考えられないと判断されてしまうのは、目視ではこれらの事象が証明不可能な以上は致し方ないことである。それを何とか説明することに、ベルナールは心血を注いでいるのである。
彼は解説書に何度か書き込み、書き込んでは消していく。数値上の観測と結果の兵器への結実が、彼の正しさを証明しようとも、目で理解するに勝ることはない。彼は頭を掻きむしると、項垂れて呟いた。
「いっそあの実験結果を見せてしまいたいものだ」
何度か不毛な文書の記載と削除を繰り返す。彼がそうしているうちに、修士や博士の若い研究者たちが続々と研究所に入所してくる。
彼が諦めて研究所の運営に関わる雑務に勤しんで暫くたつと、白く清潔な扉がノックされた。執筆用の丸眼鏡をはずし、彼は「どうぞ」と続ける。扉を開けて顔を見せたのは、宰相、シリヴェストールであった。
扉と水平の位置に置かれた観葉植物とベルナールの視線の交差したあたりで一度立ち止まった彼は、会釈をすると、口ごもった声で言い放った。
「我が国の今後についてお話をしたい」
「おかけください」
ベルナールがシリヴェストールをソファに案内する。自分のデスクでの事務作業に区切りをつけると、彼は宰相と向かい合って座った。
「本来、このような決定は我々政府が下すべきであるというのは重々承知しているのですが……。専門家の見解なくして、結論を急ぐことは出来ないのです。書面と共に、どうか直接、ご意見を頂きたく存じます」
ベルナールは憔悴しきった宰相に仲間意識を抱いた。彼と違い、静かな研究室の一角に、書誌に守られた聖域があることを、彼は強く感謝した。
「私の見解としては、プロアニアの侵略行為に対する報復として、新兵器の利用をすることは、絶対に反対です。それは宰相閣下ご自身の立ち位置からも推察される通りのことですが、それを差し引いても、人的な被害の膨大さ、研究活動への被害の甚大さから明らかに不釣り合いな損失が生じると考えられるからです。また、カペル王国やエストーラへの使用も反対させていただきたい。カペル王国は先進諸大国の胃袋でもあります。飢饉の危難は去りましたが、今後のことを考慮すると、食糧生産力の大きい彼らの農地を破壊することは、未来へ対する殺人行為となります。エストーラについては、歴史ある帝国として、各種の遺産や文化が残っている点を考慮するべきです。彼らの都市が一つでも破壊されれば、それらの歴史に多くの愛着を持つ人々から非難を受けることになるでしょう」
ベルナールは矢継ぎ早に答える。シリヴェストールも頷きながら、彼の見解を纏める。防音の分厚い壁に守られた聖域で、観葉植物が彼らの言葉に耳を傾けている。
「ご意見有難うございます。では、そのような意見書をご提出いただくことは可能でしょうか」
シリヴェストールは縋るような視線をベルナールに送る。彼は聖域の為に口を噤んだ。
気まずい沈黙が場を支配する。二人の呼吸音だけが静かに響き渡った。
ベルナールは視線を落としたまま、ただ項垂れた。
「……分かりました、先生。私にも手はあります」
宰相は低く抑えた声で言うと、懐から封書を取り出し、それを机の上で滑らせた。ベルナールの眉が僅かに動く。彼は封書を奪うように取ると、慌てて書面を取り出した。
ベルナールの唇がわなわなと震え始める。怒りのあまりに顔が真っ赤に変色し、書面に釘付けになった瞳はみるみる鋭くなっていった。
シリヴェストールは一転して強気の姿勢で手を組む。防音の壁から僅かでも漏れ出ないような小さな声が、ベルナールの鼓膜を刺激した。
「研究には随分と金が要ったようですね。私は、この兵器の価値を知る数少ない投資者を押さえております」
研究費の内訳と、政府の研究補助金の比較が記された書面は、真っ赤な数字が並んでいた。
もう一枚の書面には、研究所の決算報告書が記されている。それは、僅かな黒字が記されており、大学に提出され、公表されているものであった。
ベルナールは鋭い視線の切っ先を宰相に向ける。目前の男は口の端で微笑みながら、回答を待っていた。
「貴方達が下さらなかった分を、ただ工面してもらっただけだ。何故、文官はいつもそうなのですか?」
「文字の内側にある、人の心に精通しているのが文官なのですよ。さて、貴方は賢明な選択をするべきです。私が知る通りの罪を曝け出すのか、世界の為に必要な見解を述べるのか、二つに一つ」
ベルナールは手を震わせながら書面を下ろす。苦悶の表情を浮かべながら、新たな意見書を取り出した。
防音室の天井には、黒い影が伸びている。二人分の影のうち、一つは震え、一つは前屈みになりながら、長い時間顔を向かい合わせていた。